芥川の怪談

橋平礼

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墨汁(ぼくじゅう)

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深夜二時のコンビニエンス・ストアというものは、都会の砂漠に浮かぶ、硝子張りの水族館に似ている。

 アルバイト店員の佐藤は、ただ独り、死の如き静寂に包まれた店内に立っていた。蛍光灯の白々しい光は、棚に並んだ色とりどりの商品を、あたかも供え物の如く不気味に浮かび上がらせている。彼は、石炭を運ぶ貨車のように疲れ切った体を引きずり、レジの奥にある監視カメラの受像機(モニター)を、虚ろな眼で眺めていた。

 ふいに、その受像機の一角に、異様なものが映り込んだ。

 アイスケースの並ぶ通路――そこには、誰もいないはずであった。しかし、画面の中には、まるで「墨汁をこぼしたような黒い塊」が、点と落ちている。それは光を吸い込み、周囲の色彩を拒絶するような、どす黒い虚無の塊であった。

 佐藤は思わず眼を擦った。しかし、黒い塊は消えない。それどころか、それは不定形の輪郭を僅かに震わせ、そこにあるのが当然であるかのように、タイル張りの床に居座っているのである。

「……何だ、あれは」



 彼は好奇心と、それを上回る得体の知れぬ嫌悪感を抱きながら、カウンターを出た。実物を確認せねばならぬという、職業的な義務感に背中を押されたのである。彼は問題のアイスケースの前まで足を運んだ。

 しかし、そこには何もない。
 白々しい床が広がり、冷凍庫の唸り声が、病人の呻きのように響いているばかりであった。彼は自嘲気味に鼻で笑った。レンズの汚れか、あるいは疲労が生んだ幻視に違いない。自尊心の強い彼は、自分が幽霊の如きものに怯えたことを恥じ、足早にバックヤードへと戻った。

 ところが――受像機を覗き込んだ瞬間、彼の脊髄を氷の刃が走り抜けた。

 黒い物体は消えていなかった。それどころか、先ほどよりも一歩分だけ、着実にレジカウンターへと近づいているのである。

 画面の中の物体は、まるで意思を持っているかのように、カメラのレンズを凝視しているようにも見えた。佐藤は戦慄した。実体がないにも拘らず、鏡(レンズ)の中だけに存在するその暗黒は、我々の住む「現実」をじわじわと侵食し始めているのではないか。

 その時である。

「ピンポーン――」

 深夜の静寂を切り裂いて、入店を告げる電子音が鳴り響いた。
 佐藤は弾かれたように正面の自動ドアを仰ぎ見た。しかし、硝子の向こうには、銀鼠色の夜闇が広がっているばかりである。扉は堅く閉ざされたまま、微動だにしない。

 それなのに――受像機の中では、光学的真実を嘲笑うような光景が展開されていた。

 自動ドアを、あの「黒い何か」が、水が染み込むようにすり抜けてくる。一つではない。二つ、三つ……墨汁を孕んだ筆を振ったように、黒い塊が次々と店内に侵入してくるのである。それらは蜘蛛のような、あるいは這いずる赤子のような卑俗な動きで、什器の陰、カメラの死角を選びながら、確実に佐藤の立つレジへと距離を詰めてくる。

 佐藤は受像機を凝視したまま、一歩、後ずさりした。
 画面の中の黒い塊は、今やレジの目の前まで到達している。しかし、彼が直接その場所を見ても、そこにはただ、無機質なカウンターがあるだけなのだ。

 そこで佐藤は、ある恐るべき事実に思い至った。
 受像機に映っているのは、既知の「過去」でも、同時刻の「現在」でもない。それは、我々の感覚を数秒だけ追い越した「未来」の投影なのではないか。

 今、画面の中で起きている惨劇は、間もなく彼の身に降りかかる、不可避の運命なのだ。

 再び、耳元で入店音が鳴り響いた。
「ピンポーン――」
 目の前の自動ドアが、今度は「誰もいないのに」音を立てて開いた。

 見えない何かが、冷たい夜風と共に店内に流れ込んでくる。佐藤は叫ぼうとしたが、喉は乾いた石膏のように固まり、声にならない悲鳴が肺の奥で溺れている。

 彼は、最後の力を振り絞って受像機を見上げた。
 そこには、一人の男が映っていた。
 ――佐藤自身である。

 画面の中の佐藤は、足元から這い上がってきた無数の「黒い塊」に組み伏せられていた。墨汁のような暗黒は、彼の口、鼻、耳、そして眼球の隙間から、容赦なく体内へと流れ込んでゆく。

 彼の肉体は、内側からどす黒く染まり、皮膚の下で何かが蠢いている。自尊心に満ちた彼の「自己」という器が、得体の知れぬ他者によって、無残に塗り潰されてゆく瞬間であった。

 ふと、佐藤は気づいた。
 自分の視界が、急速に銀鼠色から漆黒へと塗り替えられてゆくことに。
 受像機の中の彼は、今や完全に「黒い塊」と同化し、こちらを向いて薄ら笑いを浮かべていた。

 ……数秒後、店内に一人残されたのは、佐藤であって佐藤ではない「何か」であった。
 自動ドアは静かに閉まり、深夜のコンビニエンス・ストアは、再び水族館のような静寂を取り戻した。
 ただ、受像機のモニターだけが、誰もいなくなった店内の床に、ぽつりと落とされた「墨汁の跡」を、いつまでも冷ややかに映し出し続けていたのである。
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