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第一章 放課後の物理室
しおりを挟む第一章 放課後の物理室
ある日の午後、僕は渋谷のスクランブル交差点で、現代の河童を見かけた。彼らは皆、一様に首を垂れ、掌中の硝子板(ガラスいた)を凝視している。その滑らかな硝子の面には、現実の空よりも鮮やかな虚妄が映し出されているに相違ない。
しかし、今の僕の眼前にいるのは、河童でもなければ虚妄でもなかった。
西日の差し込む放課後の物理室は、埃の舞う金色の檻である。窓の外には銀鼠色の雲が低く垂れ込め、遠くで都会の喧騒が、まるで底知れぬ沼の底から湧き上がる泡のように響いている。僕は、受験を控えた真面目な三年生、柊充(ひいらぎみつる)として、この静謐な牢獄に繋がれていた。
目の前には、二年生の築山華(つきやまはな)が座っている。彼女は物理の再試験対象者であり、僕はその補習、即ち「自由落下による重力加速度の測定」という、極めて退屈な儀式の指導役を仰せつかっていた。
華は、記録タイマーの扱いに苦戦していた。その手つきは、あたかも壊れやすい小鳥の卵を扱うかのように危うい。僕は自らの受験勉強の時間を削られているという焦燥(せうさう)を感じながらも、彼女の無防備なうなじや、記録紙を見つめる真剣な横顔に、忌まわしいほど目を奪われていた。それは理知的な思考を麻痺させる、一種の毒薬のような美しさである。
重力加速度。あらゆる物体を、容赦なく地表へと引きずり下ろす冷徹な法。
柊の胸中では、物理公式が示す論理性と、それとは裏腹な、どす黒い独占欲がせめぎ合っていた。彼女が失敗を繰り返せば繰り返すほど、この時間は引き延ばされる。彼女が愚かであればあるほど、僕は彼女の救済者として、この場所にとどまることができる。その事実に気づいた瞬間、僕の自尊心(プライド)は、卑俗な愉悦に震えた。
「ねえ、重力がなかったら、もっとゆっくり落ちてくれるのにね。そうすれば、ずっとこうしていられるのに」
華が不意に顔を上げ、無邪気な微笑を向けた。
その一言は、天啓(てんけい)のように僕の鼓膜を打った。彼女は本当に無邪気なのか、あるいは僕の内のエゴを見透かし、それを嘲笑(あざわら)っているのか。彼女の言葉は、今昔物語の狐が人間に化ける時のように、甘く、そして不気味な響きを帯びていた。
僕の心の加速度は、物理法則を無視して極限まで高まっていく。実験レポートに書き込む数字が、微かに、しかし確実な震えを帯びた。それは、理性の塔が崩壊を始める、最初の亀裂に相違なかった。
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