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花結び

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 朝、セレンは寝台の端に座り、髪を梳かれていた。
 普段なら自分で身支度を整えるのだが、今朝は特別だ。
「いつもながら綺麗な髪ですよね、王子ってば。蜜蝋でも塗ってるんじゃないかってくらい、さらさらのつやつやで」
 素直すぎるほどの賞賛に、セレンは苦笑まじりに「そうかな」と応じる。褒められて嬉しくないわけではないのだが、どう返してよいのか分からず、ついそっけなくなってしまう。
 セレンの髪を梳いているのは森の魔女だ。セレンにとってはこの上なく大切な恋人でもある。
 同じベッドで二人は眠り、しかし目を覚ましたのは同時ではなかった。今朝は珍しく森の魔女の方がさきに目覚め、一通りの身支度を済ませていた。セレンの寝顔を堪能する時間まではとれなかったようだが。ともあれそれで気を良くしたらしい。森の魔女はいつにもましてご機嫌だ。髪を整えてあげますね、と嬉々として志願してきた。
「着替えも手伝ってくれるのかな?」とセレンはからかってきたが、さすがにそれは丁重に、きっちりと、断った。セレンの身分なら着替えも他者に任せるのが普通といえなくもないが、セレンは大抵のことは自分で済ませていると、森の魔女は長年の付き合いで知っている。
 とはいえ、いたってシンプルな出で立ちで、飾り気のなさには森の魔女も少々呆れるほどだ。
「王子ってば、もうちょっと自分の美形っぷりを自覚したほうがいいと思いますよ?」
 髪を梳きながら、森の魔女はすました声でセレンに忠言してくる。いったいどういった意図でそれを言うのやらと、セレンは何やら可笑しくもある。もっと着飾れと言っているようではないが、あまりにシンプルすぎないか、という。人のことは言えないだろうにと、セレンは内心苦笑している。かくいう森の魔女も、常日頃から質素な衣服を好んでいる。「魔女だからこれでいいんです」とのことだ。
 森の魔女は丁寧にセレンの髪を梳き、毛先に自作の特製ヘアオイルを塗りこんでいる。セレンのために作ったオイルなのだという。薔薇の香りだろうか。仄かに香ってくる。
「これで王子の美形度も三割増しですよ」
 なぜかしら、森の魔女は自慢げだ。
「そういうものかな?」
 美形度とはなんなのかと、セレンは苦笑しつつも問い返さない。ともあれ、森の魔女はご機嫌な様子だし、その機嫌を損ねたくはない。
 しかし、とセレンは思う。森の魔女は、セレンが自身の容貌を自慢げに語り、派手な貴金属で身を飾るような性格なら、きっと眉をひそめて諌めるに違いない。
 森の魔女はセレンより年下なのだが、時々セレンにまるで母親かのようなお説教をすることがある。世話焼きなのは性分なのだろう。生活環境に寄るものかもしれないが。幼馴染という間柄からくる遠慮のなさも多少はある。お説教といっても押しつけがましくはないから、セレンにとっては好ましく、心地よくすらあった。
 亡き母の面影を恋人である森の魔女に重ねて見ているつもりはないが、はたしてどうだろう。外見も性格も、似たところは少しもない。
 セレンの美貌は母親譲りだ。森の魔女もよくそれを口にする。他者への労わりや優しさも、セレンは母からその性質を受け継いだ。
 髪と瞳の色も母から継いだものだ。セレンの方が髪色は若干淡く、巻きの癖も強い。
 緩やかに波うつしなやかな亜麻色の髪は極上の絹糸のごとく美しい。セレン自身はそう思っていないのか、煩わしいからと伸ばしっぱなしにしていた髪を無頓着に切ってしまったことがある。切り過ぎ、というまでには至らず、いまは肩甲骨に触れるか触れないかの長さにまで戻った。普段はひとつに束ねている。短くし過ぎると癖が強く出てしまい、かえって手入れが面倒だと気付いたようだ。
 かほどに、セレンは自身の美容に関してさほどの拘りがない。むろん身なりを気にしないということではない。身だしなみを整えるのは人として当然のことだろうし、ましてやセレンは領主という立場にある。身なりを整えるのは威儀を正すことにも繋がる。身分に応じた「格好」でいる必要はあると、セレンなりに考えている。
 衣服にしろ髪型にしろ流行があるらしいことは分かるが、それには関心がない。
 身支度は大抵自分で整えるのだが、メイドらに頼むこともままある。社交の場に出る時は普段以上に気を遣わなければならないと、そこまでは考えの至るセレンだが、自身をどのようにして飾りつけたらよいのか。衣装の合わせ方を考えるのは、どちらかといえば不得手いっていい。それゆえ衣装選びもほとんどメイド任せだ。自分でできるのは清潔さを保つことくらいだろう。整髪も基本的に自分で行っているが、人任せにすることもある。セレンは存外「人任せ」にすることに対してためらいがない。
「王子、髪、ずいぶん伸びましたね」
「そうかな?」
「前に、自分でばっさり切っちゃったじゃないですか? あれには驚きましたよ、ほんとに! 王子ってば、へんなところでおおざっぱですよね」
「自分でやれば時間がかからないと思ってね。以前、散髪を頼んだらやたらと時間を食われたことがあって」
 ほんの少し切るだけでよかったのに、とセレンはため息をついて見せる。
「だからってテキトーすぎるんですよ。メイドさん達が嘆いてましたよ?」
 森の魔女様からどうかお口添えを、と頼まれたらしい。魔女様の言うことならば聞き入れてくださるだろうと。
 メイドらは、じつによくセレンの性格、というよりは森の魔女との関係性を理解している。それは二人が恋人同士になる以前からほとんど変わりがない。
「まあ、さすがに反省したよ。ざんばらになってしまったし、部屋の掃除も大変だったようだから」
 二度としないよとセレンが笑い、森の魔女も約束ですからねとやはり笑って返す。他愛無いやり取りが二人の心を和ませる。
「王子、今日は町の視察に出るんでしたよね?」
 喋りながら、森の魔女はベッドの上で膝立ちになり、セレンの髪を整える。一部の髪を編みこんでまとめようとしているようだ。普段しない髪形にするのが楽しい。セレンは森の魔女の好きなようにさせている。
「うん、町というか……ちょっと遠出になる」
 日帰りでの視察ではないとセレンは語る。
「先日、ようやく馬を何頭か新たに買い付けることができてね、最近拓いた農場の、新しい馬場に住まわせることにしたんだ。調教師も何人か確保できたしね。町の様子は馬場にいく道すがら、ということになるかな。町の様子もゆっくり見て回りたいのだけど、それは別の日に改めて、ということになるね」
 書類に目を通し、サインするだけが領主の仕事ではない。セレンは日々多忙だ。積極的に城下の商店街や農場に足を運び、実情をその目で確かめることをセレン自身が自分に課している。領内の視察は、セレンにとって経験不足を補う一つの手段でもある。有能な執事らがうまく内政を取り仕切ってくれるが、任せきりにはできない。学びながら、自分が成すべきことをこなしてゆかねばならない。
 セレンの人好きのする性質と、努力を厭わない心構えは、領内統治に向いているといっていいだろう。セレン自身、思いの外まつりごとを楽しんでいる向きがある。何かを「成せる」ことが喜びの一つになっているのだろう。
 セレンが統治を任されているリマリック領は国の境が近く、かつ王都からは遠い。幸い、領地の大半は森に囲まれていて国境地といってもわりあい平穏な土地だ。大きな騒乱はほぼなく、セレンが領主となる前から落ち着いた土地柄で、長く平和を保ってきた。治めるのに困難はない、ということでセレンが領主に充てられた、ということもあるだろう。
 領土はさほど広くなく、農地に適した土地は少ないといっていい。決して豊かとはいえないリマリック領だが、城下での商業は盛んといってよく、それらは前代領主の功績だ。前代は温厚な人物だが、一方で革新的な一面もあり、領内を富ませるために農業以外の「産業」にも力を入れた。そしてそれを、セレンに継いだのだ。
 セレンは良い形で領主の地位を譲られ、またそれをよく保っている。王都から隔たった辺境地にしては、ほどほどに栄えている。領民は飢えを知らず、のんびりとした生活を送れている。そして「森の魔女」と呼ばれる者が安気に暮らしていける土地柄でもある。長閑で、ちょっとだけ特殊といっていい領地なのだ。
 ふと、セレンは肩越しに振り返り、何気なく言った。
「魔女殿も、一緒に来る?」
「え?」
 森の魔女は手を止めた。どうやら髪のセットも終わったようだ。セレンは身体ごと振り返って森の魔女の驚き顔を見やる。
「一緒にって……視察にですか?」
「うん、新しい農場を君にも見せたいなと思って」
「だめですよ、そんなの。お仕事なんですよね? なのにいきなりわたしがついていくなんて……さすがにそんなことできません。わたしだって、森に帰らなきゃ。リプに任せてる作業もあるし」
 森の魔女の答えは、分かっていた。真面目な性分なのだ、喜んでついていくなどとは言いだすはずもない。ただ、農場を見せたい、というのは本心だった。それに、たまには恋人と遠出をしたい、というのも本音だ。
「残念」
「もうっ、王子ってば。そんなわざとらしくため息つかないでください」
 セレンは力なく、ははは、と笑ってみせる。残念だが、次の機会を作ればいいだけのことだ。森の魔女に仕事として依頼すれば、快く了承してくれるはずだ。なにかしらの「建前」が、森の魔女には必要なようだから。
「そういえば、王子」
「うん?」
 半ば強引に話題を転じたのは、セレンの髪を再び手櫛で整えている森の魔女の方だった。セレンの亜麻色の髪の触り心地の良さを改めて堪能しているようだ。
「中庭のリラの花が、綺麗に咲きましたね。今年はなんだか、全体的に開花が早かったような気がします」
「晴天続きで暖かな日が多かったからかな? それに、魔女殿が来てくれる日も多くなったから」
「お天気はともかく、わたしはあんまり関係ないんじゃ……そりゃ、少しくらいは世話もしましたけど……」
 王子のとこの園丁の皆さまはとても腕がいいから、と森の魔女はちょっと照れたように笑う。
 リラの花は、セレンの亡き母が殊に好んだ花だった。森の魔女もそれを知っているから、リラの花の開花は毎年欠かさずに確認している。
「それでですね。じつはリラの花をちょっと分けてもらって、髪飾りを作ってみたんです。王子に似合うようにって」
 そう言うや、どこから取り出したものか、森の魔女は薄紫のリラの花をつけた髪飾りをセレンに見せた。いたってシンプルなつくりの髪飾りで、リラの花の枝そのまま、といった具合だが、ガラス細工のようにも見える。魔法をかけたのだと、森の魔女は語る。花の形と色、匂いが保たれる術をかけてあるのだが、長くは持たない。急ごしらえだからと森の魔女ははにかんで笑い、セレンの返事も聞かずに編んだ髪に挿した。後頭部だから、セレンは鏡越しでしか見えない。
「道行きの加護の魔法をかけましたから、お守りと思って、身につけていてくれると嬉しいです」
 女性ではないのだから髪飾りは遠慮したいと無碍に断らないのは、セレンの鷹揚さでもある。
「ほんとうは花冠にしたかったんだけど。王子ならぜったい似合うもの」
 森の魔女はくすくすと笑う。何か思い出したらしい。
「昔、王子のお母様に習って、一緒に花冠を作ったことがありましたよね? シロツメクサやデイジーで編んだ花冠」
「ああ……」
「王子ってば、失敗ばかりでしたよね? 王子にも苦手なことがあるんだなって、なんだかすごく新鮮で」
「君は、とても上手だったね。花冠だけじゃなく、花輪飾りもつくってくれて」
「お師匠様と王子のお母様と、あと先代のご領主様の奥方様にも教えていただいたんです。先代の奥方様はほんとうにお上手で、今でも趣味で作られているそうですよ。時々森の館に使いを寄越して乾燥ハーブをもとめていかれるんです」
「ああ、それなら、つい先日奥方様から頂いたよ、ハーブ入りの花輪飾りを」
 先代の領主は、セレンの後見人でもある。名ばかりではあるが、セレンは先代領主の養子ということになっている。現在先代の領主夫妻は閑静な地で隠居住まいをしている。温和な老夫妻は名目上の養子であるセレンだけではなく、「森の魔女」も等しく慈しんでくれ、いまも交流がある。
「奥方様が、久しぶりに森の魔女殿に会いたいと言っていたよ。二人で遊びにいらっしゃいと。そういえば、魔女殿はあちらの邸にはまだ行ってなかったね?」
「はい。お会いするのはいつもこの城内でしたから。ご迷惑でなければ、是非行きたいです」
「うん。なら、都合を合わせて、お二人に会いに行こうか」
 嬉しいですと、森の魔女は弾んだ声を出した。
 森の魔女はセレンの母も好きだったし、セレンの親代わりといってもいい先代ご領主夫妻も、やはり同じように尊敬していて、大好きなのだ。
 君には大好きな人が多いねとセレンがからかうように言うと、森の魔女は朗らかな笑顔で応じた。
「だって、とっても良い方たちだもの。それに王子のお母様と、親代わりなんだもの。好きになってあたりまえじゃないですか」
 てらいもなく、さらりと言う。森の魔女の素直さが、セレンにとっては救いだし、ひどく眩しく感じることもある。
 ――それならば。
 と、セレンの頭をよぎったことがある。
 セレンの「父」に対しても、そのように思ってくれるだろうか、森の魔女殿は? 対面を厭わないでくれるだろうか?
 セレン自身も、よくは知らないといっていい、「父」。
 容易く会える立場にはない関係だ。それでも、業務連絡にまじえて、親書が届くこともある。繋がりは途絶えていないのだ。
 セレンの父は、その立場上気軽に遠出はできないのだが、性質としてはひどく「気軽」だ。好奇心が強いともいうが。
 いずれにしても、近く対面の叶う日がくる。そのためのやりとりが幾度となく交わされている。魔女殿にはまだ報せられないが。
「……なんです、王子?」
 森の魔女の黒い双眸が、じっとセレンを見つめていた。何か企んでるんですか、とでも言いたげな顔だ。なんでもないよとセレンがいっても、「王子の何でもないが何でもなかったことって、あんまりないですよね?」と、森の魔女は返してくる。
「日を合わせてなくては、と考えていただけだよ。こちらの都合だけでは決められないからね」
 セレンは曖昧にぼかしたが、森の魔女はそれを先代ご領主に会いに行くための算段なのだろうと納得した。セレンの思惑はまた別のところにあったのだが、どちらにせよ、段取りは付けなくてはならない。
「さて」
 深く息を吐いて、それを弾みとしてセレンは立ちあがった。
「このまま魔女殿とゆっくり過ごしたいところだが、そろそろ行かなければ」
「あっ、はいっ」
 森の魔女もあわててベッドから降りた。話しこんで、すっかり長居してしまった。王子はこれからお仕事でその準備で色々と忙しいだろうに、のんびりしすぎてしまった。
「君はまだゆっくりしていっても構わないよ」
「そういうわけには! わたしに、何か手伝えることありますか?」
「……うん、ならば魔女殿」
 セレンはわたわたと焦る恋人の手を掴んだ。
「出かける前に、君にひとつお願いがあるのだけど」
「な、なんですか?」
 手を掴まれたまま森の魔女は頬を朱に染めてセレンを見つめ返す。小柄な森の魔女のためにセレンは少し身をかがめてくれている。礼をとっているような、美しい所作だ。浮かべている微笑はさらに美しい。亜麻色の瞳に森の魔女だけを映して、麗しい笑みを湛えている。
「リラの髪飾りに守りの魔法がかかっているとは先ほど聞いたけれど、できれば……キラから直接加護を得たいな、髪にではなく」
 森の魔女の真の名を声にする時、セレンの亜麻色の瞳はこの上なく甘い。キラは一瞬だけ表情を堅くさせるが、すぐに照れくささの入り混じった微笑を浮かべ、セレンの求めに応じた。
「いってらっしゃい、セレン。気をつけて」
 爪先立ちになって、キラはふわりと軽い口づけを、セレンの唇に贈った。森の魔女の加護の魔法も、もちろん込めて。
「帰りを、待ってますね」
 ぎこちない接吻にセレンは微笑みを返した。
「ありがとう、私の魔女殿」
 リラの花の髪飾りがセレンの心に呼応するように揺れ、微かに甘い香りを零していた。
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