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第二部
第八十話――エンディング・エデン
しおりを挟む天界の、さらに天空にその神殿は佇んでいた。
神格で無ければ知覚もままならないその神殿には、天界の神格と呼ばれる者が一人住んでいた。いつも天界を見渡し、暇を持て余していた神格だ。
ある時、弟の不穏な動きを父に密告するため、伝令役の兵士を一人生み出した。不出来ではあったが、愛情も生まれ、その者を育てることを決意した。
それからしばらくが過ぎた頃、エデンと名付けられた少年は、いつものように世界のことを学んでいた。
「するとチェルヨナ姉様が言ったのです。『それでは、こういうのはどうでしょう。神の隠れたこの世界で神と同格に扱われる者……『神格』というのは』と。それに皆が賛同したことで、今日でも天使に知られているように、我々七柱の呼び名が決まったのです。ここまではいいですか、エデン?」
「うん」
「よしよし、いい子ですね。そして神格と呼ばれる我々には使命というものがありまして……おや、少し待ってくださいね」
お母さんは神格様のお話を切り上げると、突然表情を変えて立ち上がった。
「お母さん?」
お母さんの背中から瞬時に六枚の翼が光と共に生み出され、灰の瞳が収斂する。
「もう、ですか。……はあ、しくじりましたね」
ため息を吐いたお母さんは、困ったような表情をした。以前僕がわがままを言った時よりも困っているように感じた。何があったのか。そんなことを聞こうとした時、お母さんは僕の肩に手を置き、目を見て言った。
「エデン、いいですか。私は少し……出なくてはなりません」
瞳の上で幾重にも重なる環が、絶え間ない蠢きを続けていた。その目を僕に向けるのは初めてのことだった。
「あなたは天界に降りて、天使と一緒に、天使として生活なさい。私の言いつけ、守れますね?」
突然そんなことを言われても、わかるわけも無かった。漠然とした不安だけが僕の胸中にわだかまる。お母さんは苦しそうな表情をして言った。僕を強く抱き締めた。
「……頼みましたよ、エデン。愛していますよ、エデン」
そう言って立ち上がったお母さんは、僕が伸ばした手も取らず、消え去るような速度で行ってしまった。直後、信じられない程の衝撃が神殿を揺るがした。それに肩を跳ねさせて、理解した。今始まってしまった何かから、僕は逃げなければならないと。
扱いを覚えたばかりの翼を用いて神殿の裏口へ急いだ。胸の辺りに鈍い痛みが転がっていた。お母さんの表情が頭から離れなかった。外に出てから全速力で飛んだ。何度も襲い来る強烈な衝撃に全身の骨が軋む心地だった。時折、それにバランスを崩しつつもただ飛んだ。お母さんに言われたことを達成するために。その理由もわからないまま。
「――だれダ? おまエ」
突然耳朶を打ったのは、がさついた子供みたいな声だった。振り返ってみると、薄紫の長髪をうねらせた子供が中空で静止していた。
誰だなんて、そのままこっちが言ってやりたいセリフだ。しかし、言う暇も無く、僕の口は彼の、口元を鷲掴みにする手のひらに塞がれた。
「んぐっ! んん――」
抵抗の甲斐無く、僕の意識は遠のいた。
* * *
――瞬間、過ぎ去った記憶だった。一秒たり得ない刹那であったが、彼にとってはまさにその日々を過ごした一瞬だった。
「覚えていますか? それとも、思い出しましたか?」
恐る恐るといった様子でその声音は紡がれた。それを受けるエデンは、ようやく手のひらの行く先を決めたように、ペテロアを強く抱き返した。
「覚えていた。けど、今ようやく実感したんだ、お母さん」
凛とした声音で抱き返すエデンに、ペテロアの涙が頬を伝う。永らく求めた最愛の音。
「ああ……。やっと……本当に会えたんですね、エデン。私のエデン……!」
ペテロアの抱擁がより強くなる。
ただでさえ強く抱き締めるのに、衣服越しに爪が立つ程掻き抱いた。もう離したくないと言うように。だけど、それが叶わないということは自身が一番わかっていた。苦しいほどの愛おしさだった。
「……なんで、ずっと黙っていたんだよ。あんたのチカラが……魂を辿るチカラがあれば、こうやって無理矢理にでも俺に真実を伝えられたはずだろ」
「だってあなた、塞ぎ込んで信じなかったでしょう? 反抗期ってやつですかね」
「そんな話してんじゃない。もっと、もっとちゃんと話し合ってりゃさ……俺だってきっと受け止めた。端っから協力してればオルケノアだって、もっと簡単にさあ!」
本当は土台無理な話だとわかってた。言われた通り、荒唐無稽なこの話を信じたりなんかしなかった。あの時、あの状況で、クィルナがいてくれたから、俺はオルケノアの支配を解くことが出来た。こうなるしか無かったことは嫌と言うほどわかっている。けど、それでも、そうとわかっていても、この感情はやりきれない。自分の未熟さが、知らぬ間に最愛の存在を殺すのだ。だのに、その人は血を吐きながらも笑みを湛えて言ってしまう。
「ふふ、駄目ですよ。だってあなたには使命がある」
“使命”。それは記憶の中でもしきりに聞かされた言葉だ。しきりに意識した存在意義だ。
「神への伝令……」
「未だそれは、世界において重要な意味を持つもの。しかし、少々事情が変わってしまいました。あなたはチカラを得なければならないのです」
「それって……」
「お察しの通り、私の全てのチカラを譲渡します」
それを言った瞬間、彼女の瞳が揺れた気がした。理由もわかっていた。
「そんなのって、さぁ、駄目だろ。駄目じゃねえかよ。だって、それじゃ……お母さんは元から……!」
チカラは神格の魂そのものだ。それも母から聞いたこと。それを全てと言うのは、つまり……。
「私だって嫌ですよ。けれど傍迷惑な話ではありますが、覚悟はいつの間にやら終わっているらしいのです」
「なんだよ、それ。なんだってんだよ、訳がわかんねぇよ」
「そうですね。世界はわからないことでいっぱいです」
これほど苦難を乗り越えた先で、最愛の人さえ救えない。この胸の中で失われようとする存在を、どうして世界は見過ごせるのか。分かりたくも無いことだった。今はただ心の底から思うことがある。
「憎いよお母さん。あなたがこうまでなっても救われないこの世界が、憎くてたまらない」
溢れ出す涙と嗚咽に、それ以上の言葉が出なかった。そんな様子に、ペテロアはやわらかく笑う。
「エデン。世界はあるがままなのです。ただ無感情に回るだけ。そこには偶然しか存在し得ない。……それでもあなたは、世界を憎みますか?」
「意味の無いことだとわかってる。でも、この感情は言うことを聞きやしないんだ。どうして、お母さんはそんなに笑っていられるんだよ」
尚も彼女は笑っていた。愛おしさに塗りつぶされた表情で、世界は慈愛に満ちるとでも言わんばかりに。ペテロアはひとつ、目を伏せて、またエデンに向けて言う。
「――こんな世界、無くなってしまえばいい」
「……え?」
飛び込んだ言葉は、依然優しい声色で、故に信じられないほど怖気立つ憎しみだった。
「何がアステオですか。何が使命ですか。兄弟とか姉妹とか、そんなものぜんぶぜんぶぜんぶぜんっぶ、どうだっていい。どうだっていいんですよそんなこと……! 誰が苦しもうが傷つこうが勝手にやっていればいい!」
強くなる語気が、痛く心に刺さった気がした。この胸に落っこちるざりざりした感情が、誰のものだかわからなくなった。それほど伝わる痛みだった。
「あなただって、忘れたわけではないでしょう? “悪魔”を名乗ったあの日の誓いを――」
「それは……」
悪魔。そうだ。俺は“あの日”、あいつを誘って悪魔になった。
「……過ぎ去る時間が憎いです。巡る月日が恨めしくて堪りません。世界はあるがままに繰り返す。星に引かれた林檎を、何度繰り返そうと地に落ちる結果が変わらないように、世界は幾度も私達を滅びの運命へと引きずり込む。何も変化しないままの世界は、また滅びへ向かう。だからエデン。わかるでしょう? 神々が堕ち、滅びゆくだけの世界を変えるには――」
思い浮かぶ星空があった。
かつて誓った言葉があった。
星々の見降ろす丘で、“奴ら”に差し向けて放ったそれは、ただの幼稚な反抗だった。
蘇る様々や絶望に囚われて、いつしか忘れつつあったそんな誓いが今、その“名”を捨ててまでも捨てられぬ使命へと変えられるのだ。
『俺の名はディラン』
『俺とお前で、悪魔になるんだ』
彼はかつて、燦めく星々の喝采へ向けてこう言った。
「――この世界を、ぶっ壊す」
ペテロアの光輪が一際輝き、瞳が大きく開かれる。エデンの瞳が収斂を始める。
そんな最中でも、二人は一瞬さえ惜しむように抱き締め合う。
「……エデン」
「なに、お母さん」
「お友達は大事にしてくださいね」
「わかってるよ」
「女の子には優しくしなきゃダメですよ?」
「え? 天使や死神に性別は……」
「クィルナは女の子ですよ」
「……はぁ!? あれは、そういうんじゃ……!」
「ふふ、そうかもですね。でも、大事にしてくださいね」
「……アステオは見つける。友達は大事にする。クィルナは……考える」
「いい子です」
「……そんで、そんで母さんを絶対忘れない。母さんのくれたもの、全部忘れない」
どんな瞬間さえも、あなたとの時間ならば決して忘れはしない。使命と共に背負った誓いだった。最後のそれがその人に届いたのかはわからなかった。
エデンの体に重く寄りかかるペテロア。その体にもう意思は無い。
「クィルナ、お母さん頼む」
優しく抱えたペテロアをクィルナに預け、二人を背に庇うようにして立つ。オルケノアの再生が終わろうとしていた。
「これが終わったらよ、一緒にいこーぜ、死者にお祈りするやつ」
そんな軽々しい口調でオルケノアを前にしているのは、さっきと同じ少年だ。神々しい光を放ちながら、まるで近所の悪ガキみたいに口の端を歪ませる。
黒いローブの右肩を引き裂き、それが白だったなら神話の絵画で見るようなトーガ。掲げた手元から生み出される光の槍は幾重もの光輪をくぐり、背中から生えるは、殊更存在としての格の違いを主張する六翼。極めつけに頭上で浮かぶ光輪がこの世界の何者よりも眩く全てを照らしている。
こんな彼の前では、目の前に佇む暗い少年など、物語の端役に宛がわれることも奇跡だと言える。
そんな端役でさえ、彼の光輪は照らし出す。見開いた目。母親と同じ、収斂する灰の瞳。
「――終焉の神格エデン、爆誕ってか。終わりにしようぜオルケノア。俺は、世界を壊すので忙しい」
「あア、これガ……飼い犬に手を噛まれるってやつカ」
どこか安心したような表情の少年がそこにいた。
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