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残月

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 日暮れが早い。
 森の魔女は窓の外を見やる。城壁と空しか見えないが、雲間から射す光にはすでに暮色が含まれていた。午前中は雲も少ない暖かな晴天だったが、風が強まり雲も拡がって、ぐんと気温が下がってきた。
 日毎に、日が短くなっていく。
 めまぐるしく変わる空の色はすでに秋から冬へと移りつつある。
 晩秋の暮色は美しい。美しいが、暮れなずんでいく黄昏の空は物悲しく、心細い気持を引き寄せる。眩しいほどの西日は直視に耐えがたく、つい翳にばかり目をやってしまうからだろうか。乾いた空気が肌に冷たい。それゆえに人肌が恋しくなる。
 こんな人恋しさは知らなかった。と、森の魔女はため息を吐く。
 人恋しさの「人」は、特定の人を指す。だからこそ、「こんな人恋しさは知らなかった」と、戸惑いを覚えるのだ。


 その特定の人セレンという名の美貌の青年だ。
 セレンは日暮れ時が近くなるにつけ、次第に口数が少なくなっていった。不機嫌そう、というのではないが、何やら思案にふけっている風で、窓の外を見るたびにため息を吐いていた。
 森の魔女と二人きりでいるこの時間は、セレンにとってやっと得られた休憩時間でもある。
「根を詰め過ぎるのもよくありませんから、小休止を取った方がいいのでは」と森の魔女が提案してくれたのだ。かくいう森の魔女も朝早くにセレンの居城に来ていて、使用人らと一緒に薬剤の在庫確認と処分作業に取り組んでいた。
 お互いやっと手が空くようになったのが西からの陽射しが強くなったいま頃、というわけだ。
 傍らに森の魔女がいないことが、セレンにはひどくさびしく、しかしそれを口には出せなかったから、代わりにため息ばかりが出てしまう。
「…………」
 執務室の隣室にて小休憩をとっているセレンだが、寛ぎ切れていない様子だった。テーブルに置かれた茶はすっかり冷めきっている。
 落ち着かなげにセレンの挙措を見ていた森の魔女が、たまりかねて声をかけた。
「あの、王子……もしかして具合でも悪いんですか?」
 森の魔女はセレンの恋人だが、それ以前に幼い頃から親しく付き合ってきた幼馴染という間柄でもある。それだけに取り繕う必要がない相手といってよく、それでついセレンは素を出してしまう。
「そういえば、最近寝つきが良くないって言ってましたよね? 頭痛とか寒気とか、そういうのありませんか?」
 ひどく不安げに、幼顔の恋人はセレンの様子を窺う。いつになく口数が減っているセレンが心配でしかたないといったようだ。森の魔女はセレンのために身体の温まる茶を淹れなおしてきたところだった。
「ありがとう、魔女殿。身体に不調はないから、大丈夫」
「だいぶ寒くなってきましたし、無理しちゃダメですよ?」
 小首を傾げると、長い黒髪がさらりと肩から落ちて、流れる。森の魔女の髪は、黒絹の艶を持つ。秋の夜空より濃く深い、漆黒の色だ。
 セレンは、森の魔女の黒髪が好きだった。黒曜石を溶かしたような色も、しっとりとした質感も。触れてその感触を愉しみたかったが、手を伸ばしても届かないところに、森の魔女はいる。傍にいるのに。テーブルだけの距離しか離れていないのに。
 ――遠くに感じる。
「お茶をありがとう、魔女殿」
「どういたしまして」
 セレンの微笑に、森の魔女もまた笑顔を返す。けれど心配げな色は、森の魔女の瞳からは消えなかった。


 今日、森の魔女がセレンの居城にやってきたのは、常備薬がいくつかきれていると城からの報せがあったからだ。森の魔女が作る薬は城下でも評判が良いが、それは城内勤めの者達にも好評で、それゆえ複数常備してある。胃腸薬や解熱剤、鎮痛剤、薬草の茶葉もあるし、軟膏もある。それらの備蓄が少なくなってきたから補充したいと、これは領主であるセレンの正式な依頼でもあった。城の備蓄は領民のためのものでもあるから、量が多い。それらの確認となると、ひと仕事といっていい。それで朝早くから城にやってきたのだ。
「領主様」は、森の魔女にとってはありがたい顧客だ。先代森の魔女の時からそれは続いている。
 森の魔女は物怖じしない性格だし、城の使用人らとも気安い。老練な執事ともそれなりに打ち解けてはいる。森の魔女にとってセレンの居城は足を踏み入れにくいという場所ではない。だが森の魔女は周りに気遣うようになっていた。
 セレンはリマリック領の領主で、トイン城の城主だ。しかも、現国王の庶子でもある。
 気軽につきあえる立場の者ではないのだ、と。森の魔女がそれを意識し始めたのは、いつ頃だったろうか。
 明確な原因があったわけではない、とセレンは思う。
 時期だけを見るなら、先代の森の魔女が病床に伏すことが多くなった頃だろう。
 森の魔女にとっては育ての親でもある「お師匠様」が病がちになり、やがて回復の兆しもなく天に召された、あの頃……。
 師匠亡きあと、魔女の弟子だった少女は「森の魔女」の名を継承した。それを自覚したのと同時に、セレンの立場と身分を改めて認識し直したのかもしれなかった。
 孤独感が少女を大人にした。

 が、ある一面において、森の魔女は幼いままといってよかった。
 ある一面……つまり恋愛面において、なのだが。幼いというより、ひどく鈍い。
 森の奥で魔女修行をしていたせいなのかもしれないとセレンは考えるが、しかしどうにも元来の性格のような気もする。
 むろん、その鈍さもいとおしく思うセレンではあるのだが、それゆえのもどかしさも、やはりあるのだ。もっともそうしたもどかしさは、純朴な森の魔女をからかって、その反応を愉しむことで拭っている。
 結局、森の魔女のことをとやかくはいえない。セレンにも子供っぽいところは多分にあって、むしろ大人になりきれていないのは、セレンの方かもしれない。


「最近、街で風邪が流行ってきてますよね? 急に冷え込んだり暑さがぶりかえしたりで、体調を崩す人が多いみたい。王子も、気をつけてくださいね。ちゃんと食べて寝なくちゃ、ダメですよ?」
 魔法薬作りを生業にしている森の魔女は、まるで医者のような口ぶりでセレンに注意を促す。医者というより、母親という方が合っているかもしない。
 森の魔女は母を知らない。だからこそ、母を求める心に敏感なのだろう。
 森の魔女は鈍感なところがある一方で、敏感なところもある。たとえばセレンが表情には出さない感情……セレン自身ほとんど無意識的に募らせている感情、その一つが寂寥感。その想いに、森の魔女は敏感だ。森の魔女がそれに敏感なのは、似た思いを胸の内にこもらせているからだろう。
 それでも……いや、だからこそなのか、「さびしい」と口に出すことはめったにない。
 森の魔女はお茶を用意した後も、落ちつかなげに動きまわっていて、セレンの隣に腰を据えることがない。乾燥ハーブの束を暖炉近くに飾ってみたり、良い香りのする蝋燭を灯してみたり、とにかく気ぜわしく動き回っている。そろそろ帰る時刻だと暗に示している。
 森の魔女の華奢な腕を掴み、引き寄せ、拘束したい衝動をセレンは抑えている。さびしげなセレンの眼差しに気づいているだろうに、森の魔女はそれを直視しないようにしていた。気ぜわしく動いているのは、後ろ髪ひかれる思いを自分なりにごまかしているのかもしれない。
 セレンは淡く微笑みながら森の魔女を見つめ、引き止める言葉を探していた。強引に引き止めて森の魔女の機嫌を損ねるようなことはしたくない。とはいえ今日は、どんなに言葉を尽くしても引き止めるのは難しいと思われた。
「あ、そうだ。王子に渡したいものがあったんだ」
 言って、森の魔女は小さな包み袋をセレンに差し出した。薄卵色の綿袋からは仄かに甘い香りがする。
「これは?」
「匂い袋です。鎮静効果と安眠効果があるようにハーブを調合したんです。ちょっと甘さが前面に出過ぎちゃいましたけど……こういう香り、苦手じゃないといいんですけど」
「いい香りだね」
 気にいったよと、セレンが笑うと、森の魔女もほっとして安らいだ笑みを返した。
「よかった! わたし好みの香りになっちゃったんで、どうかなって思ってたんです。わたしも同じものを持ってるんです」
 ほら、と森の魔女は小袋を取り出してみせた。お揃いなんですよと微笑む森の魔女の頬はほんのりと赤い。
「……君は」
 セレンはゆっくりと腰を浮かせた。そしてさりげなく腕を伸ばし、立ち上がると同時に森の魔女を抱きしめた。
「あ、あのっ、王子……っ?!」
 森の魔女のほっそりとした華奢な身体から、匂い袋と同じ、優しく甘い香りがした。抱き寄せるとさらにその香りは甘みを増し、温かみを感じさせる。
「君は、私を喜ばせるのが上手だね」
「え、ええ? そ、それは、そのどういう……いえ、そのっ、匂い袋を気にいってもらえたんなら、嬉しいですけどっ」
「うん、もちろん気にいってる。甘くて、君そのもののような、私の好きな香りだから。ずっとこうしていたいと思わせる、そんな香りだ」
「……王子ってば……」
 腕の中で、森の魔女は顔を真っ赤にしていることだろう。見なくてもわかる。
「離し難い香りと温もりだね」
 セレンは名残惜しげに森の魔女の身体をわずかに離し、それから森の魔女の額に軽く接吻した。森の魔女の顔は、さらに赤く、熱くなっている。
「――キラ」
「……っ」
 ふいに真名を囁かれ、森の魔女……キラは黒曜石色の瞳を大きく見開いた。セレンの優麗な微笑をとらえて、ためらうように瞬く。目を、逸らせなかった。
 まるで媚薬だ、とキラは思い、惑う。
 セレンの清艶な亜麻色の瞳と、甘やかな声音には抗いきれない魔力のようなものがある。「森の魔女」をとらえて離さない、「魔力」。セレンが口にする「キラ」という言葉は、魔法だ。セレンだけでなく、キラをもその魔法にかけ、恋情を覚ます。それはどこか「さびしい」という感情に似ている。
「キラ」
 セレンは悠然とした微笑を浮かべてキラを見つめて言った。
「今夜は、匂い袋ではなく、この香りをまとう君を抱いて眠りたいのだけど」
「お、王子ってばっ」
 セレンの腕の中から逃げ出そうと、キラはもがいてみせる。嫌がってのことではないと、セレンも、そして当人も分かっている。ただ恥じらっている、それだけのこと。それでもキラの黒い双眸は潤んでいた。
「無理にでも引き止めたいところだけど、今日は、やめたほうがよさそうだね」
「……王子」
 セレンがいつになくあっさり引き下がり、キラは少々戸惑い顔だった。意外そうにセレンを見つめる黒の双眸に、セレンは微笑みを返した。
「薬作りで忙しいみたいだね。君こそ、無理をして体調を崩さないようにね、キラ?」
「王子」
 キラはやにわにセレンの手を両手で包むようにして掴んだ。セレンの手はすこし冷たい。けれど冷え過ぎてはいなくてキラは安堵した。じきにハーブティーの効き目が表れてくるだろう。身体が温まれば良き睡眠も得られるはずだ。
「今夜はなるべく早く就寝してくださいね、王子」
「うん」
「その時は、匂い袋を枕元に置いてくださいね。わたしもそうします。……セレンのこと、想って。そうすれば、夢で逢えますから」
 ほんのりと頬を染めて、キラは気恥しげに……そしてどこかさびしげな翳の潜んだ微笑みを浮かべた。


 夜更けた頃、窓の外に目をやると、藍色の空に透けるような月を見つけた。セレンのこぼしたため息のような、白く淡い月。
 一人寝の寂しさを、キラも感じているのだろうか?
 かつては知らなかった、哀切な想いを抱えて横たわっているだろうか?
 夢で逢えると「森の魔女」が言ったのだから、きっと夢での逢瀬は叶うだろう。
 けれどその夢は、本物に会いたくなってしまうある種の「まじない」のようなものだと、セレンは思う。そしてもしかしたらキラは意図せずその「まじない」をセレンにかけたのかもしれない。
 手渡された匂い袋が甘く鼻腔をくすぐってくる。どこかあどけなさを感じる淡い香りには、やはりキラの魔法がかけられているようだ。
 甘い香りのするその魔法の名は、「恋」という。
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