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第五章  ふたりの千早

ふたりの千早(2)

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 三人はその日一日、市橋いちはし愛美あいみの後を付けた。

 
 自宅から徒歩とほで一〇分ほどの駅で父親と別れ、合流ごうりゅうした高校生達と電車で学校に向かう。電車の中では行儀ぎょうぎよく、妊婦に席をゆずったりもしていた。

 市橋愛実の通う高校は、中規模ちゅうきぼの県立高校だった。教員の立つ広い校門に、道をめる高校生たちが流れるように吸い込まれていく。

 早朝にもかかわらず、同じ制服を着た高校生たちは楽し気に声を上げながら歩いている。市橋愛実も、顔見知りらしい数人と笑顔であいさつしていた。

 その様子を、千早ちはやは校門の前に立ち見ていた。明のほどこした、身をかくす術である『隠遁いんとん』のおかげで誰にも気づかれないのだ。


 放課後は彼氏らしい男子高校生と二人で、公共図書館で勉強していた。容姿ようしはなやかだが、なかなか真面目に学業がくぎょうにいそしんでいる様子だった。

 も落ちた六時過ぎ。勉強を終え、図書館前の広場であたたかい飲み物を片手に談笑だんしょうしている。

 彼氏は美男子とは言えないが、背の高い優し気な青年だった。雰囲気が、どことなく朝見かけた父親に似ている。

 寒いのに野外やがいのベンチで語り合う二人は笑顔がえず、見るからに恋人同士の甘い雰囲気があった。

 時折ときおり図書館から出てくる同じ制服の高校生に声をかけられ、手を振ったり冷やかされたりしている。市橋愛美は、なかなか人気者の様だ。

 
 六時半が過ぎた頃、彼氏に駅まで送られ、自宅へと向かう電車に乗る。

 駅のエントランスを出たあたりで、市橋愛美の足が止まった。帰宅の人々が流れる中に、中年の女性がミニチュアダックスフンドを連れて立っていた。

 黒毛くろげに茶色の麻呂眉まろまゆがかわいいダックスフンドが、市橋愛美を見ると甘えた声でき、リードを引っ張りろうとする。

 しかし女性の方はしかめっ面をしていて、どうもおこっているようだ。

 女性は背が高く、年のわりには豊かな黒髪で、すずしげな目元が上品な顔立ちだった。

 母親だろうその女性は――やはり千早ちはやに似ていた。

愛美あいみ。帰りが七時を過ぎるなら連絡入れなさいって何度言ったら分かるの。門限もんげんで絶対帰ってきなさいって言ってるわけじゃないんだから、それくらい守りなさい!」

「えー。七時なんて小学生でもじゅく行ってる時間じゃない。私何歳だと思ってるの?子どもあつかいしないでよ」

「まだ未成年のくせに何言ってるの!今の世の中変質者だらけなんだから、用心に用心をかさねて当たり前なの!」

「そうよね~。私お年頃の上カワイイモンネ~。気を付けなきゃ~」

「愛美」
 
 茶化ちゃかす娘にとうとう母親が本気のこわい声を出す。愛美もちょっと言い過ぎたと思ったようで、口を閉じておとなしくなる。

 足元でしっぽを振っていたダックスフンドを抱き上げ、母親は殊勝しゅしょうな顔をしている娘に「はい」と渡す。

「本当に冗談じょうだんじゃなくて、今の世の中へんな人がいっぱいいるんだから気を付けなきゃ。お父さんも心配するから連絡くらいは面倒めんどうくさがらずに入れなさい。連絡入れなかったばつとして、タロウを抱っこして帰るのよ」

「えーっ。最近タロウ太って重いのにー。歩かせた方がダイエットにならない?」

「今日はダメ。愛美の罰ゲームにならないでしょ」

「うわ、最悪。タロウ、ダイエットしなきゃね」

 うれしげにしっぽを振るダックスフンドを腕に抱き、市橋愛美は母親と連れ立って夜道よみちを歩いて行く。

 その後姿うしろすがたを、三人は駅のエントランスから見ていた。



 無言で感情をむき出しにすることもなく、しかし食い入るように市橋親子の後ろ姿を見続ける千早に、義人よしとはかける言葉を選びあぐねている。
 
 状況じょうきょうがヘビィ過ぎる、と心の中でもう白旗しろはたを上げたい義人である。

 泣いたり愚痴ぐちったりしてくれたらまだ返す言葉もあるけれど、心の情報が何もれてこないのが対応に一番こまるのだ。

 この場から動く気配のない千早に、さてどうすればいいかと考えていると、不意に千早が口を開いた。

「あの……ひとつ、わがままを言ってもいいですか?」

 やる事があると言って同行しなかったひかるから『できるだけ千早ちゃんの希望をかなえてあげてください』と言付ことづかっている義人は、ようやく口をきいてくれた千早に向き合う。

「え、ええ、何でも。高級ディナーでもカラオケオールでも、俺が出来る事なら何でも付き合いますよ。あ、でも、その……」

 一つの可能性を予測よそくして口ごもった義人に、千早は口元だけほんのり笑んで、首を振る。

市橋いちはし家の皆さんに接触せっしょくすることはしません。それは、しません。……一生」

 千早の言葉に、あきらがわずかに目を見開く。義人も、短い言葉に込められた大変な決断を読み取って、思わず声を上げる。

「一生って、ずっと、この先ずっと名乗り出ないんですか?自分が本当の娘だって、本当の市橋愛美だって、言わないってことですか?」

 人通りの少なくなった駅のエントランスで、三人は立ち話を続ける。夜もけて、き込んできた一月の風が身を切るようだった。

 冷たい夜風よかぜに乱れる髪を、千早は右手で押さえる。

「もう『愛美あいみ』さんには、彼女の人生がしっかり出来上がっています。家族も、友達も、彼氏も、学校も、家庭も、たくさんの大切なものがしっかり形成けいせいされています。
 それがたとえ虚偽きょぎの上に成り立ったものであっても、今からこわすのは、もう……ことではないと思うんです」

「でも、じゃあ、千早ちはや様はどうなるんですか?いきなりは無理ですが、時間をかければいつか真実を伝えられると思いますよ」

 義人のあせる声に、千早は一度目をつぶった。数秒してまぶたを開け、綺麗きれい微笑ほほえみを浮かべる。

「……仕方しかたいです。もう、何もかもが、遅かったんです」


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