お伽話 

六笠 嵩也

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第三章

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一体どれくらい時間が経ったのだろうか。鈴虫が解いた帯と盆を抱えて堂の外に出ると庭には誰も居なかった。庭を見渡せば、木の枝に掛かっていた男衆の衣と帯が無くなっている。あの二ノ上村の三人はもう帰ってしまったようだ。

冷たい風がツンと肌を刺す。

鈴虫が空を仰ぐと日はまだ真上に昇り切ってはいなかった。
天気は良いがさすがに下帯一枚で外に出るのは寒すぎる。鈴虫はギュッと体を縮こまらせて急いで庭を突っ切った。

「あ、喜一郎兄さま、戻りました。」

「おっ!もどった…?…か…!!!!!ぶぁああぁかッ!!!な、な、な、なんで、おまえ!ばか!ばか!ばか!ばか!!!!」

「…えっ?」

「鈴虫、お、おま、おまえ!なんでおまえが裸なんだ!!!!それに、その甘ったるい臭いは何だ!」

「あぁ…寒そうだから貸してやった。おら、えらい人に貰ったのがいっぱいあるし…。えっ?おら、何か匂うかなぁ?髪の毛に匂いがついたのか?この帯か?」

「はぁ!?そう言う事じゃないだろ!この、ばか!ばか!ばか!ばか!!!!お前も普通の身体じゃないんだから気安く肌を見せるなと躾けられてるだろう!それになぁ、外に出られないようにわざわざ裸にしてたのに!おまえ、自分の着物をくれてやったのか!余計な事はするなと親父があれ程言って聞かせたよなぁ!?婆様!婆様!急いで鍵だ!鍵閉めろ!逃げられるぞ!鈴虫の馬鹿がやらかした!」

「喜一郎兄さま…ごめんなさい…でも、大丈夫だよ、寝ちゃってるから。」

「大丈夫じゃねぇ!逃がしたら捕まえられないかも知れないって言っただろうがッ!」

お妙が咳込みながら鍵を持って慌てて庭へと出て行った。その慌てようを見て鈴虫もようやくまずい事をしてしまったのではないかと焦り出す。とにかく喜一郎の怒りを鎮めよう。そうでなければ何をされるか分からない。鈴虫はペタリと座り込んで額を床につけた。

「ごめんなさい、兄さま…でも…寒いし、かわいそうなんだもん……」

「可哀相とかいう問題じゃねぇ!その帯にこびり付いてるのは何だ!まさか、お前、卑しい事に手を貸したのか!?」

「…だぁって…だぁって…こまってると思って……」

ぶっ殺すぞ…喜一郎は鈴虫に聞こえるか聞こえないかの低い声で呟くと、鈴虫の髪の毛を鷲掴みにしてガツガツと大股な歩みで厨へと引き摺って行った。その鬼の形相と勢いに負けて鈴虫は何の抵抗も出来ないままに土間に叩きつけられる。お妙は鍵を掛ける為に堂へ行ってしまったし、嘉平の姿は見当たらない。もしかしたら嘉平は二ノ上村の男衆を村境まで見送りに出てしまったのかも知れない。そうなると嘉平に力尽くで止めに入ってもらう事は期待できない。鈴虫はとにかくお妙が戻って来てくれるまで頭を下げて赦しを請いながら時間を稼ぐしかないだろう。

「兄さま…ご、ごめんなさいっ!ごめんなさい!もう、余計な事はしないから赦して!」

「穢らわしい。」

頭上から叩きつけられる言葉は淡々として冷たい。蹲ったまま動けなくなった鈴虫を喜一郎が冷たい目で見下ろしている。その冷たい目の奥で静かに燃え滾っているのは怒りなのか、それとも秘められた情欲なのか。そのどちらにしても喜一郎は一度火がついてしまうと荒っぽい手段でしか感情を制御できない男。

「ごめんなさい、兄さま!ごめんなさい、もうしませんから赦して!叩かないでね!」

「お前みたいな淫乱で薄汚いヤツは触りたくもない!」

言うが早いか喜一郎は鈴虫の脇腹を蹴飛ばした。鈴虫は内臓に食い込むような痛みに声も出せず、ただ蹴られたところを抑え込んで冷たい土間に突っ伏すだけ。次の打撃が加わる前に身を丸めて守りの体勢を取りたいが思うように動けない。こうなってしまっては何をされても我慢するしかないのか。鈴虫は腹を括ってギュッと目を瞑った。

目を瞑ったまま固まっている鈴虫の耳にガタンッと何かがぶつかる音と、その後すぐに何かを手荒く探す音が聞える。続いてザザァッと水の音。次の打撃に備えて身構えていたのに何か違う事が起こっているのか。鈴虫の脳裏には夏の日の水弾みずはじきの恐怖が蘇る。もしかしたら喜一郎はあの日の水弾きをまだ隠し持っていたのだろうか。早く誰かが止めに入ってくれないと、また意識を失って動けなくなるまで折檻されるかも知れない。そう思うと鈴虫は怖くて堪らなくなってくる。

「穢らわしいんだよ!」

「キャッ!!!」

次はどこに打撃が入るのだろうかと全身に力を込めて構える鈴虫に、突然、氷のように冷たい水がザバァッっと叩きつけられた。鈴虫は、急に襲ってきた痛みにも似た冷たさと水圧に、全身が一瞬で痺れて呼吸が止まりそうになる。喜一郎はそのあとも続けざまに、無言で水瓶から冷水を桶でを汲みだしては鈴虫に浴びせ続ける。鈴虫は矢継ぎ早に襲ってくる冷水の合間を縫って息継ぎをするだけで精一杯だ。何度も、何度も…何度も…水瓶の底を浚い尽くすまでその勢いは止まることはない。とうとう水が無くなると、喜一郎はまだ不満が残る様子で腹の底から深い吐息と共に怒気を吐き出し、ついでにその勢いに任せて桶を土間に叩きつけた。

「あのなぁ、俺は弟とまぐわうような外道に堕ちるのだけは御免だ。お前も自覚しろ!わかったか!!」

喜一郎はそう言い放ち、体が冷え切って呼吸さえ覚束なくなった鈴虫の腕を掴んで板の間に放り出した。もう鈴虫はガタガタと細かく震えるだけで自力では動けない。しばらくは起き上がる事も出来ないだろう。

「…ぉ…とう……と……」

鈴虫は薄っすらと瞼を開いて、滲む視界に喜一郎を探した。

ぼんやりとした視界の中に見た喜一郎の姿は、全身ずぶぬれで朝より酷い落ち武者になっていた。まずは鈴虫に先立ってみそぎを行ったのだろうか、いつも小奇麗に整えていた髷もすっかり解けている。きっと鈴虫自身には自覚しえない何かが喜一郎を苦しめ、それを振り払うが為に手荒な真似にでたのだろう。憑き物が落ちたように鬼の形相から覚めた喜一郎の青白い顔にはどこか悲哀が見て取れた。

「…ったく、足で小突いただけだからな。お前を殴らないっていう佐吉兄ぃとの約束は破ってないからな。」

「…にぃ…さ…ま……ごめん…なさ…ぃ……おら、にいさまの弟…ごめん…なさぃ…ごめん……」

「うるせぇよ…黙れ。着る物を持って来てやるから転がって待ってろ。」

喜一郎は自らも濡れた着物を脱ぎ捨てながら奥の間へと向かった。その喜一郎の背中にお妙の悲鳴が刺さる。堂に鍵を掛けて来ただけだと言うのに、さっきまで元気にしていた鈴虫が、ずぶ濡れでぐったりと横たわっている。お妙にはこの状況が到底理解出来ないだろう。

「ヒャァッ!ゴホッゴホッ…ゴホッ…おぉっ、何をしでかしたんだい!ゴホッ…すず…や…大丈夫かい!ゴホッゴホッ…喜一郎、早く火を熾しなさい!また鈴虫が熱をだしちまう!ゴホッゴホッ…早く火を熾して暖めるんだよ!」

「あー、うっせぇ…言われなくてもわかってらぁ。婆様、あんまり興奮すると自分の息の根が止まっちまうぞ。それより黙ってこの紅い御べべでも着せてやってくれ。」

冷え切った鈴虫をそのままにして置いて良いわけが無い事ぐらい喜一郎だって分かっている。だが、その胸中は、昨晩からの怒涛のような出来事の連続による疲れと、割に合わない役回りへの鬱憤と、あれだけ口を酸っぱくして言い聞かせたのに間違いを犯す不出来な弟への落胆とが入り乱れて中々納まりがつかない。喜一郎はザンバラ髪を搔き乱したまま、鈴虫の古びた布団と潰れた草鞋を囲炉裏の傍に用意し、まだカタカタと震えながら倒れ込んでいる鈴虫を布団の中に放り込んだ。あとは囲炉裏に火を入れ粟粥の鍋を掛ける。これで暫くすれば辺りも温まってくるだろう。

鈴虫が落ち着いたのを見届けてお妙も咳込みながら自分の部屋へと帰って行った。
微妙な沈黙の中で喜一郎は呼吸を整えると、鈴虫の枕元に胡坐をかいて乱れた髷を整え始める。ただし、すぐ手の届く位置に座っているのに鈴虫の方を見やる事はしない。最低限の義務を遂行しているだけだという空気を醸し出し、まるで瞑想でもするかのようにじっと囲炉裏の火を見詰めて髪を撫でつけていた。

暫くして嘉平が戻って来ると、喜一郎はもう役目を負えたと言わんがばかりにスッと席を外してしまった。鈴虫の様子を見れば留守中に何か良からぬことが起こったのは一目でわかる。その事を追及される煩わしさを避けるには消えてしまうのが一番と言わんがばかりの逃げ足の速さだ。
嘉平もそれを察して喜一郎に声を掛けなかった。無理に喜一郎を問い質して拗らせるよりも、鈴虫の口から事情を聴き出した方が手っ取り早い。嘉平は先程まで喜一郎が座っていた場所に座ると鈴虫にそっと話しかけた。

「…喜一郎にやられたのかい?」

「そうだけど、違う!兄様は悪くねぇよ。おらが悪かったの。」

「本当かい?」

「ほんとだよ。おらか怒られるようなことしたの。兄さまは髪を洗ってくれて、温かいところにお布団も用意してくれたの。」

「本当かい?」

「ほんとだよ。…おらのこと、蹴ったりしてないよ。」

「むむっ!?…うぅん…そ、そうならば良いんだが…何か困ったことがあったらちゃんと早めに儂に相談するんだよ、いいね?」

嘉平はそう言うと鈴虫の顔を覗き込んだ。嘉平が目を合わせると鈴虫がコクコクと慌てて頷く。何も無いわけが無い事くらい嘉平にだって分かっている。喜一郎が怖くて言えない事もあるのだろうから、打ち明けてくれるかどうかは鈴虫の気持ち次第なのも承知の上。嘉平は言葉足らずの鈴虫を急がせることはしないで囲炉裏に掛かった鍋の具合を見ながら鈴虫の気持ちが決まるまでゆっくりと次の言葉を待った。

「あの…ね、お父様…あのね、お兄様の事じゃなくて…お堂に居る子の事なんだけど……」

「まさか、お前まで噛付かれたのかい?それとも悪口でも言われたかい?」

「…うぅん、そうじゃなくて…お父様、おらさっきあの子にお名前聞かれたんだけど…おら、何て答えて良いのかわからなかったんだ。…でね、おら、あの子のお名前を聞けなかったよ。おらたちは…おらたち現身は…おらは鈴虫だけど鈴虫じゃないし…」

「ん?鈴虫や、何を言いたいのかよく分からんぞ?名前くらい訊いたらよかろう?」

「……うぅんとねぇ…おら、鈴虫じゃなくて喜美だ。でもこれは現身じゃなかった時の昔の名前だろ?だからおら、鈴虫で…でもあの子もおらと同じだから…喜美と同じ名前しか持ってなくて、それは聞いちゃいけないな名前だから…えぇっと…おら…なんて言っていいのかわかんなくて…」

「あぁ、あぁ、わかったよ。現身の名前がまだ決まっていないって言いたいんだね?」

鈴虫はコクリと頷いた。

「それを気にしていたのかい?そうだなぁ…では鈴虫や、あの子が此処に居る間はお前が気に入った名前で呼んであげても良いよ。」

「ほんと!いいの!?おら、名付け親になって良いの?…ん…とねぇ…うんとねぇ…スズメちゃん!ごはんの食べ方がかわいいから!」

「はぁ?スズメ?飛んで逃げちまいそうな名前だな。」

「そか。…えぇっと…えぇっと…じゃなかったらね、ネズミちゃん!茶色くって、おらが知ってる中で一番かわいいの!ウサギちゃんでもいいけど…う~んとんねぇ…やっぱり木ネズミちゃん!」

「はぁ?儂に言わせると、奴はかわいいというか…雀を喰らう山猫とかイタチって感じだがなぁ。」

「ねぇ、お父様?おら、もう長居したり余計な事はしない!おらに水をぶっかけても良いから木ネズミちゃんのお世話させてくだせ。喜一郎兄さまにもお許しをお願いしてくだせ。」

「鈴虫や、やっぱり何か余計な事をして喜一郎に折檻されたんだね?それで水を掛けられたんだろう?」

「…あっ?」

「鈴虫や、お前は……」

「だぁってね、おらと同じ体の子に初めて会ったんだよ!とっても特別で大事なんだよ!ここに居る間だけでも大切に扱わせてくだせ!おねがい!」

嘉平は鈴虫の生乾きの髪を見詰めながら暫く返答に困っていた。真夏でもあるまいし、一日に何回も行水させれば体調を崩すのも時間の問題。それにちょっと目を離せばまた喜一郎に何をされるか分からない。嘉平としては心配事だらけで、安易に許すことはしたくないのが本音だ。しかし、今いる者の中であの甘い香りに惑わされないのは鈴虫とお妙しかいないというのも事実。

「仕方ない…一日に一回だけ。飯を食わせたらすぐに戻って来ること。もう余計な世話はしないこと。お約束出来るね?」

「はいッ!」

「そうだなぁ…鈴虫や、次から堂に行かせるときは湯浴みの支度をしておいてあげようね。」

鈴虫は嬉しそうにコクコクと頷いた。

喜一郎が仕掛けた粟粥の鍋から湯気が立ち昇り始めた。鈴虫が少し甘ったれた眼差しで嘉平を見上げて袖を引っ張る。

これでやっと鈴虫は安心して食事にありつけそうだ。


※木ネズミ→リス

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