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高校のとある日常-1
しおりを挟む山肌を這ふやうに建てられた校舎の上には、鉛色の雲が低く垂れこめてゐた。瀬戸内の海から吹き上げる風は、僅かに潮の香を含み、鉄錆びた工場の煙突を冷ややかに撫でて過ぎる。
僕は、柊充(ひいらぎみつる)といふ。
高校の三学年に籍を置いてはゐるが、僕の領分は、この灰色の現実よりも、むしろ掌中の硝子板(スマホ)の奥に広がる、○と一との論理世界にある。そこでは、自尊心を傷つける他人の視線も、無遠慮な笑ひ声も存在しない。僕はただ、精密な機械の歯車を組み上げるやうに、符号(コード)を綴ることにのみ、己の存在意義を見出してゐたのである。
「柊先輩、大変なんです!」
静寂を破つたのは、二学年の築山華(つきやまはな)だつた。彼女は僕とは対照的に、常に生への躍動を体現してゐる。その瞳は、春の日差しを反射する波のやうに眩しい。しかし、今の彼女の顔には、隠しやうのない困惑の影が、どす黒い染みのやうに広がつてゐた。
彼女が差し出した硝子板には、友人の山口可憐から届いたといふ「電信」が映つてゐた。 『至急、この繋ぎ目(リンク)を開いて。貴女に有利な、内職の案内です』 文面は慇懃無礼(いんぎんぶれい)でありながら、どこか機械的な冷たさを帯びてゐる。
「可憐さんは、こんな言葉を使ふ人ぢやありません。これは、誰かが彼女の仮面を剥ぎ取つて、中に入り込んでゐるんだは」
華の直感は、鋭い。僕は指を動かし、その情報の出処(ソース)を辿つた。僕の脳裡には、今昔物語の「狐に化かされた男」の話が浮んでいた。現代の狐は、尾を隠す代はりに、IPアドレスといふ不可視の足跡を隠蔽する。
「……乗つ取られてゐる。犯人は、可憐さんの善意を利用して、網(ネットワーク)の至る所に、毒を含んだ餌を撒いてゐるやうだ」
僕は、校舎の片隅にある電子計算機の前に座つた。黒い画面に、白抜きの文字が猛烈な勢いで流れてゆく。僕の指先は、さながら蜘蛛の糸を操る犍陀多(かんだた)のやうに、犯人の隠れ家を追い詰めていつた。
犯人の正体は、意外にも容易く割れた。それは同じ校舎に棲む、ある学生だつた。彼は、学業の不振から来る劣等感を、他人の秘密を覗き見るといふ、卑屈な優越感で補つてゐたのである。彼の仕掛けた罠(スクリプト)は、巧妙ではあつたが、僕の冷徹な論理の前では、薄氷(うすらひ)の如く脆かつた。
「捕まへた。この通信の拠点は、裏手の実習棟にある」
華は迷ふことなく駆け出した。僕もその後を追ふ。 実習棟の薄暗い廊下の突き当たり、青白い画面を見つめてゐた男は、僕たちの姿を見るなり、魂を抜かれた抜け殻のやうに項垂(うなだ)れた。彼は「冗談だつた」と、蚊の鳴くやうな声で弁明した。
事件は解決した。可憐の「仮面」は取り戻され、華の顔には再び、輝かしい向日葵のやうな微笑が戻つた。彼女は僕の手を取り、感謝の言葉を並べ立てた。
「流石は柊先輩です! 正義が勝つて、本当によかつた」
しかし、僕はその時、言葉に出来ぬ虚無感に襲はれてゐた。 犯人の男を追い詰めた瞬間の、僕自身の胸の内に、仄暗い歓喜が燃えてゐたのを否定できなかつたからである。知的な優越感といふ名の刃で、他人の醜態を切り刻む快感。それは、乗つ取りを働いた男のエゴイズムと、一体どれほどの相違があらうか。
華の明るい声は、僕の耳を素通りして、灰色の空へと吸ひ込まれてゆく。 結局、僕たちは皆、姿なき大網(インターネット)の中で、互いの虚栄心を喰らひ合ふ河童に過ぎないのではないか。
僕は、自分を英雄視する彼女の瞳を直視することができず、ただ、鉄錆びの匂いがする風の中に、重苦しい溜息を吐き出すばかりであつた。
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