81 / 83
第二部
第八十一話――あどけない寝顔
しおりを挟む親は子を愛するものと聞きます。しかし私は、そのエデンという少年と過ごした記憶はあっても、実感は無いのです。故に愛というものもわかりません。それでも私は、いつか自らの使命と命を捨ててまで愛に傾倒する挙句、世界を憎悪し、壊したいと考える。
あなたが言ったことを要約するとこういうことですが……正気ですか?
……そうですか。確かに、記憶もチカラも戻った私にはあなたの全てが視える。そしてその性質を視ても、今の心境を視ても信じられないことに本気です。想像のつかない真実が、確かに視えています。
ですが正直、あなたの目的に私は必要が無いはずです。かかずらっている場合でも無いでしょうに。
……はあ、全く埒が明きません。狂人相手に語るは無益、ですね。わかりましたよ。承知しました。天界の神格ペテロアの名において、あなたと契約を交わしましょう。どうせもう、こんな世界です。どうなろうと知ったこっちゃありませんから。でなきゃ、あなたの輪廻を視て尚も冷静でいられる訳がありませんし。
けれど一つ、契約に付け足して置いてください。
例え何度、輪廻を重ねたとしても、最後には必ず、エデンが無事でいられる輪廻に辿り着くことを。
いずれの私も、この輪廻を視るでしょう。この契約を消すことは出来ない。覚悟してください。
――決してあなたを、逃がしはしませんから。
いつぞやの契約が、ふと蘇った。
「あーあ。ペロちゃんもいったか。寂しくなる一方だ。だけど、誓いはもう少しで遂げられる」
そんな言葉と共に歪む悪魔の口元を、知る者はいなかった。
* * *
「あ、ア……」
草原を駆け抜ける風が、草の上にごろりと寝転ぶ少年を撫でる。ふわりと柔らかくかかった前髪が視界に入って煩わしさを覚える。しかしそれを退ける術が少年には無かった。四肢が落とされ、夜空を見上げるだけの彼にはもう、何をすることも出来なかった。
感情の籠らない呻きを漏らす。弱弱しいそれは風に飛ばされてしまいそうな程だった。
そんな彼の傍らで立つのは、白金色の髪の毛を風に靡かせる黒いトーガの少年。エデンだ。眩い光輪も、大げさな六翼も、既に纏っていなかった。必要が無くなったから。ただただ悲し気な目で暗い少年を見降ろしていた。
「死神の神格オルケノア。お前はどうしようも無く愚かな奴だった。憎みはしない。だが同情も出来ない。お前はやり過ぎたんだ」
憎みはしない、と言ったのも、ほんの少しの強がりだった。
ペテロアのチカラを受け継いだ際、流れ込んだ記憶と感情。それにはやはりエデンに対する大きな愛があった。しかし、それと同時に、何かに対する深い哀しみを伴った。それが最初、何に対する哀しみなのかわからなかった。だが、すぐにわかった。
オルケノアだ。
兄弟姉妹を殺し、唯一の神になろうと考えた純粋な愚弟を、深く哀れむ想いだった。
エデン自身の抱えていた憎しみは確かにあった。しかし外ならぬ母の感情はもはや願いにすら等しく、それに勝るものも無い。
さらには、戦いの中で理解し、肥大するその感情はもはや、エデン自身をも蝕んだ。愚かな少年を、他の天使達と同様に切って捨てることが躊躇われるほどに。
「お前をただ終わらせてやることだけが、俺に出来るせめてもの手向けだ」
胴体と首だけの少年は、薄く笑っているように思えた。
「……じゅうぶんダ」
エデンは片手に光を纏った。槍を構築するでも無い、中途の光。それだけでも、足元に横たわる掠れた魂を消し去るには十分なチカラだ。
手のひらを向ける。心臓の辺りがきゅうとなった。
これすら母の想いなら、これすら愛と呼ぶのなら、愛は優しいだけじゃなくて、痛い時もあるんだ。
そんな痛みが微かにこみ上げるのを感じながら、エデンは光を解き放つ――。
「眠れ。これがお前の贖罪だ――」
その時。
「――待って!」
「んな!?」
慌てて光を引っ込めるエデン。止めきれない手のひらが、突如出現した少女の額をぺちっと叩き、その者は尻餅を付いた。
「あうっ!」
「あぶねーだろ! ……はあ、もうちょいタイミング無かったのかよ……」
「ご、ごめんね。アタシもあんまり慣れてないから……」
エデンとオルケノアの間に割って入るように現れた少女。しかしエデンはそれにさして疑問を抱いていなかった。それもまた、母の記憶で見たからだ。念のため、チカラでも確認をしてみる。
収斂する灰の瞳が、少女を見つめた。やはり、間違いは無い。つい先日に母が連れ去ってしまった少女。自分と同じように、チカラに目覚めた彼女は――。
「――久しぶりに感じるな、レリィナ・ミトラ。もう、決断は済ませたんだな」
「……」
「……まっ、俺が言うことはねーや。あっちのうるさいの相手してやれよ」
答える様子の無いレリィナにそう言うと、エデンは頭の後ろに手をやりながら歩いて行ってしまう。その先には、木陰で寝かされているアリス・ソラフの姿。そしてその隣には……。
「……あんた、何しに来たのよ」
クィルナ・ミティナが強く、強く睨みつけていた。
「クィルナ……」
レリィナは胸元で手を握る。上手く息が吸えない。胸が痛い。駆け出した鼓動が、逃げ出したいと叫び出す。
また泣きそうな顔をするレリィナ。それを見て、クィルナは走り出した。
何も言うことなんて無い。なんて言えばいいかわからない。言葉が見つからない想いを、それでもぶつけなければ、私はどうにかなってしまうから。
クィルナはレリィナの頬に拳を投げだした。
それに視界が揺れ、後ろへと倒れるレリィナに、クィルナは馬乗りになる。
殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。力無い拳で、殴る。殴る。殴る。殴る――。
レリィナの頬は、淡い光に包まれていた。
クィルナの拳は、淡い光に包まれていた。
レリィナの頬に涙が降る。
「う、うう……。なんで、なんであんた、いないのよ。いなくなったのよ」
言葉が見つからなかったというよりも、こんなこと、コイツに言ってやりたくなかっただけだ。だけどもう、無理だ。
覆いかぶさるクィルナは、レリィナの顔も見れず、胸元の辺りにそれを投げつけた。
「あんたが居てくれるだけで、私は救われた! あんたがどっか行ってる間、辛かった! 怖かった! 痛かった! なんであんたまでそっち側行っちゃうのよ! 隣居なさいよ! ここに来てずっと……部屋もご飯も探検も、ずっとずっと一緒だったじゃないの! レリィナの馬鹿!!!」
言っちゃった。喧嘩ばっかだったのに。そんなに仲良くしたこと無いのに。こんなにあんたが大事な家族だったなんて知らなかった。もう少しぐらい、つんけんしないであげたらよかった。
「えぐ、うぐ……わああああああん!」
もっともっとぶつけたい想いがあるのに、言葉にもならず、投げだす拳も力が入らない。涙と喚きになって、わんわん溢れるばかりだ。
草地に五体を投げ出して跨られるレリィナも、痛みにたまらず涙が溢れそうだった。拳で殴られたからじゃない。想いで殴られた心の痛みだ。こんなになってまで立ち向かったクィルナに向き合うのを、恐れた自分があまりに惨い奴だと思った。信じられない現実を認めることに怯える自分が、酷く弱い奴だと嘆きたかった。
そうだね。みんな向き合って、立ち向かったんだもんね。アタシも、決めなくちゃダメだ。
もはや泣きじゃくるだけのクィルナ。それの耳朶を打ったのは、涙交じりの声。
「ねえ、クィルナ」
なによ。そう返そうとして、上手く喉が開かなくて、ただ口を開いてレリィナの目を見た。目の端に溜まった雫がぽろと零れ、クィルナの涙と混ざり合う。どちらのかもわからない涙が露みたいに草を濡らした。
「アタシね、本当は人間じゃないんだって」
急にそんなことを言い出すもんだから、クィルナは目を見開いた。レリィナは脆い笑顔を作って言う。
「アタシね、本当はね……チェルヨナって名前なんだって。魂を管理する神様なんだって」
「……」
レリィナはクィルナから目を逸らして、夜空を見た。燦めく星が点々と真っ黒を飾っている。
「それでね? アタシには、六人の兄弟姉妹がいるんだって」
冷たい風が吹いている。
「七人は仲が良くて、協力して世界を管理してたの」
「……」
「だけどね、ある時、それは壊れちゃったの。みんな、叶えたい願いが芽生えて、堕ちてしまったの」
「……」
「それでね、願いを叶えた二柱はね、消えてしまったの……」
「……」
「それでね……それで、ね?」
脆い笑みが崩れた。
「その二人は、天輪丸と、カティ姉……なん、だよ? ねえ、知ってた? クィルナ」
何それ。
それ以外の言葉なんて浮かぶ訳が無かった。それを音にすることなんて、叶うはずも無かった。
だって、ペテロア、願い叶えて消えちゃったじゃない。
だって、それじゃあ、その話が本当だったら、カティ姉も――。
――クィルナの頬を、レリィナの涙が濡らした。
クィルナの視界には、重力に反して流れる涙があった。レリィナの涙が宙を昇る。髪の毛が星空へ垂れ下がる。クィルナの涙が目尻を沿って星空へ落ちて行く。
見惚れていた。超常の現象があって尚、レリィナの星屑のように燦めく瞳に、誘い込まれるみたいだった。やがて超常は涙や髪の毛に留まらず衣服や体まで作用した。
一瞬ふわりと浮かんだ自分の体にびくりとなるが、レリィナの体が地面と垂直になった辺りで星空への降下は終わり、草地に柔らかく着地した。と同時――レリィナはクィルナに抱き着いた。焼けるような体温がクィルナの胸中を焦がすようだった。
クィルナ、と、裏返った声がした。
「もう、もうね? 二人とも……どこにもいないの。二度と会えないって……わかっちゃったの! 二人の魂を感じないの!」
抱き着かれ、搔き抱かれ、見上げる星空は満天で、ふと思った。空って、空の癖に空気を読まない奴だ。何もかもが壊れてしまった私達を、どうしてこんなに綺麗な天井で覆うのか。
「蘇った記憶は、全部全部アタシの記憶じゃ無いのに、蘇った想いは全部全部アタシの心を埋め尽くしたの! ただでさえ、ここで過ごした家族が、本当に家族で……もう会えなくて……ねえ、ねえクィルナ。だから、アタシわかっちゃったの。チェルヨナって……アタシ、なんだって」
まるで一つにでもなろうと言うほど私を強く抱き締めるこの少女は、六年も同じ施設で育った幼馴染だ。そこで四肢を失って横たわる少年は、一年程前にこの施設にやって来た、弟のような存在だ。後ろの方で木陰に寝ているアリスさんは、私達を引き取り育ててくれた、本当に命の恩人で、母親みたいな人だ。アリスさんの側で胡坐を掻いてこちらを退屈そうに見る彼は、いずれ私の初恋になる人だ。
全員、人間じゃ無かった。神とか天使とか死神とかいう存在で、たった一日で、私の日常は嘘みたいにその表情を変えた。なのに、世界は何も変わらず、満天の星空。何食わぬ顔で私の髪の毛を揺らす風。さざめく木々。変わらない世界。世界。世界。世界。
「アタシこれから、リンディーを……葬らなきゃいけないの」
レリィナはクィルナの瞳を見つめた。尚も星屑の瞳は煌めいて、クィルナに突き刺さる。言葉と共に、胸中を無茶苦茶にかき回す。
クィルナは聞く。
「あんたは、それでいいの」
レリィナは答える。
「そうするしか無いの。世界はあるがままに過ぎるだけ。そうあることしか出来ないの」
その言葉を理解することなんて出来なかった。後ろへ一歩引いたレリィナに、歩み寄れなかった。それ以上前に進むことを、何かが拒絶していた。足を後ろに引くことは容易なのに、前に進むことが出来ない。レリィナに近づくことを、世界が拒絶しているみたいだった。
「――」
声すら出せない。なのに溢れる涙ばかりが滴って、足元を濡らした。泣き喚いている。諦めの悪い自分が、泣き止まないで立っている。そんな彼女はどうすることも出来ないまま、背を向けたレリィナがしゃがみ込むのを見ているばかりの無力な少女だった。
レリィナが側にしゃがみ込むのを感じて、リンディーは目を開いた。
「リンディー、久しぶりに感じるね」
レリィナの見つめるリンディーの瞳は掠れていて、見上げる星空すらもう映していなかった。
「……ここに来た時モ、今も、何も変わらないよチェルヨナ姉さン。僕らにとってハ」
「ううん。アタシ、レリィナ・ミトラっていうんだよ」
その言葉に、リンディーは首を傾けレリィナの方を向いた。
「知ってるヨ。でも、それハ……」
それは人界に紛れる為の偽の名前で、本当の名前じゃ無いはずだ。そんな思考を知ったように、レリィナは言う。
「あなたの名前はリンディー・ポトハム。貰った時、嬉しかったでしょ?」
……。
そうか。大事なものって、こういう奴のことか。
「……僕はリンディーだ。ごめんよ、レリィナ」
それを名乗った時、どこか重苦しい想いが薄れたように思えた。
「どうだった? 人の生活は」
「……よく、わからなかった」
「何も感じなかった?」
「……よくわからない。ああすればよかったとか、こうすればよかったとか、あんなことしなけりゃよかったとか、そういうのばっかりだ」
「それだけだった?」
「……ちが、う。他にもたくさん、わからないものばかりだった。今だって、胸の辺りが暖かい。“嬉しい”とは別の、何か。ずっとあったはずなのに、未だわからない」
暖かいものが、胸の辺りにわだかまる。冷たいものしか持ち合わせない自分には、一際それが熱くって、いつもそれをどっかに押しやっていた。煩わしく感じて遠ざけて、だけど気付けばまたそこにある。僕の中で柔く燻る。
「わからないまま、終わるんだね」
「もっと……知りたかった?」
何でだろう。何で、今、燻るんだろう。胸の温もりがじわりと広がる。こみ上げて、こみ上げて、溢れ出してくる。
堪えの効かないそれは、リンディーの目元からたったの一粒となって零れた。
「……知りたかった。もっと、皆から貰ったものの名前、知りたかったよ、レリィナ」
不思議なことに、息が震えて上手く声が出なくなった。不思議なことに、暖かいものが頬を伝っていた。冷たい風がそれを乾かした。
「ごめん。ごめんなさい……。全部……僕が壊しちゃったから……父さんに憧れて……神様になろうとして……!」
「うん……うん……」
レリィナは、軽くなったリンディーの体を抱き上げる。背中をさする手にリンディーの熱は込み上げる。
「うわあぁああぁあぁぁあ……! ごめん……みんなああぁぁあ……!」
「そうだね、アタシ達、取り返しのつかないことしちゃったね」
まるで同じ罪を犯したとでも言うように、レリィナはリンディーに囁く。それにリンディーは――。
「姉さん、僕を葬って」
「……とっても辛いかも」
「それでも、足りないよ」
「アタシ達もきっと行くから」
リンディーを抱き締める腕の片方が、星空に掲げられた。
リンディーの体から湧き上がるように光が浮かび上がった。それは掲げられる手のひらへ寄る辺を見つけたようにふよふよと集う。見渡せば、周囲の草地からも仄かな光が頼りなく揺蕩い、遅れてやって来る。
「ありがとうレリィナ。待ってる。輪廻の向こうで、待ってる――」
やがて光は手のひらを離れ、空へ昇る。いずれそれは星々に混ざり、既に他の輝きと見分けがつかなくなる。
力無いリンディーの体躯を草地へ寝かせる。その寝顔は幼子のようにあどけなかった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
1
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる