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夏の終わり

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 オーウェンは悩んでいる。あれからまた数年経って、リチャードの内面の推定年齢が十二を越したのだ。
 オーウェンがリチャードを知った時、リチャードの内面はすでに彼によくしてくれる人の話をも聞けないほど頑なに歪んでしまっていて、オーウェンもザジも殺されそうになったし、オーウェンの姉弟子であるダリアのこともリチャードは虐待していた。本当だったらそんな男がどうなろうがオーウェンは放っておいていい。しかしオーウェンは自分の子供たちと一緒にリチャードのことを叔父として育てることを選んだ。大いなるものに大人だった記憶を取り上げられた後に残ったのは親のない子供が一人。そんな状態のリチャードに、大人の彼のやらかしの責任を取らせることなどオーウェンにはできなかった。
 ダリアも詳しくは知らないらしいが、リチャードの生育歴は酷いものであったという。やったことはなくならないとはいえ、そういう人を、実の母親から愛情たっぷりに育てられた自分がジャッジすることがとても傲慢に思えてしまうのだった。

「すごい皺。ナイフで彫ったみたい。また自分が背負いこまなくてもいいことを悩んでるんでしょう」

 山盛りの灰皿を前に眉間の皺を深めている夫に、ザジは声をかける。オーウェンが案外首を突っ込みたがる性格なのをもう彼女は完全に理解している。一人好きを自称している割には人と関わらずにいられないのは彼のいい所だとザジは思っていた。

「……そろそろリチャードに本当のことを教えてやらないといけないんじゃないかと思ってね……」
「ああ……まだダリアさんのことお母さんだと思ってるんだもんね」

『男性器で女はいうことを聞く』という歪んだ世界観はリチャードが大いなるものから借りた能力によって強化され、彼の人生を世界の果てまで追いやってしまった。大人であった時の記憶を失ったリチャードから、大いなるものはその能力を奪っていない……とオーウェンは判断し、自分の子供たちにもそう教えたように、リチャードには他人の体と自分の体を尊重するように教育した。記憶を失った時点でのリチャードの肉体年齢はおそらく二十代後半であった。子供の心を持っているのに、体は男盛り。すでに時々起こる体の変化に戸惑ったりしていて、オーウェンはその度に大人としてリチャードをケアした。それは父親がいなかった自分が思春期に誰かにして欲しいことでもあったため、真剣に向き合った。

「自分の体は生まれて来た時から一個しかない大事なもの。誰も勝手に見てはいけないし、触ってもいけないよ。特に服で隠れてるところはそうだ。他人の体もそうだから、勝手に見たり触ったりしたら駄目だ。大人になって触りたい、触って欲しいって思う時が来たら、ちゃんと話し合ってどっちも大丈夫ってなってから触りな」

 時々オーウェンが子供たちを集めて話すそういう大事な話は、リチャードも並んで大きな体を縮め、真剣に聞いていた。ある日、リチャードはオーウェンを呼び出し、悩んでいることを打ち明けてくれた。

「おかあさんの事見てるとちんちんすごく硬くなっちゃうときがある……これはいけないこと?」
「……ああ……」

 リチャードとダリアは元々肉体関係もある恋人同士である。今はリチャードの内面が子供になってしまったのでなし崩し的に母子ということになっているが、本来なら子供を作っても別にいけないことではない関係の二人だ。
 オーウェンはこういったことは全て本で学んだが、リチャードにはオーウェンがいる。大人としてちゃんと対応する必要があった。

「い……けないことはない。きみとねえさんに関してだったらいけないことはない。オーウェンおじさんもザジおばさん相手にそうなることがあるから……。だけどそのあとどうするかによってはいけないことも出てくるな……。なあリチャード。それは今は自分でなんとかしよう。それを何とかするためにおかあさんに触りたくなることもあるかもしれない。けど、『それを何とかするためにおかあさんの体をつかっちゃ駄目』だぜ。わかるかな」
「よくわからないよ。おじさん」
「おじさんとザジおばさんの間にはエヴァンたちがいるよな? あの子たちはおじさんとザジおばさんが……あー、おじさんのちんちんが硬くなっちゃったのをザジおばさんの体でなんとかするのと同じことをした結果産まれたんだよ。リチャードがそれをなんとかするためにおかあさんの体を使ったら、リチャードの子供ができちゃうかもしれないってこと……もちろん他の人の体でも同じことが起こるから、自分で何とかする方法を覚えようかね。リチャードが十二歳になって、その時にまた大事な話をするから、それまでいい子でいておくれ」

 まだ早いかとも思ったが、リチャードの体は成人男性。間違いがあった結果起こることの話はごまかさずに話す必要があるとオーウェンは思った。その時はとりあえず自慰の方法をリチャードに教えてやった。手を綺麗にしてから、誰も見ていないところで。リチャードはそれを律義に守って、今まで間違いは起きていないらしい。
 そしてリチャードは十二を越した。そろそろ頃合いなのだ。オーウェンとダリアは長いこと話し合った。

「ねえさんは今もリチャードを愛してるのだよな? それはその、どういう種類の愛情?」
「そんなの、女として愛してるに決まってるでしょ……子供に酷いことしたくないから母親としてふるまって来たけど、本当は愛し合いたいわ……」
「もしリチャードの記憶が戻ったとして、あいつがいい子でいられなかったらぼくとねえさんは今の関係を続けられないぜ。今はぼくにも護るべき家庭があるしさ」
「……もしそうなっても、あの時みたいに顔も見られなくなるわけじゃないわ。私はリチャードを元に戻してあげたい」
「なら、決まりだ」

 夏の終わり、ダリアとオーウェンはリチャードを連れて三人で苔の花畑にやってきた。四つ児たちがずるいずるいとぐずったが、ザジ母さんとお留守番だ。春から夏にかけての苔の花はなくなっているが、代わりに秋の花が膨らみ始めている。
 ここはかつてオーウェンとリチャードが戦い、大いなるものによってオーウェンが庵に入る権利と、リチャードが大人であった時の記憶を取り上げられた場所。そこで二人の魔女は、リチャードに今まであったことを教えた。

「……じゃあ、おかあさんは本当は僕の恋人で、おかあさんではないということ?」

 よく本を読みダリアの手伝いをして育ったリチャードは、かつてのリチャードよりも思慮深く賢くなっていた。聞かされた事柄をひとつずつ頭の中で検討して最初に出た言葉がそれだった。

「僕はとても悪い人だったから、そのせいで子供になってしまっている大人なんだね……」
「今のきみがあの時のきみと同じ人だとはおじさんは思ってないんだ。今のきみはとても思慮深い優しいいい子だから。きみが今のきみのまま生きていきたいなら、何もする必要はない。このままおうちに帰ろう。でもきみが昔のきみを取り戻したいなら、ぼくたちは『仲直り』をしなくてはいけない。きみはどうしたい? リチャード」

 静かに話すオーウェンとそれを聞いているリチャードを、ダリアははらはらと見守っている。リチャードは少しの間考えて、そしてこう答えた。

「僕、おかあさんがおかあさんじゃないって言われてとっても安心した。僕はおかあさんのことを男として愛していいんだね?」
「リチャード……」
「そうか。きみはもう大人になりたいんだな。なら仲直りしよう。きみのなにが悪かったのかわかっているかい?」
「僕はきっと、他の人を、あと自分を大事にできなかったんだね。それで酷いことをたくさんすることを止められなかったんだ。そうでしょう?」
「きみがそう思うんならきっとそれで正解だな。そして、そう思えるんならきっと大丈夫だ。ぼくはきみを許す。きみはぼくを許してくれるかい?」
「おじさんは何も悪いことをしてないから、許すも何もないよ。けど、僕もおじさんを許すよ。きっと昔の僕はおじさんのことを許せなかったんだろうから」

 血色の悪いオーウェンの手と、青白いリチャードの二人の男の手がそっと握手をする。二人の足元から黒い泥のような影がじわじわとにじみ出て、繋がれた手を覗き込み、触手のような部分が伸びて包み込む。

『おーうぇんとりちゃーど、なかナおりィ?』
「そうだ。ぼくたちは仲直りをする」
「僕、おじさんたちとずっと仲良くしていたい」
「おじさんもそうしたいさ。みんなきみが好きだ」
『おーうぇんトりちゃーど、なカなおリぃ!!』

 どくん、とオーウェンとリチャードの心臓が一度大きく同時に脈打った。リチャードの頭ががくがくと左右に揺れ、高い鼻からすっと一筋血が流れた。

「リチャード!!」

 駆け寄ったダリアが後ろからリチャードの頭を抱きしめる。生成りのシャツの袖が血で汚れた。

「ぼ、ぼく、おれ……おれは……」

 リチャードの頭蓋の中で、もともとの掃きだめのような子供時代の記憶と、新しく丁寧に扱われた子供時代の記憶が渦になって再生され、その負荷にたまらずうわごとを呟く。粗末に扱われた記憶の後を塗りつぶすように愛に溢れた大人たちが自分を尊重してきた記憶や、汚れた人形をただ噛みしめた味の記憶の後に、愛すべき人たちと口にする焼き立てのビスケットの味の記憶が被さり、リチャードの心を激しく揺らし続けた。
 リチャードの体は目を開けているのに、目の前が真っ暗だった。ただただ真っ暗な空間の中に裸足で立っているような感覚が全身を包む。茫然と眺める先に光が射す窓がある。彼はそちらに向かって歩こうとして、穿いているズボンを誰かに引っ張られるのを感じた。振り向くと、汚れた人形を抱いた子供が小さな手でズボンを引っ張っていた。その子の顔には金属の輪っかがいくつも填められて、穴からは血が滲んでいた。

「行かないで。ぼくは大事にしてもらえなかったのに」

 穴を開けられたいたいけな唇が開いて乞う。合わせ目から大人と子供の歯が混ざってギザギザの咥内が見えた。

「一緒に行こう」

 リチャードはその子の手をズボンから外すと、しっかりと握りしめて二人で窓へ向かって歩き出した。

「リチャード!! リチャード!!!」

 気が付けばリチャードの背は苔でふかふかの地面にぴったりとくっついており、赤い髪の女の目から流れる水が顔にぽたぽたと垂れて、かつて金属の輪が嵌っていた痘痕のような穴に溜まっている。右手は辛気臭い男の手をしっかりと握ったままだった。

「ダリア……」
「!!!」

 リチャードの唇から紡がれた名前は長らく呼ばれることのなかった彼女の名前で、それを聞いたダリアは泣きながらリチャードの体を抱きしめた。

「えーっ、リチャードとダリアおばさん行っちゃうの? ヤダー!!!!」

 それから数日。オーウェンとザジの元気な子供たちはリチャードとダリアの旅立ちを惜しんだ。

「たまに顔を見せに戻ってくるから、その時はお土産を持ってくるから、ね」

 急に大人びてしまったリチャードの周りを、小さな子鼠たちがくるくると回った。
 リチャードはかつての自分を取り戻し、最初は二つの記憶に混乱したようだが今はとても穏やかになっている。しかし数多くの女をはじめ、いろいろな人間に行った悪行は消えない。恨みもいろいろ買っている。今は凝り固まった認知の歪みをひとつずつ正している最中で、自分の歪みに向き合ったリチャードは、この土地に留まったまま幸せになるのは無理だと判断、ダリアと二人で旅に出ることにしたのだった。

「おれが魔女としての力をまた使うことはないと思うが、ダリアと一緒に人のために役立ちたい。おれにもやれることがあるって思えるようになりたいんだ」

 オーウェンもザジも、エブリンとアランも、そしてダリアも。彼を育てて来た大人たちは再び大人になるチャンスを掴んだリチャードの望みをかなえてやりたいと思った。

「リチャード、元気でね。もし子供が出来たらこれで文字を教えてあげて」

 彼と一番仲良くしていた、一人だけオーウェン似のエヴァンが本を一冊リチャードに手渡す。それは二人で字を勉強した思い出の本だった。

「ああ……エヴァン。きみはずっとおれの一番の友達だよ……」

 抱き合う大人と子供の体躯の親友同士を、優しい人たちが見守って、やがて愛し合う二人は旅立っていった。

「二人ともきっと幸せになれますよォ、いいですねェ」
「そう? 俺らも幸せになる?」
「まァだそんなごと言っでからかって!! 悪いお人!!」
「本気なのに……」
「おまえ、いつの間に来てたんだい。何の用だよ」

 今はライザの経営する託児所で働いているアメリアも、この日木のおもちゃを発注しに森小屋に来ていて、なぜかちゃっかりとウィニーもそれを嗅ぎつけてやってきていた。

「用がなきゃ来ちゃいけねえのかよお。まあ用はあるさ。領主の首がすげ変わって、奴隷の扱い方について法が変わりそうなんだ。お前のチンコ袋が役立ちそうだぞ。ちょっと話しようや」
「勝手に酷い名前つけるな……。嫌だねぇ、やれやれ」

 夏の終わり、季節は廻り、彼らはそれぞれの道を歩んでいく。願わくば、すべての魔女が仲良く、幸せに生きられますように。木々の隙間から黒い影帽子がニコニコと笑いながら彼らを見ていた。
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