恋愛蜜度のはかり方

るうあ

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幸せな日常 ◇◇美鈴視点

雨に落ち居る

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 雨の降る日は、少しだけ憂鬱。
 けれど少し安らいだ気持ちにもなる。
 地面に降り落ちて潤いを与えるように、心にしっとりとした静逸さを与えてくれる雨は、どこかあの人に似ている。
 あるいは、空模様の全てが似ているのかもしれないけれど。

 ――雨の匂いがする。
 久しぶりの雨はいいけれど、乾燥しまくってる空気はなかなか潤わないとか、今日は花冷えだとか、これでもう大抵の桜は散ってしまうなとか、そんなことをつらつらと考えていたら、廊下の曲がり角で、人とぶつかりそうになった。
 出くわしたその人にはぶつからずにすんだけど、持っていた書類を落としそうになって、とっさに胸元に押さえつけた。
 顔を上げると、そこには見慣れているはずなのに、見るたびに鼓動が高鳴る人の顔があった。
「お、お……かえりなさい」
 さり気なく言おうとしたのに、失敗してしまった。
「ただいま」
 笑顔で応じてくれたのは、わたしが所属している課の上司、高倉主任だ。
 上司ではあるけれど、ただの上司ではない、――わたしにとっては特別な……彼。
「今から、部屋へ戻るところ?」
 訊かれて、わたしは頷いた。
 わたしは総務課からいつもの仕事場である部屋へ戻るところで、ばったり出くわした高倉主任は外出先から戻ってきたところだった。
 いっそぶつかってしまえばよかったかなと、頭の隅でチラリと思ったりなんかして。
 ぶつかって、高倉主任に触れたいって思ってしまった。
 関係を勘ぐられないよう、ちゃんと距離を置かなくちゃいけないと気をつけているからこそ、偶然にかこつけて、高倉主任に近づきたかった。
 そんなことを言えるはずもなく、わたしはひっそりと嘆息した。
「高倉主任も、戻るところですよね?」
「うん。夕方に会議があるから、またちょっと抜けるけどね」
 高倉主任もため息をついた。
 もちろんわたしとは別の理由からのため息だ。
 高倉主任はため息をついた後、物憂げな様子で額にかかる髪をかきあげた。髪は少し湿っているようだった。それに肩先も僅かに濡れていた。雨に打たれたのだろう。ひどく濡れた様子はなかったけれど、ダークグレーのスーツが湿ってところどころ色を変えているのが見て取れた。
 春の雨は、湿度は上がらないけれど、空気に靄がかかって、埃っぽさもおさまらない。いっそもっと激しく降ってくれれば、空気中の埃とか飛散してるだろうスギ花粉なんかをおさえこんでくれるだろうに。
 それに今日は、正午を回っても気温は上がらず、少々肌寒い。そのせいか、高倉主任の微笑に僅かな翳りが窺えた。顔色が冴えない。
 疲れているのかな? 体調崩したりはしてないかな?
 それを聞きたかったけれど、タイミングを逃してしまった。
「その書類、もしかして派遣の、契約更新の?」
「え……、あ、はい、そうです。契約内容自体に変わりはないんですけど、少し文書に変更があったからって。それに、契約更新していただけることになりましたから」
「木崎さんを切ったりしないよ」
「そ、そうですか……」
「木崎さんだけじゃなく、うちの課の子達は全員、今年は契約更新のはずだからね」
「そうみたいですね」
 当たり障りのない、上司と派遣社員との会話だった。周りの目を気にして、どうしてもそういう味気ない会話になってしまう。わたしの我儘で、わたしと「高倉維月さん」との関係は、社内では秘密にしているから。
 それでも、高倉主任はわたし個人に対してさり気ない優しさを見せてくれる。
 わたしが周りの目を気にしてぎこちない返答しかできないでいるのに、それを可笑しがったりもしないし、不快そうな顔をしたりもしない。高倉主任は気負いも見せず「主任」の顔を保って、それなのに不意をついて「維月さん」のまなざしを向けてきたりなんかする。
 たとえばこうして、二人きりでいるときなんかに。
 注がれる「維月さん」のまなざしは、降り注ぐ細雨のように静かなものだった。

 会社の駐車場は、ビル横にある立体駐車場の他に地下にもある。けれどそこは重役専用らしい。
 一応「主任」という役職をもらっているにせよ、立場的には平社員とさして変わらない高倉主任は、立駐に車を停めている。そこから傘もささずにビル内に戻ってきたようだ。
 小雨だからと、傘は持って出なかったらしい。
 わたしは周りを気にしながら高倉主任の様子を窺い、語を継いだ。
「雨、まだ降ってるみたいですね。今日は気温も上がらなそうですし」
 幸い、人通りはない。人のざわめきは耳に届いてくるけれど、廊下にはわたしと高倉主任しかいなかった。
「うん。天気予報が見事に当たったね。帰りにはやむといいけど、どうかな」
 向かうところが同じだから、わたしと高倉主任は一緒に歩き出した。なぜだか、わたしの方が前を歩いてる。歩きながら、ぽつぽつと話をする。内容は他愛無いこと。仕事のことだったり、天候のことだったり。
 背後にいる高倉主任の気配に、心は乱れがちだった。
 何度となく聞こえる、高倉主任のひそめたため息が、気にかかった。
 足を止め、振り返ってみると、高倉主任はちょうどスーツの上着を脱いでいるところだった。肩の凝りをほぐそうとしてか、軽く首を回す。それからドット柄のネクタイに手をかけた。インディゴブルーのネクタイを少しだけ緩めて、ため息をついた。
 やっぱり、相当に疲れているんじゃないだろうか?
 取引先への挨拶回りも仕事のひとつだ。営業課の業務ではあるんだけど、高倉主任も何ヶ月かに一度は「顔」を見せに出る。取引先の上役さん達への挨拶や業務報告、堅苦しい場に赴かなくてはならない。けれど、たまには外へ出るのも気晴らしになるよなんて高倉主任は笑っている。そんな気楽なものではないはずだ。だけど肩肘を張らず気楽であろうと心がけているのかもしれない。
 疲れないわけがない。
 それなのに、高倉主任は不平や愚痴をめったに吐かない。まったく口にしないわけじゃないけど、疲れを吐露するにしても、それはほんのちょっと……そう、ため息をつくくらい。
 大丈夫ですかと問おうと、開きかけたわたしの口から出たのは、くしゃみだった。慌てて口元に手をやり、スンッと洟をすすって肩を竦めた。ちょっと鳥肌がたった。
 高倉主任は「大丈夫? 風邪?」と含み笑いをしながら訊いてきた。それは、わたしが訊こうとしてたことなのに。逆に訊かれてしまうなんて!
「だ、大丈夫ですからっ」
 寒いのは、雨に濡れて戻ってきた高倉主任の方だろうに。それなのにわたしがくしゃみをしてしまうなんて、なんだか恥ずかしい。
 わたしはふいっと顔を逸らし、また高倉主任に背を向けて歩き出した。少し俯き加減になって、書類の束を胸元で抱いた。

 今も、周りには人気がない。わたしと高倉主任の道行を見ている人はいないはずだ。
 相変わらず、離れた所から人の話し声や電話の鳴る音なんかが聞こえてくるけれど、エレベーターが動く気配もなく、階段を上り下りする足音もまったく聞こえない。今わたし達がいる二階の廊下は奇妙なほど静かだった。
 けれど、あと数歩進めば、わたし達の職務の場である部屋に着く。
 わたし達の勤め先のオフィスビルは、事務所内や食堂なんかは広く造られているけれど、廊下は存外狭い。
 片側には壁が続き、場所によっては絵画が掛けられていたり社のポスターなどが貼ってあったりする。もう片側は窓。窓といっても開閉できるのはごく一部。でもこのガラス張りのお陰で狭さを感じさせず、照明がなくても十分に明るい。
 窓の外は、雨模様だ。まだ止みそうにない。
 街は春雨に霞んでいる。街路樹も雨に打たれ、芽吹きだした木々の若葉色は、今日はくすんで見えた。細い枝先が風に揺れる。寒そうに震えているようにも見えた。
 何気なく窓の外に向けていた視線を戻し、軽くため息をついた、その時だった。
 ふっと背後の気配が揺れて、そしてそれが覆いかぶさってきた。
「……っ!」
 足が、竦んだ。
 振り返ることもできない。いきなりのことにびっくりして、鼓動が跳ねる。
 わたしは高倉主任の両腕にとらわれ、抱きしめられていた。
「い、いつ……っ」
 息が詰まるほどの、抱擁だった。
 高倉主任はわたしの肩をぎゅっと掴んで抱き、髪に頬を寄せてきた。
「…………」
 高倉主任の嘆息が耳朶にかかった。硬直していた全身が粟立つ。わたしは思わず目を閉じた。心臓が痛いほどにどきどき鳴っている。
 沈黙の中、わたしの心臓だけがやたらに騒いで、きっとこの高鳴りは高倉主任にも伝わっているはずだ。
「…………」
 もう一度、高倉主任はため息をついた。疲れを吐き出すような、深い深いため息だった。それからすぐに、高倉主任は両腕をはなし、身を離した。
 長いように感じられたけれど、それはほんの数秒足らずの短くあっけない抱擁だった。
「ありがとう、美鈴。……――助かった」
 身を離すその直前に、高倉主任ではなく、「維月さん」がわたしの耳元でそう囁いた。
 とまどい顔のわたしに、すまなそうな笑顔を見せた維月さんは、けれどもすぐに高倉主任の顔に戻り、「先に行くよ」と、わたしを追い越して行った。
 取り残されたわたしは、ぼう然と立ち尽くしていた。
 いきなり背後から抱きしめられて、しかも会社の廊下でっていう場所もあって、ひどく焦ったし、驚いた。
 だけど、とまどったのは、維月さんの言葉にだった。
 だって、……「ありがとう」なんて……。それに「助かった」って、わたし何もしていないのに。
 ありがとうなんて言葉をかけてもらえる何かを、わたしは維月さんにしてないのに。
 だけど、……だけどなんとなく、……分かる気がした。なんとなくだけど、維月さんがわたしを抱きしめた理由。それが「ありがとう」に繋がるのかもしれない。
 きっと、すごく疲れていたんだろうと思う。疲れて、ちょっと寄りかかりたかったんだろう。
 あんな風に、わたしに寄りかかってくれることなんてめったになくて驚いたけれど、心を隠してばかりの人じゃない。甘えてくることだってある。微苦笑しながら、「疲れた」って弱音を漏らしてくれることだってたまにはある。
 わたしなんか、維月さんによくそうして寄りかかってる。
 くだらないミスをしてへこんだ時や寂しさに心が塞いでしまいそうな時に、傍にいてほしいと願ったり、甘えたりしてる。
 だから、それと似たような理由だったんだと思う。
「…………」
 胸を押さえたまま、深呼吸をした。
 そして、ふと、思った。
 疲れてる維月さんのために、何かをしてあげたいと思う。
 けれど、何をしなくても、ただ傍にいて寄り添っているだけでも……もしかしたら、心の支えになれるのかもしれない。
 わたしなんかにできることは少ないけれど、それでもさっきみたいに、ただ居るだけならできる。
 今もまだ、背中や肩に、維月さんの抱擁の熱が残ってる。耳にかかったため息も、囁きも。
 維月さんがわたしを必要としてくれてる。それが分かって、嬉しかった。
 だから、さっきの「ありがとう」。それは、きっと維月さんのありのままの気持ちだ。ちゃんと受け取ろう。
 そしてわたしからも「ありがとう」って伝えたい。
 すぐにでも伝えたいから、休憩時間の時にでもメールを送ろう。
「元気出していってください。呼んでくれたら、いつでも会いに行きます」って。
 気の利いた台詞は思い浮かばない。
 けれどきっと維月さんは笑ってくれる。雨上がりの空のように、晴れ晴れとした笑顔を見せてくれたら嬉しいな。
 そんなことを考えながら、わたしは首を伸ばして息をつき、再び歩き出した。
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