恋愛蜜度のはかり方

るうあ

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幸せな日常 ◇◇美鈴視点

ほどける 2 <R>

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 俄かに雨脚が強まってきた。
 維月さんがわたしのアパートに着いた時には雨はいっそう強くなり、激しい雨音を響かせていた。
「急に、ごめん」
「ううん。それより、そんなに濡れて」
「……たいしたことないよ」
 部屋にやってきた維月さんは雨に濡れていた。駐車場から部屋まで傘もささずに走ってきたらしい。駐車場はアパートのすぐ前で近いけれど、屋根があるわけではない。電話をくれれば駐車場まで迎えに行ったのに。
 ――どうしたんですか? 何かあったんですか?
 そう訊きたかったのに、問いは言葉にならなかった。たとえ尋ねても「たいしたことない」と微苦笑が返ってくるだけだろう。
 それに「何があったのか」、訊かずともなんとなくわかる気がした。昨日のことなんだろうって。昨日の石塚さんとの一件は、あの時の話し合いだけで落着したとはいえないようだったから。
 だから訊かない。わたしが首を突っ込むべきことじゃない。
 話してくれなくても、こうしてわたしに会いに来てくれただけで十分だ。
 わたしは改めて維月さん見た。上司でもあり、恋人でもある、高倉維月さん。
 涼しげな目元と形のよい鼻梁と口唇、卓抜した美貌とはいえなくとも端正な顔立ちには違いなく、あっさりとして穏やかな印象を受ける。それでいて、時々ひどく眼力が強くなってわたしを戸惑わせたりする。
 やや細面でその顔の三方を縁取る髪は、光加減によってこげ茶色や漆黒色に見える。自然なままの髪なんだろう。夏だから、髪も肌も多少日に焼けたのかもしれない。
 髪からは滴が垂れて落ち、白いワイシャツも濡れて肌にはりついていた。維月さんはネクタイを緩めて襟元を崩し、嘆息した。額にかかる濡れた髪を煩わしげにかきあげ、またため息をつく。
 目のやり場に困って、視線を逸らした。
 頬が熱ってくるのが自分でもわかる。
 ドギマギしつつ、わたしはタオルを持ってきてそれを維月さんに渡し、着替えをすすめた。維月さんの服は何着か置いてあるし、それを用意すべく、また急いで踵を返した。
 けれど、維月さんに止められた。
「……美鈴」
 維月さんがわたしの手を掴む。濡れているのに、維月さんの手のひらは熱かった。振り返り、維月さんを見る。縋るような瞳とぶつかって、どきりと胸が鳴った。
「あ、あの……何か、温かいもの、淹れましょうか? 今夜はけっこう冷えるから、ちゃんと温まらないと。その前に、お風呂に……――」
 言い終えぬうちにわたしは維月さんに抱き寄せられていた。背後から腕を回され、拘束されてしまった。
 無言のまま、維月さんはわたしの髪に顔をうずめる。押しつけられた維月さんの体は雨に濡れて湿っているのに、冷たくは感じなかった。じっとりとした感触が伝わって、わたしの着てるチュニックが水分を吸っていくのがわかる。維月さんの体温が、湿り気を通してわたしの体に浸透してくるみたいだ。
 維月さんの腕を無下に振りほどいてしまえるはずもなく、成す術もなく、ただ立ち尽くして維月さんに抱かれていた。
 激しい雨の音が聞こえる。そして、わたし自身の鼓動と維月さんの呼吸。
 維月さんの熱い吐息がうなじにかかって、反射的に肩をすぼませた。
 維月さんは顔をあげ、僅かに体を離した。
「……維月さん……?」
 肩越しに振り返り声をかけると、維月さんの腕が片方だけはずれた。ぱさりと、ネクタイが床に落ち、続いてタオルも落ちた。それにつられ、わたしは視線を落とす。維月さんは一言も発しない。
 わたしは顔をあげ、再び維月さんを肩越しに振り返り見る。けれど維月さんはわたしから顔を背け、目を合わせてもくれない。
「……維月さん?」
「…………」
 維月さんはいつになく口数が少ない。何か言いたげな様子なのに口の端をきつく引き結んでいる。微笑みも浮かべない。
 疲れている時、維月さんはたいてい黙りがちになる。口をきくのも億劫といったように。
 こんな風に後ろから抱き締めて、顔をうずめて。もしかして……顔を見られたくない?
「あ、の、維月さん……」
 だから腕を振り払えなかった。維月さんの腕の中で身を竦ませて、とまどいがちに名を呼ぶだけ。
 なんだかとても情けない気分だった。
 だって、どうしたらいいのか分からない。わたしにどうしてほしいのか、それを察してあげられたらいいのにって思うのに。
 わたしが落ち込んでる時、何も言わなくても維月さんはわたしの気持ちを察してくれ、さりげなく励ましてくれたり甘えさせてくれたりする。それなのにわたしは……――
「――美鈴が」
 維月さんのかすれた声が、耳朶をくすぐった。
 ぞくりと、肌が粟立つ。
 維月さんは腕の力を少しだけ緩めた。だけどそれはわたしの体を解放するためじゃなかった。維月さんが耳元で甘く囁く。――温めて、と。
「……っ」
 維月さんの手が動いた。
 わたしの喉を撫でたかと思うと、その手をゆっくりおろしていき、チュニックをたくしあげて中に手を滑り込ませてくる。維月さんの指に力が入った。腹部を支えるようにして押さえる。
 維月さんの手のひらが当たってる場所が熱い。そこから融けていってしまいそうなほど。指だけが緩慢に動いて、肌を揉み、撫ぜ、静かな刺激を与える。
 しばらくそうしていたかと思うと、維月さんは腹部に押し当てていた手を、いきなり下におろした。チュニックの下のハーフパンツをずり下ろされ、わたしはたまらず身を捩った。
「……い、つ、……っ」
 維月さんの唇がうなじに触れる。舌が這う。唾液で濡れたそこが空気に触れ、ひやりとした。
 鼓動が速まっていく。
 維月さんの手が、また腹部を撫でる。やわやわと焦らすように揉み、徐々にその手を下腹部におろしていった。内股に力がこもる。けれど維月さんの指は侵入を止めない。指先が、――熱く蒸れ始めているそこに触れた。
「……っ」
 首を竦め、ぎゅっと目を閉じた。声を漏らさぬよう口に手を当てると、維月さんはやにわにその手を掴んで剥がし、壁に押しつけた。
 維月さんが耳元で低く囁く。
「壁に、両手をついて」
 有無を言わさぬ声で。
 維月さんは強張ったわたしの体をさらに壁に近づけさせる。こんな時、維月さんは容赦がない。
 維月さんの下半身が臀部に当たった。わざと押しつけているのかもしれない。硬くなった、それを。
「……っ」
 恥ずかしくて、火が点いたように全身が熱くなる。ぞくぞくとした快感が脊髄に集まり、それが全身を戦慄かせる。思考が麻痺して、もう何も考えられない。抗えない。
 維月さんの言いなりにわたしは両手を壁につく。そして維月さんのすべてを、受け入れた。

* * *

 夜明け前、ふいに目が覚めた。雨の音は聞こえない。
 日の出の時刻にはまだ早く、仄かに白んではきているようだけど、窓の外はまだ薄暗い。
 雨はあがったんだろうか。
 不思議なほど静かな夜明け前。鳥の鳴き声も風の吹き渡る音も、車の走行音も聞こえない。耳に届くのは、わたしに腕枕をしてくれている人の寝息だけ。
 素裸のままで横たわり、ぐっすりと眠っている維月さんをしみじみと眺めた。
 胸が呼吸に合わせて上下している。
 髪は寝乱れていて、額にかかる髪が目元に影をつくっていた。撫でて、梳き整えてあげたいけれど、起こしてしまうかもしれないと、我慢した。
 ゆっくり休んでいてほしい。目覚めた時には心身の疲れがとれているといい。
 維月さん、相当疲れて、くたびれているようだったから。
 昨夜、体を求められたのは一度きりだった。その「一度」は、ひどく激しかった。凄まじいほどの勢いで、一切の手加減なく、わたしを翻弄した。
 あんな風に荒々しく、一方的に抱かれたのは初めてかもしれない。玄関先で、しかもあんな体勢で無理やり抱かれて、正直……怖かった。
 だけど、拒む気にはなれなかった。拒みきるほどの恐怖はなかったから。
 ああすることで溜まった苛立ちや疲れを発散させようとしたのだろう。
 強引なやり方ではあるけれど……、それでも維月さんのすべてを受け止めたかった。
 ――わたしに縋り、寄りかかってきた維月さんを拒絶したくはなかった。

 維月さんは、「何を考えているのか分からない人」だと言われることが多い。だけど「何も考えていない人」ではない。「分からせまいとする人」なのだと思う。
 維月さんは、様々に思いを巡らせながら、けれどそれを安易に面には出さず平静を装っている。そのせいでストレスを溜めこみやすいのかもしれない。そのストレスすら出来る限り表面に出さず、抑えてる。
 わたしは、維月さんがわたしにしてくれるようには、うまく頼らせてはあげられない。支えになってあげられる自信もない。だけど、甘えさせてはあげられてるのかなって思う。今夜みたいに「会いたい」と言ってきてくれたのだから。
 維月さんにとって、わたしが憩いの場であれたらいい。そうでありたいと願ってる。
 言葉にしてくれなくてもいい。強引に体を求められるのでも、維月さんなら構わない。
 だって体だけの繋がりを求めるくるわけではないって分かるから。
 強引に迫ってきたりはするけど、決して無体は働かない。愛撫の手は激しいけれど、わたしの体を傷つけ、痛めつけるようなことはしない。
 優しい人だもの、維月さんは。
 ……そりゃぁ、時々は意地悪したりもするけど。電気を消してくれなかったり、恥ずかしい格好……体位をさせられたり、焦らしに焦らしてわたしばかり何度も……いかせたり。
 思いだすだけで顔から火が出そう。
 昨夜のことも、そうだけど……。
「…………」
 もぞもぞと体をにじらせて、維月さんの腕から頭をおろし、ゆっくりと上半身を起した。きょろきょろと見まわして、チュニックを探した。ベッドの端で落ちかかってるそれを見つけ、急いで着た。――下着は、とりあえず後回し。
 一人用のソファーベッドは狭く、維月さんはこのベッドで眠る時はいつも窮屈そうに体を丸めてる。
 一見すらりとした痩躯の維月さんだけど、……脱ぐと、思いの外逞しい。趣味でテニスクラブに通っているだけあって、胸元も肩も腕も、引き締まっている。筋骨隆々ってほどではないけど贅肉の少ない体つきだ。腹部は平かで、腰の筋骨もしっかりしてる。
 触りたい衝動をなんとか堪え、手をひっこめた。
 維月さんの瞼はまだ伏せられている。
 足元で、くしゃけて捩れていたタオルケットを維月さんの体に掛け直し、わたしは物音をたてないようそっとベッドから足をおろした。と、その時、突然手首を掴まれた。
「美鈴」
 かすれた声がし、振り返った。
 維月さんはまだ体を横たえたまま、重たげに瞼をあげてわたしを見る。縋るようなまなざしはひどく子供っぽい。
「美鈴、どこ行くの?」
「喉渇いたから、お水を飲みに……。維月さんも要ります?」
「……うん」
 だけど維月さんはわたしの手を離してくれない。維月さんの手は熱く、少しだけ汗ばんでいた。
「維月さん?」
 もしかして具合でも悪いのかな? 寝息は落ち着いていたし、急に気分が悪くなったとも思えないけれど。
 体を傾け、維月さんの顔を覗き込んだ、その時だった。維月さんが体を起こし、わたしを抱きしめた。ベッドが軋む。
「美鈴」
「いつ、き、さ……」
「ゆうべは、乱暴にしてごめん」
「…………」
「八つ当たりして、あんな強引に……。本当に、ごめん」
「…………」
「ごめん」と、維月さんは繰り返す。電話をかけてきた時からずっと、維月さんは謝ってばかりだ。
 維月さんの腕の中、わたしはただ黙って首を横に振る。
 謝る必要なんてないのに。そう思ったけれど、「謝らないで」とは返さなかった。
 赦しを請う維月さんの弱さをそのまま受け止めたかったから。「ごめん」と言う、その気持ちごと受け取ろうって思ったから。
 維月さんの背に両腕を回し、ぎゅっと力をこめて抱き返した。
 何も言わず、ぴたりと体を寄せる。維月さんの少し速い心音が聴こえた。わたしの心音もそこに重なっている。
「美鈴」
「……はい」
 維月さんは軽く息をつき、そしてやわらかな声音で語を継いだ。
「美鈴がいてくれてよかった」
 たった一言。
 そのたった一言に、心が震え、涙が眦に滲んだ。
 会社では、心をあけすけにしなくて、しっかりしてて、頼もしげな維月さんだけど、実は案外子供っぽい一面もある。
 維月さんはわたしの前だからこそ、弱気な一面をさらしてくれている。甘えてくれてる。そう自惚れてもいいだろうか。
 誰も知らない維月さんを、わたしだけが間近に感じ、知っていられる。それが嬉しい。
 なにより、どんな形にしろ維月さんの役に立てたことが嬉しかった。
 泣きたくなるほど、維月さんの一言は嬉しかった。
「……うん」
 小声で応えると、維月さんはふわりと腕の力を緩めた。そして、わたしの顔をあげさせ、前髪を指で払い、瞼の上に軽く口づけを落とした。それから頬、唇へと。
 維月さんの口づけがもっと欲しくて、わたしからも唇を深く重ねた。維月さんはわたしの要求に応えてくれる。わたしが望む以上に、激しく。

 ――そしてもちろん、キスだけでは終わらなくて。

 気付けば朝日はとうに東の空に昇ってて、雲の切れ間から白々とした陽がこぼれていた。

「ありがとう、美鈴」
 明るい陽光が、維月さんの声にも笑みと温もりを与えたみたいだった。
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