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37.魔女と奴隷とお姉ちゃんの気持ち

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 がぼがぼと頭ごと小川に突っ込んでオーウェンは刺激に苦しむ。水の中で必死に瞬きをするが、左目が開かなかった。背中に小さな暖かい感触が縋りつくのを感じた。ザジだ。

「オーウェン様、オーウェン様!」
「がはあ!!」

 息苦しくなって、オーウェンは水から頭を引き抜く。ローブの袖で顔を拭うと、右目はしっかりと開いた。
 リチャードは仰向けに倒れている。ダリアがゆっくりと歩み寄り、彼の体を抱き起こした。

「生きてる……よかった」

 オーウェンの目には、リチャードの体が不自然に浮き上がった様にしか見えない。だから、そこにあの日以来会っていないダリアがいるということがわかった。

「……ねえさん、そこにいるのかい……」
「オーウェン……」

 視線で顔を捉えられているのはダリアの方だけだったが、七年間離れ離れになっていたきょうだい弟子が、ようやく再び見合わすことができていた。

「あんな紙ペラ一枚で詫びる事ができてるなんて思っちゃいないから、もう一度直接謝らせてもらうね、ガキだったとはいえ、ぼくを心配して、まっすぐ気持ちを伝えてくれたねえさんに、ぼくは言ってはいけないことを言って傷つけた。許してくれとは言わないが、ぼくはとても反省している。本当に申し訳ない。ねえさんは華やかで優しくて、とても暖かい女性だ。ねえさんがねえさんでいることを何も恥じることはない。これはあの頃からそう思っていたんだ。本当だよ」

 オーウェンは彼女の前に跪き、両手の指を互い違いに絡ませ、祈るようにダリアに謝罪した。

「……オーウェン……ありがとう。あの時は本当に傷ついたし怒っていたけど、私はもう平気よ。リチャード様が私の髪や体をたくさん褒めてくれたから。だからもうあなたの言葉は忘れてしまったわ。あなたを許します」

 ダリアの許しの言葉を、ザジがオーウェンに耳打ちして伝える。左目を閉じてびしょ濡れのままだったが、オーウェンはとてもホッとした笑みを浮かべた。そして視線をダリアとリチャードのほうに向けて、ぎょっとした顔になった。

「ねえさん!?」

 うっすらと、霧の中から近づいてきた者のようにダリアの真っ赤な髪が、緑の瞳が、魅力的な唇が浮き上がって、オーウェンの目にも見えてきていた。

「オーウェン?」
「ね、ねえさん!! ねえさんが見える!! 声も聞こえる!!! ど、どうして!!!」

 よろよろと立ち上がったオーウェンは、ダリアに近づいてその頭を抱きしめた。小さい男の子のような仕草だった。オーウェンにとってダリアはずっと大好きなおねえちゃんだったからだ。

「ねえさん、ごめん。ごめんね。ごめんなさい……」
「いいの、いいのよオーウェン……」

 手持無沙汰になったザジはふかふかの苔の上にあぐらをかいてポケットから取り出したかじり木をぼりぼり齧りながらそんな二人をにやにや眺めていた。

「感動の再会じゃん。よかったねオーウェン様」

 喜びと、目の痛みで泣いてしまっていたオーウェンが脱いだローブで頭を拭って落ち着くと、ザジはちょいちょいと彼のシャツを引っ張った。

「ねえ、もしかしたら靴、履けるようになってるんじゃないですか?」

 ザジの言葉にはっと気が付いたオーウェンが、箒に括りつけていたお気に入りの靴を取り外して足を入れてみる。今まで何度か試したが、毎回足が入る前に爆発四散してしまうのでお気に入りの靴では試さずこうやって携帯していたのだが……。

「ザジ!! 履いてる!! ぼくは靴を履いてる!!!!」

 黒い靴は七年ぶりにオーウェンの足をしっかりと包み、誇らしげに陽の光を跳ね返して輝くようだった。

「きっと『大いなるもの』が許してくれたのね。仲直りしたなら返してあげるって」
「やったあ!! ぼくは本当はずっと箒じゃなくて自分の足で思いっきり走ってみたかったんだ!!」

 リチャードを膝枕したダリアの言葉に、オーウェンは飛び上がらんばかりに喜んだ。裸足でも走れないことはなかったが、本当はいつも痛い思いをしていたのだ。

「でも、さっきオーウェン様たち、別に何か取られましたよね?」

 ぼりん、と木をかじる音がでっかく響いて、オーウェンの喜びに水を差した。

 全員、気を失ったまま目覚めないリチャードに視線を注ぐ。ダリアは小川の水で濡らしたハンカチで、泥で汚れたリチャードの美しいかんばせをそっと拭った。
 何度かハンカチを当てると、ピクリとリチャードの瞼が痙攣し、うっすらとけぶる睫毛に覆われた目が開き、紫の光が散った青い瞳が覗き込むダリアを映した。リチャードは毒気のないきょとんとした顔でダリアを見つめている。

「リチャード様、大丈夫ですか?」
「……おかあさん!!」

 リチャードはダリアの膝からがばと跳ね起き、ダリアの豊かな胸に顔を埋めて抱きつく。

「リチャード様!?」
「おかあさん、おかあさん……大好きだよおかあさん……」

 幼い舌足らずの話し方でダリアをおかあさんと呼ぶリチャードの顔からはすっかり毒気と険が抜け、まるで別人のようになってしまっていた。

「なんてこった……こいつは……『大人だった時の記憶』を取られたね?」

 その有様を見てオーウェンはぞっとする。大いなるものが何を持っていくのかはまったく予想が付かない。リチャードがこの様子だと自分も何かを持っていかれているはずだが、今のところそれが何なのかわからないのが恐ろしかった。

「うーん、なんかいろいろあるけど……とりあえず。ねえオーウェン様。原本、燃やしちゃいませんか?」
「そうだ。そうか。そうだった。ねえさん。燃やしていいよね?」
「いいわ。他の奴隷たちの原本も燃やしてしまうことにする。お師匠様が生きてたらきっとそうしろって言うもの」

(大いなるものから借りた力は人のために役立てること!! 人を泣かせた金で飯を食ったらそれは魔女じゃなくて悪魔さね!!)

「そうだね。かあさんだったらきっとそう言うだろうね。ザジ、燐寸マッチはあるかい?」
「ありますとも。さっさと燃やしちゃいましょ!!」

 ザジはカバンから燐寸マッチと二枚の原本を取り出すと、シッと擦って火をつけた。

「んんんん、お腹熱い!!」
「これでザジさんとカーラさんの奴隷紋は沈黙したはずよ。掘った刺青は消えないけど、どこへだって行けるようになるわ」

 抱き着いたリチャードの頭を撫でながら、ダリアは微笑んだ。

「……ねえ、あたし。ちょっと気になってることあるんだけど」
「なあに?」

 下腹部の熱が落ち着いたザジはダリアに話しかける。

「その調教師、結構あなたに怒鳴ったり殴ったり、乱暴なことしてましたよね。その人もあなたも魔女なのに。何か持っていかれたりとかはしなかったんですか?」
「え? うーん……そうねえ」

 ダリアは眉毛をハの字にして、ピンと立てた人差し指を顎に当てて考え、そして笑顔で答えた。

「リチャード様は怒りっぽいから結構怒鳴ったり殴ったりしてきたけど、私は怒ってなかったから一度も喧嘩はしたことなかったの。だから大いなるものもノーカウントにしてくれてたんじゃないかしら!」

 その答えを聞いて、ザジとオーウェンは口をあんぐり開けて顔を見合わせた。

「理解できない。ねえさん、ほんとにこれから気を付けたほうがいいよ。チョロすぎる。心配になってきた……」
「あたしも……年上なのに、お姉ちゃんの気持ちになりたくなってきた……」

 不思議そうに首をかしげるダリアと、彼女に抱きつきながら親指をしゃぶっているリチャードをこれから一体どうしたらいいだろうとオーウェンは頭を抱えた。
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