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短編 泥と蝉
しおりを挟むグラウンドは、乾いた砂埃が舞い上がり、まるで古戦場の跡のような惨憺(さんたん)たる光景を呈していた。
夏の午後の陽光は、暴力的なまでの白さを湛え、少年たちの背中に容赦なく降り注ぐ。
守備練習。白球を追う彼らの姿は、今昔物語に描かれる、果てしない苦行を強いられた餓鬼の群れに似ていなくもない。
三年生。最後。負けられない。
それらの言葉は、彼らの首を絞める見えない鎖であった。過去数年の「一回戦敗け」という屈辱的な記録が、彼らの自尊心をじわじわと蝕んでいる。
練習が終わり、野球服は泥と汗で、どす黒く塗り潰されていた。
「これは、洗濯が大変だな」
一人の少年が呟く。その言葉の裏には、己の献身を他者に認めさせたいという、卑俗な期待が潜んでいる。
「お母さん、いつもありがとう」
その謝辞は、果して純粋な感謝であろうか。
母親という無償の労働力に対し、彼は「感謝」という紙幣を支払うことで、己の罪悪感を清算しようとしているに過ぎない。
「今度の試合、頑張ってね」
母の微笑みは、聖母の慈愛のようでありながら、同時に「結果を出せ」という無言の恫喝を含んでいた。 少年は、泥にまみれた衣服を脱ぎ捨てる。
それは、親子の絆という名の、重苦しい「負債」を、束の間忘れるための儀式であった。
試合当日。
球場の空は、不気味なほど抜けるような蒼穹であった。
結果は、あまりにも残酷な、そして滑稽なまでに一方的な終焉であった。
『〇対十五』。
電光掲示板に並んだ数字は、彼らが積み上げてきた数千時間の努力を、一瞬にして無価値な瓦礫へと変えてしまった。
コールド負け。
審判の宣告は、さながら処刑人が落とす断頭台の刃であった。
泣き崩れる者。茫然と空を見上げる者。
彼らの頬を伝う汗は、もはや墨色ではなく、透明な、しかし毒を含んだ水滴となって土に吸い込まれていく。 整列する少年たちの背中は、先ほどまでの熱狂が嘘のように、急速に熱を失い、ただの「敗残者」の群れへと成り果てた。
「野球漬けの生活」という甘美な免罪符が、彼らの手から滑り落ちた瞬間である。
スタンドで見守っていた母親たちの沈黙は、どのような言葉よりも雄弁に、投資の失敗を物語っていた。
彼らは理解したのだ。
この世には、どれほど願おうとも、どれほど泥にまみれようとも、決して埋めることのできない「才能」という名の深い溝があることを。
球場を後にする彼らを迎えたのは、猛り狂うような蝉の声であった。
ジリジリと脳を焼くその音は、敗者の耳には、冷笑を浴びせる観衆の嘲笑(あざわら)いのように響く。
「これから、大学受験に向けて勉強を始めなければならない」
一人の少年が、誰に言うともなく呟いた。
野球という名の地獄が終わった後には、受験という名の、より精緻で、より孤独な煉獄が待っている。
バットをペンに持ち替え、砂埃を参考書のインクの匂いに変える。
それは「新たな熱い戦い」などという勇ましいものではない。
ただ、自分という人間の価値を、社会という巨大な天秤にかけ直すための、終わりなき苦行の再開に過ぎない。 蝉の声が、体の芯まで染み通る。
その声は、夏の間だけ狂おしく鳴き続け、やがて虚しく死に絶える自らの運命を知っているかのようだ。
少年は、自分の影がアスファルトの上に、ひどく醜く引き伸ばされているのに気づいた。
青春の終わり。
それは爽やかな旅立ちなどではなく、ただ、一つの幻影が消え、別の冷酷な現実が幕を上げたに過ぎなかった。 空の蒼さは、どこまでも他人事のように、ただ、高い。
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