72 / 105
第三章
3-4
しおりを挟む
その後、嘉平は堂に鍵を掛けた。
鍵を掛ける事によって鈴虫と嘉平のどちらにも安心感が得られるのだ。鈴虫の体調が少しでも良くなってくると、まだ少し甘い香りを発してしまう。それはお妙やお八重には特に問題を起こす物でも無いのだが、嘉平の体には僅かであっても作用してしまうものだ。嘉平は鈴虫の傍に居てやりたいのは山々であったが、食事と薬の世話を二人に託すしかなかった。ここから先は盛かりが完全に収まるまで、裏方で支えてゆくしか無い。嘉平は夕方近くになって再び薬湯を煎じてお妙に託した。
「お妙様、私もお手伝いさせて下さい。」
「あぁ…ありがとう、お八重さん。本当に気が利く娘さんだこと。助かりますよ。」
盆の上には薬湯の湯飲みと粥が一椀のっているだけではあった。しかし、老女の手を煩わせるのは忍びないと、すかさずお八重が手を貸した。疲労が取れていない事を察してくれる優しさに、お妙は心から感謝するしかない。本当に喜一郎が馬鹿な真似をしなければ、この娘は春に嫁いでくるはずだったのだ。そう思うとお妙は残念でならなかった。
お妙の後についてお八重が食事と薬湯を持って堂へと向かう。
「鈴虫や、起きてるかい。開けても大丈夫かい?お返事ないけど…開けるよ。」
お妙はわざと音を立てる様にしてゆっくりと鍵を外した。
そして、まずは拳一つ分だけ戸を開けて中を窺い見る。盛りの付き初めにお八重と堂を訪れた時に、驚かさせて興奮させてしまった轍を踏まないためだ。堂の中からは返事は無い。しかし、人の動く気配はする。起き上がって着物を直す余裕を持たせなければ、体の変化で神経質になっているところ、またしても機嫌を損ねてしまいかねないだろう。お妙は外にお八重を残したまま、鈴虫が身形を直せるだけの時間を与え、緊張を解すように話しかけながら中へと入って行った。
「鈴虫や、お前、ほんのりと甘い香りがするけど体の調子はどうなの。薬湯は効き目があったのかしらねぇ?」
「うぅ…ん…どうかなぁ…まだ熱があるし、すこし…お臍の下と、奥の方がざわざわする感じ。あと…体の全部が痛いんだ…肩が擦れたのかなぁ…わかんねぇけど痛い。でもねぇ、起きていても平気だよ。ねぇ、お婆様、お薬ちょうだい。おら、早く治さなきゃならねぇんだ。」
「あら、まぁ!如何した事でしょう。なんて良い心がけなの。お薬と粥を用意してあるから食べて良く寝るんですよ。」
鈴虫は布団の上に足を投げ出して座っていた。その胸には襤褸布に包まれた草鞋をギュッと両手で抱き締めている。この襤褸布に包まれた草鞋の主に一刻も早く会わせてもらう為には、どんなに不味かろうと苦かろうと薬湯を飲み下すくらい御安い事なのだ。鈴虫はお妙から良い心がけだと褒められた事もちょっぴり嬉しくてコクコクと素直に頷いた。さっさと苦い薬湯を飲んで粥で口直しすれば良い。そんな風に考えながら片方の手をお妙の方へ伸ばす。
…そして、動きを止めた。よく見るとお妙は堂の鍵しか手にしていない。粥と薬湯は何処だろう…そんな不思議顔で辺りを見渡した。
「鈴虫や、あのね、もう一人、このお堂に人を入れても良いかしら。えぇ…あ、あのね、嫌なら外で待っていてもらうから。」
鈴虫は小首を傾げて考える。汚れた身形では佐吉に会う事は叶わない。すると、もう一人と言われても思いつくのは喜一郎くらいだ。しかし、喜一郎ならば、敢えてそんな尋ね方はしないだろう。鈴虫にはお妙の意図が分からなかったが、とりあえず首を縦に振ってみる。
お妙もお八重もかなり緊張していた。御開帳の始まる前に会った時に嫌われてしまったのではないかと心配でならない。もしかしたら、また顔を見たとたんに出て行けと怒りだすかも知れないのだ。お八重は中に入る様に促されてもしばらく躊躇していた。
外から入って来る人は、堂の中から見ると逆光で真っ黒だ。背丈が自分と同じくらいだろうという事は分かった。そもそも鈴虫の姿を知るものは限られている。その中で背丈が同じくらいの男など思いつかない。鈴虫は心に思った言葉をそのまま口に出した。
「…だぁれ?」
「誰って…あのぅ、先日ご挨拶した八重に御座います…が…」
「せんじつ?…しらねぇ…」
薄暗い影の掛かった顔立ちがはっきりと見えて来ると、鈴虫はとんでもないことが起こっていると気が付いて慌てふためいた。自分と同じか少し上に見える女が盆を捧げ持って堂に入って来たのだ。
「あのね、おらのことは見ちゃいけないんだよ。おらは女の人に見られちゃいけないの。だからね、この堂には入っちゃいけないんだよ。早く帰って、おらの事はわすれてね。」
「えっ、えぇ、でも…私もまだ帰るわけにはいかないんですよ。」
「お婆様、この人、誰なの?変だよ…だめなんだよねぇ?」
それでも食い下がるお八重に、鈴虫は困り切った顔をしてお妙に助けを求めた。鈴虫のその顔は真剣だ。お妙は困惑している二人を交互に見遣って考え込んだ。何だかやはり噛み合わない。
「鈴虫や、お前ちょっと様子がおかしいねぇ。この人が誰だか覚えて無いのかい。」
鈴虫は答えに困った。
「…会ったこと…無いよ。おらが女の人に会うわけ無い。だってお外に出たからこんなお仕置きされたんでしょ…そうでしょ?」
やはり何かがおかしいようだ。お八重の事を忘れてしまったのだろうか。それともまだ緩く残る香りのせいで鈴虫本人も混乱しているのだろうか。その両方なのかも知れない。
お妙は鈴虫がまだ薬湯も粥も腹に入れていないうちは、機嫌を損ねては面倒と判断した。細かい事は後回しにして、とりあえずお八重がこの場に居ても良いという簡単な説明に留める事にしておこう。
「あぁ、鈴虫よ、分かったから、ちゃんと紹介してあげようねぇ。お八重さんは喜一郎の元許嫁なんだよ。喜一郎がお前の事を殴っただろ?あれで破談になってしまったんだよ。えっと…破談ってのはお嫁に来るの、やっぱりやめたって事。でも今日は人手が足りないからお手伝いに来てくれたの。分ったかい?」
「はだん!おらのせいなのか…おらが居るから喜一郎兄様にお嫁様が来ねぇのか!」
「えっ、えっ、鈴虫様、それ、あっ、えぇっと、鈴虫様が悪いんじゃなくて!一緒になる相手が乱暴な人だと嫌でしょ!?毎日、怖い思いをして生活していくなんて嫌だなっておもったの。」
「…喜一郎兄様は悪くねぇよ…おらが…おらが馬鹿なだけなんだよ。たぶん…怒られるようなことをしたんだよ?おら馬鹿だから何で怒られたか…思い出せねぇけど。」
「そうなの?」
鈴虫はコクコクと頷いた。
「私もね、少し前に喜一郎さんにお会いした時に話をして、暴力を振るうようには見えなかったのよ。私たちはもう少し話をしてみるべきなんじゃないかって…思ったりもする…けど…」
「喜一郎兄様が悪くなければ、おらのお姉様になってくれるんだろ?んじゃぁ…喜一郎兄様は悪くねぇよ!おねぇさま…おやえねぇさま…おらにお姉様が出来るのか!?あぁ…おらにお姉様かぁ…うれしい!お姉様、お薬とお粥をありがとうございます。おら、ちゃんと全部飲みますからくだせ。」
そう言うなり鈴虫は、お八重の持つ盆の上から真っ茶色の臭い薬湯を取ると、息を止めて一気に飲み干した。
「あっ、えぇっと、あ、あのね、えっ、まだ、考え中で、その、そんなぁ…許嫁ってことは嫁では無いんですよ。」
お八重は鈴虫の余りに素直な喜びようと勢いに押されてしまった。喜一郎との事は時間を掛けてゆっくり考えれば良いし、他に良い人が現れるかもしれない。そう考えて思い詰めないようにしていたのにだ。それなのに、鈴虫の愛らしい素直な笑顔がお八重を追い詰めてくる。お八重は思わず顔を真っ赤にして首を横に振ってしまった。
「ぇぇ…おら、兄嫁様が出来たら一緒にお裁縫したりして本物のお姉様のようにしたかったのに…ちがうのか?」
鈴虫は寂しそうな顔をして薬湯の入った湯のみを床に置いた。コツンッ…と瀬戸物が床に触れる音が響く。
「おら…産まれてからずっとこの屋敷を出る事を禁じられてるの。なのによ、小さい頃から喜一郎兄さまはおらを置いて外へ遊びに行ってしまうんだ。…だから、おらはいっつも一人で遊ぶしかねぇ…だからよ、おら…お姉様、欲しかった…ずっと…ずっと…一緒に遊んでくれるお姉様が欲しかったんだ。お八重様はおらのお姉様にならんのか…なぁんだぁ…なぁんだぁ…つまんねぇ。」
真剣にお八重を見詰めながら自分の言葉で語り尽した鈴虫の目には一杯の涙が溜まっている。普段からあまり話さない鈴虫が思いの丈を精一杯に話してみせたのだ。
「鈴虫様…大変な目に合われたというのは父から聞いております。それなのに喜一郎さんを庇うって言うんですか?…分かりました。でも、もう一度話し合ってみ…て…」
「うん、庇うよ。だから、今日からお姉様って呼んで良いだろ?おらの事も鈴虫様って言わないで、鈴虫で良いんだよ。あぁ、うれしい…おらお粥も全部食べて早く治さなきゃ。お姉様、そのお粥ちょうだいな!そんで、そんで、食べ終えたらお姉様と何をしようか!」
「えっ!?だから、話し合ってから…」
「何をして遊ぶか話し合うの?お姉様が決めて良いよ!」
鈴虫は粥を急いで飲み込んだ。お妙は二人のやり取りを傍で見守っていたが、やはり鈴虫はいつもと様子が違う。話は噛み合わないし、記憶も曖昧だ。それより何より、こんなに喋ること自体がおかしい。まだ少し盛りが残っている分、興奮気味なのかもしれないが、嘉平やお妙の気苦労など無かったかのようにお八重を強引に言い包めてしまった。
そして、喋り疲れたのか、急いで食べて息が苦しくなって来たのか、鈴虫は食べ終えるとすぐにふわりと布団に倒れ込んでしまった。それでも嬉しそうに笑みを湛えている。
「おらにお姉様が出来たんだ……お姉様かぁ…お姉様!」
「鈴虫や、随分と幸せそうな顔して…」
「うん、幸せだよ。だって、だって、お姉様が出来たんだよ。」
「わかったから、そんなに気持ちを高ぶらせては体に障るよ。とにかく食べて寝て、早く治さなければ遊ばせないからね。」
「鈴虫ちゃん、お姉ちゃんからもお願いよ。明日、またお薬とお粥を作ってあげるから、ちゃんと眠ってちょうだいね。」
鈴虫は嬉しそうに何度も何度も頷いた。
今夜は少し寒くなりそうだ。鈴虫の薄い体に着物を掛けて寝かしつける。もちろん大切な襤褸布に包まれた草鞋は胸に抱いたままだ。他人には分からない程の僅かな佐吉の匂いと、姉と呼べる人が出来た喜びで鈴虫は幸せだった。きっとこのまま良い夢を見る事だろう。
鍵の閉まる音を残してお妙とお八重は連れ立って堂を後にした。
「ふふふっ…お八重さん、ごめんなさいね。まさかあんなに鈴虫がはしゃぐとは思わなかったわ。あの子は普段とても大人しい子なのよ。」
「えぇ、でもこのまえ会った時は見るな見るな!って怒っていらっしゃったはずです。今日は一転して私の事を気に入ってくれたみたいなので話を合わせましたが…はて、どうしたのかしら?」
「そうよね、何だか話がかみ合わないと思ったわよね。鈴虫ったらお八重さんの事、初めてあったような…忘れてしまったような…何だかおかしいわよねぇ。」
「まぁ、でも良いんです。私も末娘なので妹か弟が居たら良いなって思ったことは何回もありますから、あんなに喜ばれたら私まで嬉しくなっちゃいます!あぁ…でも、鈴虫様って妹みたいな弟になるのかしら?両方なのから…?」
まんざらでもないお八重の様子を見てお妙は少しだけ安堵することが出来た。不安定な気持ちの鈴虫を包み込んでくれるくらいの度量のある娘が手を貸してくれる、それだけでどれほど心強い事だろうか。本当にこのまま上ノ村へと帰してしまうのは惜しい。何とかして嫁いではくれないものだろうか。お妙は一縷の望みを託してお八重に問いかけてみた。
「ところで、お八重さん。肝心な事なんだけど…まだ喜一郎のこと、許せないでしょう…?あんな鈴虫に乱暴してしまうんだから…」
「…そうですねぇ…喜一郎さんとはもう少し話をしないと分かりません。
でも、鈴虫様とお話をして不安は一つ消えました。私、こちらに嫁ぐことが万が一無かったとしても、鈴虫様のお世話は致します。」
それは思い掛けない回答であった。嫁いでもらう事が叶わなくても、お妙の後継者としては力を貸してくれるという事なのか。お妙の目には嬉しい涙が浮かんだ。これで重たい肩の荷が一つ下りたのだ。
鍵を掛ける事によって鈴虫と嘉平のどちらにも安心感が得られるのだ。鈴虫の体調が少しでも良くなってくると、まだ少し甘い香りを発してしまう。それはお妙やお八重には特に問題を起こす物でも無いのだが、嘉平の体には僅かであっても作用してしまうものだ。嘉平は鈴虫の傍に居てやりたいのは山々であったが、食事と薬の世話を二人に託すしかなかった。ここから先は盛かりが完全に収まるまで、裏方で支えてゆくしか無い。嘉平は夕方近くになって再び薬湯を煎じてお妙に託した。
「お妙様、私もお手伝いさせて下さい。」
「あぁ…ありがとう、お八重さん。本当に気が利く娘さんだこと。助かりますよ。」
盆の上には薬湯の湯飲みと粥が一椀のっているだけではあった。しかし、老女の手を煩わせるのは忍びないと、すかさずお八重が手を貸した。疲労が取れていない事を察してくれる優しさに、お妙は心から感謝するしかない。本当に喜一郎が馬鹿な真似をしなければ、この娘は春に嫁いでくるはずだったのだ。そう思うとお妙は残念でならなかった。
お妙の後についてお八重が食事と薬湯を持って堂へと向かう。
「鈴虫や、起きてるかい。開けても大丈夫かい?お返事ないけど…開けるよ。」
お妙はわざと音を立てる様にしてゆっくりと鍵を外した。
そして、まずは拳一つ分だけ戸を開けて中を窺い見る。盛りの付き初めにお八重と堂を訪れた時に、驚かさせて興奮させてしまった轍を踏まないためだ。堂の中からは返事は無い。しかし、人の動く気配はする。起き上がって着物を直す余裕を持たせなければ、体の変化で神経質になっているところ、またしても機嫌を損ねてしまいかねないだろう。お妙は外にお八重を残したまま、鈴虫が身形を直せるだけの時間を与え、緊張を解すように話しかけながら中へと入って行った。
「鈴虫や、お前、ほんのりと甘い香りがするけど体の調子はどうなの。薬湯は効き目があったのかしらねぇ?」
「うぅ…ん…どうかなぁ…まだ熱があるし、すこし…お臍の下と、奥の方がざわざわする感じ。あと…体の全部が痛いんだ…肩が擦れたのかなぁ…わかんねぇけど痛い。でもねぇ、起きていても平気だよ。ねぇ、お婆様、お薬ちょうだい。おら、早く治さなきゃならねぇんだ。」
「あら、まぁ!如何した事でしょう。なんて良い心がけなの。お薬と粥を用意してあるから食べて良く寝るんですよ。」
鈴虫は布団の上に足を投げ出して座っていた。その胸には襤褸布に包まれた草鞋をギュッと両手で抱き締めている。この襤褸布に包まれた草鞋の主に一刻も早く会わせてもらう為には、どんなに不味かろうと苦かろうと薬湯を飲み下すくらい御安い事なのだ。鈴虫はお妙から良い心がけだと褒められた事もちょっぴり嬉しくてコクコクと素直に頷いた。さっさと苦い薬湯を飲んで粥で口直しすれば良い。そんな風に考えながら片方の手をお妙の方へ伸ばす。
…そして、動きを止めた。よく見るとお妙は堂の鍵しか手にしていない。粥と薬湯は何処だろう…そんな不思議顔で辺りを見渡した。
「鈴虫や、あのね、もう一人、このお堂に人を入れても良いかしら。えぇ…あ、あのね、嫌なら外で待っていてもらうから。」
鈴虫は小首を傾げて考える。汚れた身形では佐吉に会う事は叶わない。すると、もう一人と言われても思いつくのは喜一郎くらいだ。しかし、喜一郎ならば、敢えてそんな尋ね方はしないだろう。鈴虫にはお妙の意図が分からなかったが、とりあえず首を縦に振ってみる。
お妙もお八重もかなり緊張していた。御開帳の始まる前に会った時に嫌われてしまったのではないかと心配でならない。もしかしたら、また顔を見たとたんに出て行けと怒りだすかも知れないのだ。お八重は中に入る様に促されてもしばらく躊躇していた。
外から入って来る人は、堂の中から見ると逆光で真っ黒だ。背丈が自分と同じくらいだろうという事は分かった。そもそも鈴虫の姿を知るものは限られている。その中で背丈が同じくらいの男など思いつかない。鈴虫は心に思った言葉をそのまま口に出した。
「…だぁれ?」
「誰って…あのぅ、先日ご挨拶した八重に御座います…が…」
「せんじつ?…しらねぇ…」
薄暗い影の掛かった顔立ちがはっきりと見えて来ると、鈴虫はとんでもないことが起こっていると気が付いて慌てふためいた。自分と同じか少し上に見える女が盆を捧げ持って堂に入って来たのだ。
「あのね、おらのことは見ちゃいけないんだよ。おらは女の人に見られちゃいけないの。だからね、この堂には入っちゃいけないんだよ。早く帰って、おらの事はわすれてね。」
「えっ、えぇ、でも…私もまだ帰るわけにはいかないんですよ。」
「お婆様、この人、誰なの?変だよ…だめなんだよねぇ?」
それでも食い下がるお八重に、鈴虫は困り切った顔をしてお妙に助けを求めた。鈴虫のその顔は真剣だ。お妙は困惑している二人を交互に見遣って考え込んだ。何だかやはり噛み合わない。
「鈴虫や、お前ちょっと様子がおかしいねぇ。この人が誰だか覚えて無いのかい。」
鈴虫は答えに困った。
「…会ったこと…無いよ。おらが女の人に会うわけ無い。だってお外に出たからこんなお仕置きされたんでしょ…そうでしょ?」
やはり何かがおかしいようだ。お八重の事を忘れてしまったのだろうか。それともまだ緩く残る香りのせいで鈴虫本人も混乱しているのだろうか。その両方なのかも知れない。
お妙は鈴虫がまだ薬湯も粥も腹に入れていないうちは、機嫌を損ねては面倒と判断した。細かい事は後回しにして、とりあえずお八重がこの場に居ても良いという簡単な説明に留める事にしておこう。
「あぁ、鈴虫よ、分かったから、ちゃんと紹介してあげようねぇ。お八重さんは喜一郎の元許嫁なんだよ。喜一郎がお前の事を殴っただろ?あれで破談になってしまったんだよ。えっと…破談ってのはお嫁に来るの、やっぱりやめたって事。でも今日は人手が足りないからお手伝いに来てくれたの。分ったかい?」
「はだん!おらのせいなのか…おらが居るから喜一郎兄様にお嫁様が来ねぇのか!」
「えっ、えっ、鈴虫様、それ、あっ、えぇっと、鈴虫様が悪いんじゃなくて!一緒になる相手が乱暴な人だと嫌でしょ!?毎日、怖い思いをして生活していくなんて嫌だなっておもったの。」
「…喜一郎兄様は悪くねぇよ…おらが…おらが馬鹿なだけなんだよ。たぶん…怒られるようなことをしたんだよ?おら馬鹿だから何で怒られたか…思い出せねぇけど。」
「そうなの?」
鈴虫はコクコクと頷いた。
「私もね、少し前に喜一郎さんにお会いした時に話をして、暴力を振るうようには見えなかったのよ。私たちはもう少し話をしてみるべきなんじゃないかって…思ったりもする…けど…」
「喜一郎兄様が悪くなければ、おらのお姉様になってくれるんだろ?んじゃぁ…喜一郎兄様は悪くねぇよ!おねぇさま…おやえねぇさま…おらにお姉様が出来るのか!?あぁ…おらにお姉様かぁ…うれしい!お姉様、お薬とお粥をありがとうございます。おら、ちゃんと全部飲みますからくだせ。」
そう言うなり鈴虫は、お八重の持つ盆の上から真っ茶色の臭い薬湯を取ると、息を止めて一気に飲み干した。
「あっ、えぇっと、あ、あのね、えっ、まだ、考え中で、その、そんなぁ…許嫁ってことは嫁では無いんですよ。」
お八重は鈴虫の余りに素直な喜びようと勢いに押されてしまった。喜一郎との事は時間を掛けてゆっくり考えれば良いし、他に良い人が現れるかもしれない。そう考えて思い詰めないようにしていたのにだ。それなのに、鈴虫の愛らしい素直な笑顔がお八重を追い詰めてくる。お八重は思わず顔を真っ赤にして首を横に振ってしまった。
「ぇぇ…おら、兄嫁様が出来たら一緒にお裁縫したりして本物のお姉様のようにしたかったのに…ちがうのか?」
鈴虫は寂しそうな顔をして薬湯の入った湯のみを床に置いた。コツンッ…と瀬戸物が床に触れる音が響く。
「おら…産まれてからずっとこの屋敷を出る事を禁じられてるの。なのによ、小さい頃から喜一郎兄さまはおらを置いて外へ遊びに行ってしまうんだ。…だから、おらはいっつも一人で遊ぶしかねぇ…だからよ、おら…お姉様、欲しかった…ずっと…ずっと…一緒に遊んでくれるお姉様が欲しかったんだ。お八重様はおらのお姉様にならんのか…なぁんだぁ…なぁんだぁ…つまんねぇ。」
真剣にお八重を見詰めながら自分の言葉で語り尽した鈴虫の目には一杯の涙が溜まっている。普段からあまり話さない鈴虫が思いの丈を精一杯に話してみせたのだ。
「鈴虫様…大変な目に合われたというのは父から聞いております。それなのに喜一郎さんを庇うって言うんですか?…分かりました。でも、もう一度話し合ってみ…て…」
「うん、庇うよ。だから、今日からお姉様って呼んで良いだろ?おらの事も鈴虫様って言わないで、鈴虫で良いんだよ。あぁ、うれしい…おらお粥も全部食べて早く治さなきゃ。お姉様、そのお粥ちょうだいな!そんで、そんで、食べ終えたらお姉様と何をしようか!」
「えっ!?だから、話し合ってから…」
「何をして遊ぶか話し合うの?お姉様が決めて良いよ!」
鈴虫は粥を急いで飲み込んだ。お妙は二人のやり取りを傍で見守っていたが、やはり鈴虫はいつもと様子が違う。話は噛み合わないし、記憶も曖昧だ。それより何より、こんなに喋ること自体がおかしい。まだ少し盛りが残っている分、興奮気味なのかもしれないが、嘉平やお妙の気苦労など無かったかのようにお八重を強引に言い包めてしまった。
そして、喋り疲れたのか、急いで食べて息が苦しくなって来たのか、鈴虫は食べ終えるとすぐにふわりと布団に倒れ込んでしまった。それでも嬉しそうに笑みを湛えている。
「おらにお姉様が出来たんだ……お姉様かぁ…お姉様!」
「鈴虫や、随分と幸せそうな顔して…」
「うん、幸せだよ。だって、だって、お姉様が出来たんだよ。」
「わかったから、そんなに気持ちを高ぶらせては体に障るよ。とにかく食べて寝て、早く治さなければ遊ばせないからね。」
「鈴虫ちゃん、お姉ちゃんからもお願いよ。明日、またお薬とお粥を作ってあげるから、ちゃんと眠ってちょうだいね。」
鈴虫は嬉しそうに何度も何度も頷いた。
今夜は少し寒くなりそうだ。鈴虫の薄い体に着物を掛けて寝かしつける。もちろん大切な襤褸布に包まれた草鞋は胸に抱いたままだ。他人には分からない程の僅かな佐吉の匂いと、姉と呼べる人が出来た喜びで鈴虫は幸せだった。きっとこのまま良い夢を見る事だろう。
鍵の閉まる音を残してお妙とお八重は連れ立って堂を後にした。
「ふふふっ…お八重さん、ごめんなさいね。まさかあんなに鈴虫がはしゃぐとは思わなかったわ。あの子は普段とても大人しい子なのよ。」
「えぇ、でもこのまえ会った時は見るな見るな!って怒っていらっしゃったはずです。今日は一転して私の事を気に入ってくれたみたいなので話を合わせましたが…はて、どうしたのかしら?」
「そうよね、何だか話がかみ合わないと思ったわよね。鈴虫ったらお八重さんの事、初めてあったような…忘れてしまったような…何だかおかしいわよねぇ。」
「まぁ、でも良いんです。私も末娘なので妹か弟が居たら良いなって思ったことは何回もありますから、あんなに喜ばれたら私まで嬉しくなっちゃいます!あぁ…でも、鈴虫様って妹みたいな弟になるのかしら?両方なのから…?」
まんざらでもないお八重の様子を見てお妙は少しだけ安堵することが出来た。不安定な気持ちの鈴虫を包み込んでくれるくらいの度量のある娘が手を貸してくれる、それだけでどれほど心強い事だろうか。本当にこのまま上ノ村へと帰してしまうのは惜しい。何とかして嫁いではくれないものだろうか。お妙は一縷の望みを託してお八重に問いかけてみた。
「ところで、お八重さん。肝心な事なんだけど…まだ喜一郎のこと、許せないでしょう…?あんな鈴虫に乱暴してしまうんだから…」
「…そうですねぇ…喜一郎さんとはもう少し話をしないと分かりません。
でも、鈴虫様とお話をして不安は一つ消えました。私、こちらに嫁ぐことが万が一無かったとしても、鈴虫様のお世話は致します。」
それは思い掛けない回答であった。嫁いでもらう事が叶わなくても、お妙の後継者としては力を貸してくれるという事なのか。お妙の目には嬉しい涙が浮かんだ。これで重たい肩の荷が一つ下りたのだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
【完結】 男達の性宴
蔵屋
BL
僕が通う高校の学校医望月先生に
今夜8時に来るよう、青山のホテルに
誘われた。
ホテルに来れば会場に案内すると
言われ、会場案内図を渡された。
高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を
早くも社会人扱いする両親。
僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、
東京へ飛ばして行った。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる