2 / 33
墨汁(ぼくじゅう)
しおりを挟む
深夜二時のコンビニエンス・ストアというものは、都会の砂漠に浮かぶ、硝子張りの水族館に似ている。
アルバイト店員の佐藤は、ただ独り、死の如き静寂に包まれた店内に立っていた。蛍光灯の白々しい光は、棚に並んだ色とりどりの商品を、あたかも供え物の如く不気味に浮かび上がらせている。彼は、石炭を運ぶ貨車のように疲れ切った体を引きずり、レジの奥にある監視カメラの受像機(モニター)を、虚ろな眼で眺めていた。
ふいに、その受像機の一角に、異様なものが映り込んだ。
アイスケースの並ぶ通路――そこには、誰もいないはずであった。しかし、画面の中には、まるで「墨汁をこぼしたような黒い塊」が、点と落ちている。それは光を吸い込み、周囲の色彩を拒絶するような、どす黒い虚無の塊であった。
佐藤は思わず眼を擦った。しかし、黒い塊は消えない。それどころか、それは不定形の輪郭を僅かに震わせ、そこにあるのが当然であるかのように、タイル張りの床に居座っているのである。
「……何だ、あれは」
彼は好奇心と、それを上回る得体の知れぬ嫌悪感を抱きながら、カウンターを出た。実物を確認せねばならぬという、職業的な義務感に背中を押されたのである。彼は問題のアイスケースの前まで足を運んだ。
しかし、そこには何もない。
白々しい床が広がり、冷凍庫の唸り声が、病人の呻きのように響いているばかりであった。彼は自嘲気味に鼻で笑った。レンズの汚れか、あるいは疲労が生んだ幻視に違いない。自尊心の強い彼は、自分が幽霊の如きものに怯えたことを恥じ、足早にバックヤードへと戻った。
ところが――受像機を覗き込んだ瞬間、彼の脊髄を氷の刃が走り抜けた。
黒い物体は消えていなかった。それどころか、先ほどよりも一歩分だけ、着実にレジカウンターへと近づいているのである。
画面の中の物体は、まるで意思を持っているかのように、カメラのレンズを凝視しているようにも見えた。佐藤は戦慄した。実体がないにも拘らず、鏡(レンズ)の中だけに存在するその暗黒は、我々の住む「現実」をじわじわと侵食し始めているのではないか。
その時である。
「ピンポーン――」
深夜の静寂を切り裂いて、入店を告げる電子音が鳴り響いた。
佐藤は弾かれたように正面の自動ドアを仰ぎ見た。しかし、硝子の向こうには、銀鼠色の夜闇が広がっているばかりである。扉は堅く閉ざされたまま、微動だにしない。
それなのに――受像機の中では、光学的真実を嘲笑うような光景が展開されていた。
自動ドアを、あの「黒い何か」が、水が染み込むようにすり抜けてくる。一つではない。二つ、三つ……墨汁を孕んだ筆を振ったように、黒い塊が次々と店内に侵入してくるのである。それらは蜘蛛のような、あるいは這いずる赤子のような卑俗な動きで、什器の陰、カメラの死角を選びながら、確実に佐藤の立つレジへと距離を詰めてくる。
佐藤は受像機を凝視したまま、一歩、後ずさりした。
画面の中の黒い塊は、今やレジの目の前まで到達している。しかし、彼が直接その場所を見ても、そこにはただ、無機質なカウンターがあるだけなのだ。
そこで佐藤は、ある恐るべき事実に思い至った。
受像機に映っているのは、既知の「過去」でも、同時刻の「現在」でもない。それは、我々の感覚を数秒だけ追い越した「未来」の投影なのではないか。
今、画面の中で起きている惨劇は、間もなく彼の身に降りかかる、不可避の運命なのだ。
再び、耳元で入店音が鳴り響いた。
「ピンポーン――」
目の前の自動ドアが、今度は「誰もいないのに」音を立てて開いた。
見えない何かが、冷たい夜風と共に店内に流れ込んでくる。佐藤は叫ぼうとしたが、喉は乾いた石膏のように固まり、声にならない悲鳴が肺の奥で溺れている。
彼は、最後の力を振り絞って受像機を見上げた。
そこには、一人の男が映っていた。
――佐藤自身である。
画面の中の佐藤は、足元から這い上がってきた無数の「黒い塊」に組み伏せられていた。墨汁のような暗黒は、彼の口、鼻、耳、そして眼球の隙間から、容赦なく体内へと流れ込んでゆく。
彼の肉体は、内側からどす黒く染まり、皮膚の下で何かが蠢いている。自尊心に満ちた彼の「自己」という器が、得体の知れぬ他者によって、無残に塗り潰されてゆく瞬間であった。
ふと、佐藤は気づいた。
自分の視界が、急速に銀鼠色から漆黒へと塗り替えられてゆくことに。
受像機の中の彼は、今や完全に「黒い塊」と同化し、こちらを向いて薄ら笑いを浮かべていた。
……数秒後、店内に一人残されたのは、佐藤であって佐藤ではない「何か」であった。
自動ドアは静かに閉まり、深夜のコンビニエンス・ストアは、再び水族館のような静寂を取り戻した。
ただ、受像機のモニターだけが、誰もいなくなった店内の床に、ぽつりと落とされた「墨汁の跡」を、いつまでも冷ややかに映し出し続けていたのである。
アルバイト店員の佐藤は、ただ独り、死の如き静寂に包まれた店内に立っていた。蛍光灯の白々しい光は、棚に並んだ色とりどりの商品を、あたかも供え物の如く不気味に浮かび上がらせている。彼は、石炭を運ぶ貨車のように疲れ切った体を引きずり、レジの奥にある監視カメラの受像機(モニター)を、虚ろな眼で眺めていた。
ふいに、その受像機の一角に、異様なものが映り込んだ。
アイスケースの並ぶ通路――そこには、誰もいないはずであった。しかし、画面の中には、まるで「墨汁をこぼしたような黒い塊」が、点と落ちている。それは光を吸い込み、周囲の色彩を拒絶するような、どす黒い虚無の塊であった。
佐藤は思わず眼を擦った。しかし、黒い塊は消えない。それどころか、それは不定形の輪郭を僅かに震わせ、そこにあるのが当然であるかのように、タイル張りの床に居座っているのである。
「……何だ、あれは」
彼は好奇心と、それを上回る得体の知れぬ嫌悪感を抱きながら、カウンターを出た。実物を確認せねばならぬという、職業的な義務感に背中を押されたのである。彼は問題のアイスケースの前まで足を運んだ。
しかし、そこには何もない。
白々しい床が広がり、冷凍庫の唸り声が、病人の呻きのように響いているばかりであった。彼は自嘲気味に鼻で笑った。レンズの汚れか、あるいは疲労が生んだ幻視に違いない。自尊心の強い彼は、自分が幽霊の如きものに怯えたことを恥じ、足早にバックヤードへと戻った。
ところが――受像機を覗き込んだ瞬間、彼の脊髄を氷の刃が走り抜けた。
黒い物体は消えていなかった。それどころか、先ほどよりも一歩分だけ、着実にレジカウンターへと近づいているのである。
画面の中の物体は、まるで意思を持っているかのように、カメラのレンズを凝視しているようにも見えた。佐藤は戦慄した。実体がないにも拘らず、鏡(レンズ)の中だけに存在するその暗黒は、我々の住む「現実」をじわじわと侵食し始めているのではないか。
その時である。
「ピンポーン――」
深夜の静寂を切り裂いて、入店を告げる電子音が鳴り響いた。
佐藤は弾かれたように正面の自動ドアを仰ぎ見た。しかし、硝子の向こうには、銀鼠色の夜闇が広がっているばかりである。扉は堅く閉ざされたまま、微動だにしない。
それなのに――受像機の中では、光学的真実を嘲笑うような光景が展開されていた。
自動ドアを、あの「黒い何か」が、水が染み込むようにすり抜けてくる。一つではない。二つ、三つ……墨汁を孕んだ筆を振ったように、黒い塊が次々と店内に侵入してくるのである。それらは蜘蛛のような、あるいは這いずる赤子のような卑俗な動きで、什器の陰、カメラの死角を選びながら、確実に佐藤の立つレジへと距離を詰めてくる。
佐藤は受像機を凝視したまま、一歩、後ずさりした。
画面の中の黒い塊は、今やレジの目の前まで到達している。しかし、彼が直接その場所を見ても、そこにはただ、無機質なカウンターがあるだけなのだ。
そこで佐藤は、ある恐るべき事実に思い至った。
受像機に映っているのは、既知の「過去」でも、同時刻の「現在」でもない。それは、我々の感覚を数秒だけ追い越した「未来」の投影なのではないか。
今、画面の中で起きている惨劇は、間もなく彼の身に降りかかる、不可避の運命なのだ。
再び、耳元で入店音が鳴り響いた。
「ピンポーン――」
目の前の自動ドアが、今度は「誰もいないのに」音を立てて開いた。
見えない何かが、冷たい夜風と共に店内に流れ込んでくる。佐藤は叫ぼうとしたが、喉は乾いた石膏のように固まり、声にならない悲鳴が肺の奥で溺れている。
彼は、最後の力を振り絞って受像機を見上げた。
そこには、一人の男が映っていた。
――佐藤自身である。
画面の中の佐藤は、足元から這い上がってきた無数の「黒い塊」に組み伏せられていた。墨汁のような暗黒は、彼の口、鼻、耳、そして眼球の隙間から、容赦なく体内へと流れ込んでゆく。
彼の肉体は、内側からどす黒く染まり、皮膚の下で何かが蠢いている。自尊心に満ちた彼の「自己」という器が、得体の知れぬ他者によって、無残に塗り潰されてゆく瞬間であった。
ふと、佐藤は気づいた。
自分の視界が、急速に銀鼠色から漆黒へと塗り替えられてゆくことに。
受像機の中の彼は、今や完全に「黒い塊」と同化し、こちらを向いて薄ら笑いを浮かべていた。
……数秒後、店内に一人残されたのは、佐藤であって佐藤ではない「何か」であった。
自動ドアは静かに閉まり、深夜のコンビニエンス・ストアは、再び水族館のような静寂を取り戻した。
ただ、受像機のモニターだけが、誰もいなくなった店内の床に、ぽつりと落とされた「墨汁の跡」を、いつまでも冷ややかに映し出し続けていたのである。
1
あなたにおすすめの小説
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
