お伽話 

六笠 嵩也

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第三章

3-5

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二、三日すると体から立ち昇る甘い香りも鎮まって随分と楽になって来ていた。
初めの日から数えてみても、もう再発する恐れも無いだろう。しかし、まだ鈴虫の体は噛み傷の影響と疲労のせいなのか、その後もしばらく発熱は続き、あまり無理は出来ない状態であった。記憶も曖昧で、話がかみ合わなくなって来ると不安に駆られて泣き出しそうな顔をする。自分の記憶にないところで一体何をしていたのか、それが分からないのは、真っ暗な闇の中に突き落とされるような感覚なのだ。
其の為という分けでも無いが、堂の中には大事を取って布団を敷いたままにした。特に仕事があるわけでも無し、日がな一日ゴロゴロと寝たり起きたりのぼんやりとした生活が続く。
朝晩の食事と薬の世話はお八重がほとんどこなしていた事もあって鈴虫とお八重はすっかり打ち解けている。気持ちの浮き沈みも多々あって、良く話す日もあれば黙り込んでしまう事もあるが、概ねお八重には機嫌よく接しているようだ。あれこれとお喋りすることが、外へ出してもらえない鈴虫の不満解消にも繋がっていた。

「鈴虫ちゃん、今日はね、粟のお粥じゃなく菜飯にしたよ。入って良いかな?」

「はいっ、どぞ。」

鈴虫は嬉しそうに返事を返す。一日に二度か三度、お八重が食事を持って来てくれる。食べ終わるまで待っていてくれるので、お行儀悪いと言われてもお構いなしでお喋りをしながら食事をする。その後であやとりなどをして遊んでもらえれば上機嫌だ。

「鈴虫ちゃん、それ…なんでずっと持っているの?布の中身は草鞋だって聞いたけど…それ以上の事は鈴虫ちゃんの大切な事だから聞いちゃいけないって、お妙様が。」

「…うぅんと…これか?」

「そう、それ。鈴虫ちゃんの宝物なのかなぁ。」

「ふふふっ、そだよ。安心する匂いがするの。」

「へぇ?藁の匂いが好きなの?いま、外は刈入れの時期に入ったから何処も彼処も稲藁の匂いがするよ。」

それとは何か違うと、鈴虫が首を傾げる。

自分が感じている匂いの世界とお八重が嗅いでいる匂いは違うのではないか。ふと、そんな気がした。藁の匂いは確かにするのだが、その奥の方に心を緩めるような安心感のある佐吉の残り香がある。しかし、それは抽象的過ぎて鈴虫が言葉にして説明するのは少々難しかった。第一に佐吉との関係を上手く説明出来るかも難しいのだ。

「お姉様は喜一郎兄様の匂いを覚えてる?」

「えっ、どうかなぁ…さぁ…あんまり近くで嗅いだことないかも知れない。うぅ…ん、やっぱり分からないわ。あっほら、ちゃんと手元を見ながら食べてね。こぼしてるよ。」

「あっ、はいっ。
 …そか。お姉様は喜一郎兄様のこと、好きじゃないのか。」

「…?好きか、どうか…かぁ?うぅ…ん、私たちね、ずっと小さい頃に親同士が決めた相手だから何回かしか会ったことがないのよ。好きかって言われると…考えちゃうわね。でも、安心して!私は喜一郎さんと所帯を持たなくても鈴虫ちゃんのお姉ちゃんでいることは止めない。そう決めたの!」

その言葉に鈴虫は嬉しそうに何度も頷いた。

「一応、喜一郎さんの方は私に義理立てしてるっていうか…私が居るから鈴虫ちゃんの躾をやりたくなかったって言っていたけど…心の底はどうなっているか分からないのよ。だからもっと話し合わなくちゃ…」

「そだね。話してみなくちゃ分からないのだったら、ちゃんと話した方が良いと思うよ。
 それにしても…喜一郎兄様ったら、おらだってイヤだよ。だって、おら、この草鞋の持ち主のお嫁さんなんだもん。」

「えっ、えぇぇっ!鈴虫ちゃん、そういう人がいるの!?私、先を越されたってこと!?もう、おませさん!」

「…後も先も無ぇ。其々に、その時々だ。」

「ま、まぁ、そうだけど。」

鈴虫が御馳走さまと、茶碗を置いて頭を下げる。

「なぁ、おら…臭くねぇか?もうずっと堂から出てないからさぁ…髪もゴワゴワするし、体も垢っぽくて気持ち悪い。…だから、会えねぇってのもあんだ。」

「鈴虫ちゃんって普通の時はあんまり体臭感じさせないよ。でも、そっか…好きな人に会うとなると気になるよね。う~ん、今はみんな田んぼで忙しいからなぁ。ちょっと嘉平様に伺ってみるね。」

鈴虫は片付けをして堂を去ってゆくお八重の背中を期待を込めて見送った。
もう、うんざりするほど長い時間を狭い堂の中で過ごしてしまったのだ。毎日のように清拭していても、やはりお湯をたくさん使って髪まで洗いたい。
幼い頃から見慣れた風景。板塀に囲まれた狭い範囲であっても季節の移ろいは感じる事は出来る。いま、お日様の表情はどんな感じなんだろうか。風の肌触りは気持ちいいだろうか。答えを持ってくるお八重の事が待ち遠しくてたまらない。

「鈴虫ちゃん、お湯を沸かさないと駄目だって。体が冷えて風邪をひかれては困るそうです。まだ日も高いからお湯を沸かしてあげるよ。出てきて手伝ってちょうだい。」

鈴虫は襤褸布に包まれた草鞋を堂の中に置いたままで出掛けるか一瞬迷った。随分と胸に抱き続けたせいもあって、一瞬でも手放したら佐吉と永遠に引き剥がされてしまいそうなほどに不安になる。

「さきっさん、ちょっと待っててくだせ。おら、やっぱり本物のさきっさんに抱っこしてもらいたいんだ。」

久々に堂の戸を自分の手で開けた。夏の日差しはもう無いが、青い空に白い雲が棚引いている。風が少し冷たくなったような気もする。鈴虫は思わず胸いっぱいに空気を吸いこんだ。
庭に出るとお八重は筵と盥を抱えて立っていた。厨で沸かした湯を運ぶには、廊下の先のこの位置が一番効率が良いのだ。

「…お姉様?あのね、おら…」

「ん?どうしたの、鈴虫ちゃん?」

「おら…お姉様に付いて無い物が付いてるから…一応…ね…」

「あっ!そっか、ごめんね。ついつい女同士のつもりでいたわ。私は厨でお湯を沸かす係りに回るわね。」

鈴虫の方こそ気を遣わせてしまって申し訳ないような気がした。しかし、こればっかりは仕方が無い。お八重が慌てて嘉平を呼びに屋敷の中へと駆け込んで行った。

「嘉平様、鈴虫様の湯浴みのご用意お願いいたします。もうお庭に出てお出でです。私は湯を沸かしますので…」

この時期は村人も村長も関係なく忙しい。運よく屋敷に居ればよいが、田に出て刈り取り作業をしているかもしれない。それを念頭に置いてお八重は声を張り上げて嘉平を探した。

それと同じくして門の外から蹄の音と男の声がする。
どうやら誰かが馬に乗ってやって来たようだ。嘉平の屋敷に馬で来る者など限られていて、おおよそ村人が平伏すような身分の者であろう。嘉平の耳にはお八重の言う事は入っていたが、優先させなくてはいけないのは客人の出迎えだ。嘉平は鈴虫を庭で待たせたまま、急いで屋敷の正面に回った。

「嘉平殿、いらっしゃるか。お約束の物を一部ではあるがお届けに上がった。現身様に御目通りさせて下され。」

そこには馬上の男と、大きな包みを抱えた従者が二人立っていた。
今日の所は頭巾を被っていないが、馬上の男は先日連判状に血判を捺した者の一人だ。平時から良いものを食べているのだろう、嘉平の村の村人の倍はありそうな腹回りをしている。

「嘉平殿、現身様はどこじゃ。可愛い可愛い現身様に赤い御べべと蔦の花の刺繍を施した下帯をご用意致した。是が非にも会わせて下され。この御べべを着せてもう一度だけ抱っこさせて下され。出来ればぺろぺろも。」

「…あぁぁ…よ、よくいらっしゃいました…あの…お名前は伺いません。従者の方々も今日は此処には居なかったということになります。宜しければどうぞ中へ…」

敢えて御名は伺わない。先日の頭巾を纏った官吏たちのなかの一人である事はたしかだろう。しかし、誰も頭巾の下の顔を知らない。そう言う約束事なのだ。
馬を降りると男は従者を連れて門の中へと入って来た。入り口に馬がいるという事は、それがどういう事なのか村の男衆には分かってしまう。嘉平はそれを嫌って客人を庭の奥へと案内した。

「…だぁれ?」

「うぎゃぁぁぁ~っ!ああぁぁぁんッ!現身様ぁ~!!!お会いしとう御座いましたぁ!あれからというもの、毎日、毎日、現身様を想わない日は御座いません。お約束の品をお受け取り下さいませ!」

再会の興奮を抑えられずに中年小太りの男が喚きなが駆け寄ってくる。鈴虫は驚いて体が固まった。逃げ出そうにも体が動かない。危うく抱きつかれるところで嘉平が急いで割って入った。

「お、落ち着いて下さいませ。頭巾を被ったお姿でしかお会いしてませんでしょう。それに、実はこの子、何も覚えておりません。現身だった時の記憶が御座いません。貴方様があの日お会いしたのは、あくまでも観世音菩薩様なのです。」

「…おらが現身さま?…あなた、だぁれ?」

「はぁぁ…そんなぁ…一番乗りでお約束の赤い御べべをお持ちしたのに…二人の熱い誓いをお忘れかぁ!」

落胆する男をなだめすかして嘉平が屋敷の中に案内してゆく。血判を頂戴したとはいえ、機嫌を損ねて良い相手では無いのは重々承知だ。嘉平はこの場を上手く収めるべく思案した。

「実はこれから湯浴みをさせようと用意をしていたところなので御座います。宜しければ此方の隙間から…」

「むむっ、それはまた一興ッ!」

「決して驚かせてはいけませんぞ。音を立てるのは厳禁に御座います。」

「分かった、分かった。分かったから早く用意せい!はぁぁっ、現身様の裸体を日の下で間近に見れるとは…なんたる眼福よ…嘉平殿、上手くすれば褒美を出そう。可愛い現身様をたくさん目に焼き付けておきたいのじゃ。」

男は従者と共に巡り廊下に面した部屋へと通された。


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