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あの兄は…

王太子である第一王子のランベールか?
それとも、第二王子のアンドレか?

「んんん…」

眠りから覚めた時、兄の姿は無かった。
僕が見た都合の良い幻ではないか?と思わずにいられなかった。


二人の兄の事は、クリストフからサラリと説明されただけだった。

ランベールは二十七歳。
一年前に、公爵令嬢だったステファニーと結婚していて、子供はまだいない。
騎士団に所属しているが、平和な世の中なので、公務の方に力を注いでいる。
文武両道、才があり、優秀。堅実な性格で、周囲からの信頼も厚い…と、
この辺は記述によるものだ。

アンドレは二十五歳。
独身、婚約者もいない。騎士団の副団長。
騎士団一筋で、剣術馬鹿…これはクリストフが言った。

「印象としては、ランベール様かな?」

逞しくはあったが、柔らかい物腰で実に柔和だ。
剣術馬鹿では、こうはいかないだろう。
結婚しているなら、気持ちにも余裕があるかもしれない…

「ああ!手を見れば良かったんだ!」

結婚しているなら、指輪をしているだろう。
今更ながら、それに気付き、自分の失態に、指で額を押さえた。
記憶を引き出し、思い出そうとしてみたが、思い出せそうにない。
代わりに浮かんで来るのは、手を握られたり、鼻を摘ままれたり…
抱擁も…
それに、あの優しい笑みと、優しい声…

「ああ!無理!思い出せない!!
仕方ないだろう!あんな事をされたのなんて、初めてだったから…」

誰に言う訳でもなく、僕は何処かに向かって言っていた。
自分を守る様に、ベッドの上で膝を抱える。
こうしていると、気持ちが落ち着いてくる。

「次に来た時に、確かめればいいか…」

約束はしていないが、彼はきっと来るだろう。
そんな気がした。





クリストフの別邸の使用人たちは、クリストフを知る者たちばかりだったので、
気が抜けず、緊張していたが、離宮では誰もクリストフを知らない。
勿論、見掛けた事はあるだろうが、そう親しい者は居ないだろう。
何と言っても、クリストフが一度も来た事の無い場所なのだから。
その点だけで言えば、気が楽だった。

問題は、僕が《客》の立場にある事だ。

クリストフの別邸では、僕が主人だったので、好き勝手する事が出来た。
だが、ここではそうはいかない。
兄の許し無く、勝手な事をすれば、あの温厚な兄も流石に怒るだろう。
いや、怒りを露わにしないまでも、疎ましいと思うに決まっている。
初めて優しくしてくれた人だから、そんな風になり、嫌われるのが嫌だった。
それで、僕はここでは、使用人たちの顔色を伺わなくてはならなくなっていた…

「食事は昼と晩、一日二食でいい。
肉や魚は入れないで、それから、お茶も必要無い___」

クリストフの別邸と同じ様に言ってみたが、検討もして貰えなかった。

「食事は殿下が決められていますので、お受け致し兼ねます。申し訳ございません」

クリストフも殿下だが、ここでの使用人たちの主人は《兄殿下》なのだ。

気に入らなければ、残せば良いのだろうが…残した物を食べてくれとは言えない。
だが、孤児院育ち、修道院務めの僕にとって、食べ物を捨てるなど、罪悪だ。
…とはいえ、大きな肉を前にして、僕は胸がいっぱいになった。

うっぷ…

修道士は特別な日にしか、魚と肉は食べない事になっているし、
修道院で出される食事もそうなっている。
絶対という訳でもないが、僕は修道院の規律に従っていた。
だが、悪い事に、クリストフは神学校を出ているにも関わらず、
肉も魚も構わずに…というか、寧ろ好んで食べていた。

「我が神よ…神に誓いを立てた修道士とはいえ、今は影武者の身です…
この様な贅沢な食事を口にする事を、どうかお許し下さい…」

神に懺悔をし、意を決して、それを口にした。

その結果、神からの罰だろうか?それとも、試練だろうか?
夜になり、僕は酷く苦しむ事になった。


腹部がキリキリと痛み、胸がムカムカとして気持ちが悪い。
吐きたいが吐けない。

「うう…」

「うう…」

ベッドの上でお腹を抱えて脂汗を流し、唸るしかない。
少しでも苦痛が消えないかと体の向きを変えてみても、大した効果は無く、
夜が永遠にも思えた。

いっそ、楽にして欲しい…

「クリス!何処か悪いのか!?」

ランプの灯りで、自分を覗き込むその顔が見えた。
僕は堰が切れ、ボロボロと泣き出していた。

「き、きもちわるい…おなか、いたい…くるしい、しにたい…」

「早く薬を!クリス、大丈夫だよ、直ぐに良くなるから…気を強く持つんだよ、
そんな事を言っては駄目だ…」

冷たい布が僕の顔を拭ってくれ、幾分、気持ち悪さが収まった。
大きな手が僕の腹部を撫でる。
不思議と気持ちが落ち着いてきた。

「ふ…うう…」

「クリス、薬だよ、飲める?」

体を起こしてくれ、支えてくれる。
上を向かされ、口を開けると粉を入れられ、「水を飲んで」とコップを渡された。
その苦いものを水で流し込む。
口に広がる苦いものに、僕はまた泣きそうになった。

「にがい…」

「うん、苦かったね、よく頑張ったね…」

兄が僕を抱きしめ、頬や額にキスをしてくれた。
それで、何故か、苦味も悲しい気持ちも気にならなくなり、僕は兄に体を預けた。
触れている体温が気持ち良くて…

「気持ち良い?だったら、こうしていよう…」

優しい声が言ってくれて、僕は安堵し、息を漏らした。


朝、目を覚ました時には、気持ち悪さはすっかり消え、痛みも無かったが、
兄に抱えられる様にして寝ている事に気付き、ギョっとした。

「!?」

咄嗟に起き上がったからか、兄も目を覚ました。

「ああ…もう、朝か…クリス、気分はどう?」

眠りから覚めた兄は、瞼を擦り、ぼんやりとした様子で聞いてきた。
普段とは違い、子供みたいだ。可愛い…
その発見に、何処かうきうきとし、「ふふ」と笑ってしまっていた。

「クリス?」

不思議そうに見られ、僕は慌てて手を振った。

「あぁ!ごめんなさい!すっかり治りました、薬のお陰かも…」
「それなら良かった、食事が合わなかったのかな?」
「それは、そのぅ…
料理を無駄にしたらいけないと思って…全部食べたからかもしれません…」

恥ずかしさに顔が熱くなる。
だが、兄に呆れた様子は無かった。

「そうか、そこまでは考え無かったな…ごめんね、クリス、辛い思いをさせたね」

逆に謝ってくれ、抱擁してきて…
僕はぎこちなくも、そっとその背中に手を回した。

「ううん…来てくれて、ありがとうございます…
夜中だったのに…ごめんなさい、兄さん」

結婚しているなら、寝室から抜け出すのは難しいのではないか?
その上、ここに引き止めてしまった…
その考えに血の気が引き、僕は体を離して、その手に目を走らせた。
左手の薬指には、金色の指輪が嵌っていた___

彼は、王太子、ランベールだ!!

「っ!!は、早く、部屋に戻られた方が…」

僕は愕然となり震えたが、兄は屈託なく笑った。

「ステファニーの事を心配してくれてるの?
彼女なら大丈夫だよ、おまえはそんな事、気にしなくていいんだよ。
おまえに何かある方が心配だからね…」

兄は僕を抱き寄せ、大きな手で体を擦った。
気持ち良かったが、あまり引き止めてもいけないだろうと、頭が働いた。

「あの、もう、大丈夫ですから…」

「そう?残念だな」

え?

聞き間違えかと思い、問う様に見ると、兄は目尻を下げ、笑みを浮かべていた。

からかわれたのかな??

「早く帰ってあげて下さい!」

僕は唇を尖らせ、兄の体を押した。
その体は固く、ビクともしなかったが、兄は笑いながら僕の頬にキスをし、
ベッドを下りた。

「食事の量を減らす様に言っておくよ」

「出来れば、食事は昼と晩だけで!後、魚と肉も入れないで!
それから、お茶も要らないです…」

ここぞとばかりに言ったのだが、兄は優しい笑みのまま、はっきりと断った。

「取り敢えず、量を減らす事には賛成するけど、魚と肉は食べるんだよ」

「でも、気持ち悪くなるから…」

それを思い出すと、とても食欲など沸かない。
兄は僕を励ます様に、優しく肩を撫でた。

「少しずつでいいよ、頑張ってみて。
おまえはもっと太らなきゃ、病も治らないよ?」

病気療養中の身という事を思い出し、僕は渋々小声で「はい…」と頷いた。
兄は苦笑すると、体を屈めて僕に訊いた。

「好きな食べ物は何?」

好きなもの?
これまで、あまり食には拘りが無かった。
望んだ物が食べられる環境でも無かったし、諦めが思考を遮断するのだ。
クリストフの好物を答えるべきだったが、僕は失念していた。

「特には…」

「それなら、これから、それを見つけよう。
見つけたら、教えてくれるかい?」

「はい…」

「約束だよ、クリス」

兄が右の手の平を、僕に向けて掲げる。
引かれるかの様に、僕はその手の平に、自分の左手の平を近付けた。
兄の手の平が触れて来て、指でギュっと握った。
僕も同じ様に返す。
兄は笑みを深くし、頷くと、指を離した。

「時間が出来たら寄らせて貰うよ、またね、クリス」

兄が部屋を出て行くのを、僕はぼんやりと見送っていた。

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