恋愛蜜度のはかり方

るうあ

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甘えて。 ◇◇美鈴視点 (各お題利用)

抗えない本音 3

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 ――もう、わけがわからない。
 目を固く閉ざし、首を竦めて体を縮こまらせた。

 ソレをするのが主な利用目的のホテル。維月さんは有無を言わさずわたしを連れて来て、ソレ以外を求めてこなかった。
 うろたえるわたしを言葉巧みに宥めたりもせず、力ずくといってもいいような手練手管で……けれど決して暴力的にではなく、わたしをベッドの上に縛り付けた。そうしてわたし達は会話らしい会話もなく、無我夢中になって、抱き合った。
 どれほどの時間が経ったのか……。
 まだ夜が明けてないのが不思議なほど、ひどく長い時間を過ごしたような気がする。
 ……ううん、違う。時間が停止してしまってるような、そんな感覚だ。
 いつまでも夜が明けないような、そんな怯えがある。
 維月さんと一緒にいて、こんな風に夜が長いと感じるのは初めてだ。こんな苦い気持ちを抱えたままでいるのも。
 それに、暗い小部屋に閉じ込められたような狭隘さを感じるのも、初めてだ。
 オレンジ系統の暖かな色合いの間接照明が照らし出す部屋は、十分すぎるほどに広い。そして、ベッドも。
 普段寝ているベッドの、軽く二倍はある。ダブルベッドよりも大きいように思う。キングサイズっていうんだろうか。枕もシーツも掛け布団も、すべてがゆったりとして大きい。
 それなのに、窮屈だった。――右隣で眠る人のせいだ。
 維月さんはわたしをその腕の中にとらえ、離さない。そしてわたしもまた、捕らわれたまま身を竦めている。
「…………」
 首をわずかに伸ばして瞼を上げ、維月さんの様子を覗き見た。
 わたしの横で、維月さんは静かな寝息をたてている。あれほど熱く乱れ、荒れていた息が嘘のように。
 蒸れるような甘く艶めかしい香りが、汗の引いた身体にまとわりついている。その香りは、体中が訴えてくる痛みをやわらげてはくれなかった。
 わたしを抱く維月さんの腕はいつだって激しいのだけど、今夜はいつも以上に性急で、荒々しかった。優しいまなざしでわたしを見つめ、悪戯っぽく笑いかけてくれることもなかった。
 わたしの名を囁く維月さんの声は切羽詰まったようで、苦しげだった。名を呼びながら、けれど維月さんはわたしの目を見ず、ただ熱っぽいキスを耳朶や喉、胸元に幾度となく降らせ、わたしの喘ぐ声も噛みつくようにして塞いだ。苛立ちや怒りをぶつけてくるかのような、痛みを伴うキスだった。
 ……わたしが勝手にそう感じただけかもしれない。
 でも、そうだとは断じ切れない。
 だって、維月さんの切なげにしかめられた眉宇や逸らしがちな目は、何か言いたげだった。責め問う代わりに体を求めてきたような、そうして感情的な言葉を抑えているようでもあったもの。
 どうして……?
 何を。何が。何に。……怒っているの?
 わたしが、何か……、維月さんを怒らせるようなことをしてしまったんだろうか?
「……っ」
 嗚咽が漏れそうになり、慌てて口を塞いだ。
 ――怖かった。
 維月さんの激しい抱擁が怖かった。痛くて、何度も「いや」と声をあげた。
 それなのに。
 怖かったのに、泣くほど怖かったのに、維月さんを拒めなかった。
 それどころか、わたしは維月さんに縋ってた。離さないでと言わんばかりに首に両の腕を巻きつけて、自ら体を摺り寄せていた。
 維月さんの激しさに慄きながら、それ以上に、突き放されることが怖かった。何より、わたしの心も体も、維月さんを維月さんが求めてくるよりも貪欲に求めてた。
 ――恥ずかしい。それに、浅はかで身勝手な自分が情けない。
 維月さんを不愉快にさせる何かをしてしまったのではないかという不安を抱えながら、それでもなおかつ、維月さんの心情を慮るよりも、維月さんの全てを求めて、必死になって縋ってた。
 自分のあからさまなその欲求が恥ずかしくてたまらない。
「……ぅ……っ」
 羞恥が水滴に変わり、とめどもなく流れては落ち、口を押さえている手や僅かな湿り気を残している白いシーツを濡らした。瞼を閉じても、涙は止まらなかった。肩の震えも抑えられなかった。
「美鈴?」
 ふいに、声がかかった。
 いつ目を覚ましたのだろう。維月さんは体を起こし、心配げにわたしの様子を窺ってきた。
 すうっと、維月さんが動いた拍子に空気が動き、微風がわたしと維月さんの間に入り込んだ。もうひいたとはいえ、さっきまで汗をかき、熱帯びていた体に触れる空気は、ひどく冷たいものに感じられる。
「美鈴」
 もう一度わたしの名を呼び、維月さんは少し戸惑いがちに、肩にそっと手を置いた。びくりと肩を震わせ、わたしは身じろいで、さらに体を硬くした。
 わたしは身を竦ませたまま維月さんに背を向けている。維月さんは一旦肩から手を離すと、徐に両手を枕元につき、わたしの上にかぶさってきた。
「美鈴、どうし――」
「どうして?」
 維月さんの声を遮るように、わたしは鋭い声を被せた。僅かに顔を上げ、涙を拭って維月さんを見つめる。
 泣き顔を見せてくはなかったけれど、問わずにはいられなかった。
「どうして? 何を、怒って…………わたし、維月さんを、怒らせ……っ」
 問わずにいられなかったのに、どう問えばいいのか分からず、言葉が明瞭に出てこない。その上みっともないくらいに涙声になってしまって、一言発するたびに、涙が眦に浮かぶ。
 じりじりと、喉が焦げるように痛い。目も熱い。鼻もきっと赤くなってる。
「いつ、きさん、わたし……、何か、したん、ですか? 何か、維月さんを……」
 維月さんの顔が滲んで見えない。
 こんな時に泣くなんて、だめだ。みっともないし、維月さんを困らせるだけだ。
 だめだって分かっているのに、とめなくちゃって思うのに、ちっともうまくいかない。
 振り絞って出す声も、震えて掠れて、詰まって、ちゃんと気持ちを伝えられない。
「維月さ、んに、わたし、何か……気を悪くさせちゃうようなこと、言ってしまっ……た、んですか?」
 その上、責めるような口調になってしまってた。
 維月さんはすぐに否定した。狼狽してるような、そんな声だった。
「違う、美鈴」
「でも」
「違う、……ごめん」
 維月さんの指が、わたしの涙を拭ってくれた。額にかかる濡れた前髪を払い、そこに優しい口づけが落とされた。
「怒ってなんかない」
「でも……」
「美鈴を泣かせるつもりはなかった。一方的にしすぎた。……ごめん」
「…………」
 維月さんはわたしから体を離さず、髪を撫ぜたり、涙を拭ってくれたりしながら、すまなそうに「ごめん」と繰り返した。


 維月さんはわたしの涙がひくのを待ってくれた。その間に、逡巡しているようだった。眉を曇らせ沈思していた。けれど、ふと小さくため息をつき、ためらいがちに声を発した。
「美鈴」
 わたしは維月さんの体の下で、身を硬くしている。さっきよりは幾分気持ちは落ち着いたものの、居たたまれなさは変わらない。それでも目だけは逸らさず、維月さんを見つめていた。
 維月さんはようやくわたしの目を見つめ返してくれた。
「――行くの?」
 発せられた維月さんの声は、聞き取りにくいほどに低かった。
 わたしは目を瞬かせ、「え?」と小さく口を開いた。
 維月さんは目を伏しがちにし、躊躇を払うように息をつき、言葉の先を続けた。
「行くつもりでいるの、田辺が言ってた飲み会に」
 唐突すぎる質問に、一瞬何を言われたのか分からず、とっさに返答できなかった。
「田辺からも直接誘われた。浅田さんと俺と“木崎さん”とで、今度飲みに行かないかって」
「あ、それ、は……」
 やっと、維月さんの質問を理解した。
 今夜、その話を切り出したのはわたしの方からだった。創作料理のお店を出てから、ふと思い出して、維月さんに話した。飲みに行かないかって話が出てるんですって。浅田さんがストレス溜めてるみたいで、憂さ晴らしをしたいみたいなんですよって。田辺さんの名前も出したと思う。
 実は、飲みに行こうと話が出たあの日から、田辺さんからさりげなく打診され、返事を待たれていた。けれど、わたしは返答を曖昧にして、その場をのらりくらりとかわしてきた。乗り気になれずにいた。
 だから維月さんにも話をふったものの、「ぜひ行きましょう」というようなことは言わなかった。
「あの、わたしは……」
「断って」
 維月さんはわたしの戸惑い声を遮って、短く言った。
「…………」
 わたしは返答に困り、声を詰まらせてしまった。それを、維月さんは抗議の沈黙と受け取ったのかもしれない。ふと目を逸らし、自嘲気味に笑った。そしてまた、「ごめん」と謝罪した。
「他に約束が入ってて予定が埋まってるからとでも言って、断って。言えないなら、俺が適当に理由をつくって、飲み会自体をお流れにしてもいい。本当はこんなこと言いたくない。いや、言っていいことじゃない。俺が決めることじゃないと、分かってる。……――だが」
 維月さんは歯切れ悪く言葉を紡ぎ、苦々しそうな顔をわたしから背けた。
 こんな風に焦心を露わにしている維月さんを見るのって……もしかして初めてかもしれない。言葉を選びかね、困窮しているようにもみえた。
 さっき維月さん自身が言ったように、怒ってはいないみたい。けれど苛立ちのようなものは感じる。わたしに向けられたものかどうか、それは判然としないけれど。
「…………」
 あっと、思った。
 もしかして……。
 もしかして維月さんは、わたしを案じてくれてる?
 浅田さんはともかく、田辺さんも一緒の飲み会に参加して、そこで、わたしがうっかり維月さんとの関係をにおわせるような態度をとっちゃったり口を滑らせちゃったりするのを見越して、それを心配してくれてるの……?
 維月さんとの関係を内緒にしていたいと頼みこんだのは、わたしだ。
 浅田さんにはいつかちゃんと話したいって思っているけれど、それ以外の人は別。維月さんとのことは、極力隠していたい。自分が、会社内で居たたまれなくなるからって理由もあるけれど、わたしなんかと噂になって、維月さんに迷惑がかかるのだけは耐えられない。それだけは絶対に避けたかった。
「維月さん、ごめんなさい。ちっとも気付かなくて」
「美鈴……」
 維月さんの、少し困ったような目とぶつかった。
 わたしは委縮したまま言葉を継いだ。
「付き合ってるってこと……うまくごまかせないで、きっとうっかり顔にだしちゃいますよね。飲み会の席じゃなくたって、維月さんへの気持ちを隠しきれずに不審な態度とっちゃうのに」
 高倉主任、という名が出ただけでも胸が鳴って、平静さを装うのに必死なのに。
 酒の席ともなったら、もっと態度があからさまになってしまうのは想像に易い。わたしは維月さんみたいに冷静じゃないし、ごまかすのだって下手だ。
「それなのに、どっちつかずな態度なままできっぱり断れなくて……。維月さんに迷惑かかっちゃうって分かりきってるのに、そんなことさえ気が回らなくて。怒って、当然です……」
「美鈴」
 維月さんの手が、頬に触れた。そうしてわたしの声を止め、ふと目を細めて優しく微笑した。
「美鈴らしいな。そんな風に考えるのは」
「……え、あの?」
 頬に添えられた維月さんの手が、熱い。まなざしも。吐息も。
 胸が、どきどきする。
「まったく、情けないな。美鈴を不安にさせて泣かせて、俺が考えもしなかったことにまで気を回させて」
「……維月さん?」
「男の嫉妬ほど見苦しいものはないな」
 維月さんは片頬をあげて苦笑いをした。
「え、……え?」
 意味が分からず、わたしは維月さんの顔をまじまじと見つめた。
 維月さんはうろたえるわたしを、からかうようではなく、優しく目元をやわらげて見つめ、笑いかけてくれた。
「あ、あの」
 どぎまぎしながら、訊いてみた。嫉妬って聞こえたけど、聞き違いかもしれない。
「嫉妬って、え、と……それはどういう……」
「美鈴は」
 維月さんは答える代わりに、わたしの体をぎゅっと抱きしめた。
 維月さんの熱い息が耳朶にかかる。
「誰にも渡さない」
「え、あのっ、いっ、維月さん?」
 耳を甘噛みされて、思わず「ひゃうっ」と小さな奇声を漏らしてしまった。全身に電流が走ったみたいだ。息をかけられた耳は、火を点けたみたいに熱くなってる。
「…………」
 維月さんは応えない。摺り寄せてくる頬や触れる髪の感触がくすぐったくて、維月さんの沈黙がひどく甘い。
 維月さんの体重がそのままのしかかってくる。重くて、ちょっと苦しい。けれど維月さんの重さを全身で受け止めていたかった。
「維月さん……」
「うん?」
「…………好き」
 口をついて、出てしまった。
 思いがけない告白に動揺したのは、他ならぬわたし自身。ぎゅうっとかたく目を閉じて、首を竦めた。
 本心だけど! 心からの想いだけれど! 恥ずかしくって、維月さんの顔をまともに見られない。
 維月さんのわたしを抱きしめる腕の力が、さらに強まった。それよりも先に、わたしと維月さんの体の間に挟まっていた薄い掛け布団が取り払われた。
 肌と肌が直接触れ合い、熱が伝わる。
「美鈴、泣かせてごめん」
「…………」
 ふるふると、維月さんの腕の中で首を振った。
「怯えさせて、無理に押さえつけて。それなのに拒まないでいてくれて、受け止めてくれて、嬉しかった」
「…………」
「それでつい手加減せずにしてしまったけど、……もう、怒ってない?」
「怒ってなんか……っ」
 慌てて顔を上げると、それを待ち構えていたように、維月さんは顎をつかみ、唇を重ねてきた。息すら奪うような、深く激しいキス。眩暈がする。
 わたしの両腕は伸ばし、維月さんの首に回した。半端に巻きつかせた腕を支えるように、維月さんはわたしを包み込むようにして抱きしめてくれた。
 ――抗えない。
 そう思った。
 維月さんが好き。
 こんなにも好きになって、あられもなく溺れてしまうなんて。気持ちを抑えるなんて、きっともう、できない。抗いきれない。
 怖れや不安は、この先もずっと抱えたままでいる気がする。
 けれど……今、こんなにも満ち足りて、幸せだ。
「わたしこそ、気を揉ませてしまって、ごめんなさい」
「美鈴が謝ることはないよ。俺が勝手に焦ってただけだから。我儘を言って、無理を強いて、謝るのは俺の方だ」
「我儘なのはわたしの方です」
「それじゃぁ……」
 維月さんは小首を傾げ、小さく笑って言った。
「お互いさま、ということで」
 わたしは目を瞬かせ、それから「はい」と応えて微笑を向けた。
「美鈴」
「はい?」
「…………」
 維月さんは甘い声音で囁く。気持ちを、短い言葉で伝えてくれた。
 さらに唇を巧みに動かし、長い長いキスでも。

 それから、……――
 維月さんはわたしを綏撫するような口調で、朝までここでゆっくり休んでいこうと、同意を求めてきた。わたしは頷いて笑顔を返した。
 覚悟してるから、咎めたりなんかしない。
 ゆっくり休ませてなんかくれないくせにって。

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