芥川の怪談

橋平礼

文字の大きさ
19 / 33
『澁谷怪談』

三、残影の毒 ―― 消えた男の行方

しおりを挟む


三、残影の毒 ―― 消えた男の行方

「危ない!」

 誰かが絶叫した気がした。いや、それは私の脳髄が発した、最後の理性の悲鳴だったのかも知れない。

  眼前に迫る電車の前照灯(ヘッドライト)は、あたかも冥府の入り口に燃え盛る劫火のように、私の網膜を真っ白に焼き付けた。直後、鼓膜を震わせる金属の軋み――巨大な鉄の塊が、断末魔のような呻きを上げて私の鼻先をかすめ、猛然と通り過ぎてゆく。

  間一髪であった。

 冷や汗が、全身の毛穴から毒液のように噴き出す。心臓は肋骨を突き破らんばかりに脈打ち、その衝撃は喉元まで競り上がってきた。私は、まるで泥沼から這い上がる罪人のような無様な手つきで、必死にコンクリートの床を掴み、体勢を立て直したのである。

  そして、まだ震えの止まらぬ膝を支えながら、隣にいたはずの「あの男」を、必死に探した。

 だが、そこには――ただ、空虚な夜風が吹き抜けているばかりであった。

 あんな至近距離、私の鼓膜に直接死臭を吹き込んだはずの男が、影も形もなく消え失せている。ホームには、停車した車両の扉が吐き出す群衆が、何事もなかったかのように溢れ出していた。彼らはやはり、無表情な仮面を貼り付けたまま、私の側を擦り抜けてゆく。

  その雑踏の中に、右袖を空しくなびかせた男の姿は、どこにも見当たらない。

(……幻覚、であったのか?)

 私は、崩れ落ちそうな自尊心を繋ぎ止めるため、そう自分に言い聞かせようとした。これは過労が見せた一時の悪夢だ、現代の合理的な社会に、右腕を探す亡霊など存在して良いはずがない――と。

  しかし、私の右耳の奥には、今もあの男の生々しい吐息の感触が、冷たい澱(おり)のようにこびりついて離れない。それは物理的な感触を超え、私の存在の核をじわじわと侵食してゆくような、確かな「毒」であった。あれは絶対に、気の迷いなどという生易しいものではない。

 周囲の乗客が、私に対して冷ややかな視線を送ってくるのが判った。

 「あいつは、一人で何を騒いでいるのだ」

 「気でも触れたのではないか」

  彼らの瞳には、憐憫よりも先に、異物を排除しようとする冷徹なエゴイズムが宿っている。私は、その視線の刃に射すくめられ、目の前の電車に乗る勇気さえ、霧散してゆくのを感じた。私はただ、石像のようにその場に立ち尽くし、一本の電車を見送ることにしたのである。

 その後、私は取り憑かれたようにホームを彷徨った。

  ベンチの裏、鉄柱の陰、さらには非常階段の奥の闇まで。私は、あの男がどこかで薄ら笑いを浮かべて隠れているのではないかと、執拗に検分して回った。しかし、結果は空疎であった。男の形跡は、最初からこの世になかったかのように、完全に消滅していた。

 以来、私は澁谷の駅を利用するたびに、無意識のうちに自分の右腕を、その皮膚を剥ぎ取らんばかりの力でさすってしまう。

  あの男は、今もこの喧騒のどこかに潜み、誰かの耳元で「失ったもの」を探し続けているのではないか。そして、もし――もし、誰かが好奇心や偽善の心に駆られ、「はい、知っています」と答えてしまったら。その瞬間に、何が起こるのか。

 おそらく、男は満足げな笑みを浮かべ、その者の「健やかな腕」を、一片の未練もなく捥(も)ぎ取って去ってゆくに違いない。そして、残された者は、中身のない袖を虚空になびかせ、また次の犠牲者を求めてホームを彷徨うことになるのだ。

 それ以来、あの男を見ることは二度とない。

  だが、夜のホームで風が袖を揺らす音を聞くたびに、私の脊髄には、あの時の冷たい吐息が、氷の刃となって蘇る。

  私たちは皆、平穏な日常という名の薄い氷の上を、片腕のない亡霊に見つめられながら、危うい足取りで歩いているに過ぎないのである。

 ふと、自分の右手を見る。

  そこには、あの夜についたはずの手形は、もう見えない。

  しかし、指先の感覚は、今なお僅かに、私自身の血を拒絶するかのように冷え切ったままである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

意味が分かると、分からないと怖い話【体験談+】

緑川
ホラー
ショートショートの寄せ集め。 幻想的から現実味溢れるものなど様々、存在。 出来の良し悪しについては格差あるので悪しからず。

意味がわかると怖い話

井見虎和
ホラー
意味がわかると怖い話 答えは下の方にあります。 あくまで私が考えた答えで、別の考え方があれば感想でどうぞ。

(ほぼ)5分で読める怖い話

涼宮さん
ホラー
ほぼ5分で読める怖い話。 フィクションから実話まで。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

処理中です...