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第1章
私の推しが義兄でした
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午後も中盤を過ぎたオフィスは、キーボードの打つ音と電話のベルが飛び交っていた。社内チャットで資料のやりとりをしながら、鳴った固定電話を素早く取る。
「はい、エミヤトレーデイングの石崎です。いつもお世話になっております」
すぐに画面を切り替え、在庫管理システムを確認する。
「はい、在庫は倉庫にございますので、来週の火曜にはそちらのセンターに納品可能です。はい、よろしくお願いいたします」
通話を終えると、ふっと息をついた。いつの間にかお昼に買ったカフェオレは、ぬるくなっていた。
「咲さんの声、流れるみたいに爽やかだよね」
背後から、軽く声がかけられる。振り向くと、ジャケットを脱いでシャツの袖をまくった圭吾君が、爽やかに笑って立っていた。
「えっ、あ、聞いてたの?」
「うん。なんかこう、安心できる感じ」
「そうかな、もう定型文喋ってるだけって感じだけど」
そんなこと言われ慣れてないので、少し照れてしまう。
「そんな事ないよ。そうだ。……ね、咲さん」
「うん?」
「今日ちょっと飲みに行かない?」
「え、飲み?」
小声で告げられた急な誘いに、戸惑って聞き返す。彼はけろっとした顔をして、言葉を続ける。
「せっかく再会したし。ゆっくり話せたらいいなって思ってたから。予定あったりする?」
大いにある。毎週金曜21時、癒しの定期便。
YUNOの音読動画の配信日だ。
これを逃すのは絶対に、無理。
「ごめん、今日はちょっと、用事があって」
「⋯⋯そっか、残念。でもまた今度誘ってもいい?」
ちょっとなんか近くない──?圭吾君、さては自分の顔がいいって、きっと自覚してるな。蓮兄で鍛えられている私だったから、良かったけれど。
他の人だったら、勘違いしちゃうんじゃないかな。
「うん、そのときはぜひ」
顔を傾けて、申し訳なく言う。すると、彼は口を真横に結んだ。なんだろう、なんだか照れてるみたいだ。
壁掛け時計をちらりと見る。定時まであと2時間。YUNOに画面越しで会うまでは、まだ少し時間があるけど。なんだかいい意味でそわそわしている自分がいた。
***
定時を過ぎて、ロッカーで軽くリップを塗り直してからオフィスを出る。駅を降りてから、早足で最寄りのスーパーに向かう。ひき肉と玉ねぎ、トマト缶、あとはスパイスと合わせれば、完璧。
帰宅してエプロンをかけ、さっそくキーマカレー作りに取りかかる。みじん切りにした玉ねぎを炒めながら、鼻歌まじりにスマホをキッチン台に立てて、YUNOのアーカイブスを開く。ワイヤレスイヤホンを耳につけ、聞き流す。
今日の配信は確か「よだかの星」だったはず。子供の頃に読んだきりで、その時はよくわからなかったけど、今だったら違う感想を持つんだろうな。今聞いてる「山月記」だって、高校生の時と印象が違った。
「……ただいま」
不意に背後から蓮兄の声がして、びくりと肩が跳ねた。咄嗟にスマホの画面を伏せる。
「あ、おかえり! 蓮兄ちゃん。今日はキーマカレー作ってるの。すぐできるよ」
「……そうか。いい匂いだな」
蓮兄はフライパンをちらりと見たあと、洗面所へと入っていった。思わず息が漏れる。なんかすごい不自然な行動しちゃった。
その後、食事の間は特に何も言わず。蓮兄は普通にカレーを食べてくれた。
「……うまい。前より味にコクがある感じする」
「ほんと? やった、スパイス調合こだわったんだ」
作った料理をおいしいと言ってもらえると、やっぱり嬉しい。1人で食べるより、やっぱり家族で食べた方がいいよね、とつくづく思う。
食事を終えて片付けも終わると、お風呂に入って。そそくさと自室へ戻った。ドアを閉めて、スマホを手に取る。ちょうど配信が始まったところだった。
『こんばんは。YUNOです』
その優しい声が、イヤホン越しに広がる。
仕事で疲れた心が、じんわりとほぐれていく。画面越しに彼の表情を眺める。今夜の朗読は、宮沢賢治の「よだかの星」。
『よだかは、実にみにくい鳥です』
その出だしを聴いただけで、胸が詰まった。よだかの孤独と、星に向かって飛び続ける切なさ。朗読はゆっくりと、穏やかに、でも確かに胸の奥に染み込んでくる。
いつの間にか、目元がじわりと熱くなっていた。
「……うぅ、……よだか」
ぽろぽろと、涙がこぼれる。
『来週は羅生門を朗読します。それじゃ君の心が、少しでも軽くなりますように。おやすみなさい』
YUNOの囁くような声が、耳に溶けた。
「……幸せ」
イヤホンを外しながら、思わず小さく呟いていた。
「……あぁ。投げ銭したい。リアルタイムで配信してくれたりしないかな」
画面に映る「終了しました」の文字に、名残惜しさが募る。YUNOの配信はすべて収録形式だ。リアルタイム配信も、スパチャも一切なし。けれどそれが逆に、神聖な存在っぽく思えるわけだけど。ファンとしては複雑なところでもある。
正直グッズとかライブとかあるvtuberが、羨ましい。
配信の余韻を抱いたまま、コメント欄に感想を書き込む。あんまり重たくならないようにと、感想は必ず2行で終わる程度と決めている。
すっかり喉が渇いてしまっていた。部屋を出て階段を下りる。するとリビングから実況の高揚した声と、スタジアムの歓声が聞こえてきた。
ソファには蓮兄が座っていた。彼は薄く表情を浮かべながらテレビを見ている。
「どっちが勝ってるの?」
「今のとこ2対1。オランダが1点リード」
その口調は相変わらず淡々としているけれど、少し楽しそうに見える。
「……アイスあるぞ。俺は食べないけど」
「え?あ、食べる!」
即答するといそいそと冷凍庫を開けて、バニラバーを取り出した。ソファに並んで座りながら、アイスを口にする。甘さが口の中でとける。至福のひとときだ。
「……今日、なんかご機嫌だな」
「え、そう?」
ぽそりと呟くように言われて、思わず目を泳がせる。
「なにか、いいことあったか?」
「あー、どうだろう。仕事を褒められた事ぐらいかな」
考えるふりをして誤魔化す。さっきまで推しの配信を聞いて、泣きながら幸せになってました、なんて言えるはずもない。
「誰に」
「うん?」
「誰に褒められたんだ?」
じっと見つめられて、問われれば何だか圧を感じた。
「えっと、例の圭吾君から。声がいいって言われて」
そう言うと、彼の眉毛がぴくりと動いた気がした。
「……口、ついてる」
「え?」
言われた瞬間、蓮兄の指先が唇の端に触れる。指先でそっと拭われた次の瞬間、彼はそのまま、その指を自分の口に入れた。
これ、YUNOさんの、シチュエーション動画にあったやつ──。そう思うと心臓がドクンと跳ねた。
静かに、指を口に含んだままの彼がこちらを見る。わずかに、唇の端が持ち上がっていた。
「……なに?変な顔して」
「べ、べつに?」
「……ん」
蓮兄は何事もなかったように、またテレビへと視線を戻した。危ない。妹の私といえども、ときめきかけた。本当なんで蓮兄、YUNOさんの声に似てるのかな。顔が熱い。
そうだ、こういう事昔から無意識にやってくる人だったっけ。
「咲」
「んー?」
「……明後日、一緒に出かけないか?」
昔のことを思い出していると、ぽつりと言われた。
「え?明後日?」
「咲の誕生日だろう。それとも誰かと予定あるのか」
そうだ、明後日の日曜日。
4月27日は、私の24歳の誕生日だ。
「ううん、ないけど」
自然と声が小さくなる。蓮兄は相変わらずテレビに視線を戻したまま、さらりと言った。
「今までずっと祝ってやれなかったから。何か美味いもんでも食べに行こう」
「誕生日必ずメッセージくれてたじゃない。それにもう子供じゃないし。お祝いなんてしなくても……」
「ダメだ」
間髪入れずにそう言われて、思わず黙る。けれども横顔はいつも通り無表情に近いのに、不思議と温かかった。少し間を置いて、彼は言葉を続ける。
「プレゼント、自分で選んだ方がいいだろう。だから出かけよう」
不意に視線を向けられて、目が合った。鳶色の瞳に、ほんの少しだけ迷いのような色が見えた気がした。
思わず視線を逸らした。
「……別に、いいよ。そんなの」
「いらない、ってことか?」
「そういう意味じゃなくて。その、何でもいいよ。蓮兄が選んでくれたなら、それで」
「分かった」
少し息をついて、微笑まれた。テレビから実況の歓声が上がった。オランダがゴールを決めた。
「よっしゃ」
珍しく片手で蓮兄がガッツポーズをした。「よかったね」と口にしながら、内心戸惑っていた。
なんかこの歳になって、兄妹で誕生日に出かけるって。かなりブラコンが過ぎるのでは。
でも、蓮兄にもし奥さんとかできたら。
そういう事もできなくなるし。まぁいいか。
日本に帰ってきたのだから、すぐまた彼女できるだろうし。こうやって2人で出かけるのも、最後かもしれない。
そう思うと、なぜだか。心が陰っていく気がした。
***
土曜の夜は、眠れなかった。
ベッドの中で何度も寝返りを打ってみたけれど、まぶたは一向に重くならない。いつものようにYUNOのアーカイブを再生してみたけれど。耳に入ってきているはずなのに、心に届いていない感じ。
なんでだろう。体が火照ってるわけでもない。ただ、心のどこかがざわついていた。
「……なんか食べよ」
ぼそっとつぶやいて、ベッドから抜け出す。廊下に出ると、ほのかな明かりが足元を照らした。廊下の突き当たりに目をやる。父の書斎の扉から、明かりが漏れていた。
蓮兄まだ起きてるんだ。もう時刻は深夜1時。土曜、というかもう日曜だけれども、まだ仕事があるのだろうか。
それで今日一緒に出かける予定だから、何だか申し訳ない気分になった。出る時間もう少し遅くして、休んでもらおう。
それより蓮兄も何か食べるかな。カップスープとか持ってってあげたら、ちょっとは喜ぶかな──。そんなことを考えながら、足音を立てないように扉へと近づいた。
その時だった。
「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた」
はっきりと、それでも甘さを含んだ静かな声。
思わず耳を疑う。それは日常で聞いている“蓮兄”の声ではなくて──。“YUNO”の声だった。
足先が冷水に浸かったみたいに、冷たくなった。喉が詰まったように、呼吸が浅くなる。心臓が痛いほどに鳴っている。
うそでしょ──。そんな言葉が、唇の奥からこぼれそうになるのを、口を押さえて慌てて飲み込む。その間も“羅生門”を読む彼の声が、澱みなく耳に入ってくる。
完全にYUNOの声だった。ずっと推してきた、癒しで、憧れで、支えだったあの声が。まさか。
違うよね、偶然、似てるだけだよね──。これまでと同じように、そう言い聞かせたくても。鼓膜がそれを許してくれなかった。
震える手で、そっと扉に触れる。目をぎゅっと閉じれば、軽く眩暈がした。
私の、推しが──。
[推しが義兄でした]
「はい、エミヤトレーデイングの石崎です。いつもお世話になっております」
すぐに画面を切り替え、在庫管理システムを確認する。
「はい、在庫は倉庫にございますので、来週の火曜にはそちらのセンターに納品可能です。はい、よろしくお願いいたします」
通話を終えると、ふっと息をついた。いつの間にかお昼に買ったカフェオレは、ぬるくなっていた。
「咲さんの声、流れるみたいに爽やかだよね」
背後から、軽く声がかけられる。振り向くと、ジャケットを脱いでシャツの袖をまくった圭吾君が、爽やかに笑って立っていた。
「えっ、あ、聞いてたの?」
「うん。なんかこう、安心できる感じ」
「そうかな、もう定型文喋ってるだけって感じだけど」
そんなこと言われ慣れてないので、少し照れてしまう。
「そんな事ないよ。そうだ。……ね、咲さん」
「うん?」
「今日ちょっと飲みに行かない?」
「え、飲み?」
小声で告げられた急な誘いに、戸惑って聞き返す。彼はけろっとした顔をして、言葉を続ける。
「せっかく再会したし。ゆっくり話せたらいいなって思ってたから。予定あったりする?」
大いにある。毎週金曜21時、癒しの定期便。
YUNOの音読動画の配信日だ。
これを逃すのは絶対に、無理。
「ごめん、今日はちょっと、用事があって」
「⋯⋯そっか、残念。でもまた今度誘ってもいい?」
ちょっとなんか近くない──?圭吾君、さては自分の顔がいいって、きっと自覚してるな。蓮兄で鍛えられている私だったから、良かったけれど。
他の人だったら、勘違いしちゃうんじゃないかな。
「うん、そのときはぜひ」
顔を傾けて、申し訳なく言う。すると、彼は口を真横に結んだ。なんだろう、なんだか照れてるみたいだ。
壁掛け時計をちらりと見る。定時まであと2時間。YUNOに画面越しで会うまでは、まだ少し時間があるけど。なんだかいい意味でそわそわしている自分がいた。
***
定時を過ぎて、ロッカーで軽くリップを塗り直してからオフィスを出る。駅を降りてから、早足で最寄りのスーパーに向かう。ひき肉と玉ねぎ、トマト缶、あとはスパイスと合わせれば、完璧。
帰宅してエプロンをかけ、さっそくキーマカレー作りに取りかかる。みじん切りにした玉ねぎを炒めながら、鼻歌まじりにスマホをキッチン台に立てて、YUNOのアーカイブスを開く。ワイヤレスイヤホンを耳につけ、聞き流す。
今日の配信は確か「よだかの星」だったはず。子供の頃に読んだきりで、その時はよくわからなかったけど、今だったら違う感想を持つんだろうな。今聞いてる「山月記」だって、高校生の時と印象が違った。
「……ただいま」
不意に背後から蓮兄の声がして、びくりと肩が跳ねた。咄嗟にスマホの画面を伏せる。
「あ、おかえり! 蓮兄ちゃん。今日はキーマカレー作ってるの。すぐできるよ」
「……そうか。いい匂いだな」
蓮兄はフライパンをちらりと見たあと、洗面所へと入っていった。思わず息が漏れる。なんかすごい不自然な行動しちゃった。
その後、食事の間は特に何も言わず。蓮兄は普通にカレーを食べてくれた。
「……うまい。前より味にコクがある感じする」
「ほんと? やった、スパイス調合こだわったんだ」
作った料理をおいしいと言ってもらえると、やっぱり嬉しい。1人で食べるより、やっぱり家族で食べた方がいいよね、とつくづく思う。
食事を終えて片付けも終わると、お風呂に入って。そそくさと自室へ戻った。ドアを閉めて、スマホを手に取る。ちょうど配信が始まったところだった。
『こんばんは。YUNOです』
その優しい声が、イヤホン越しに広がる。
仕事で疲れた心が、じんわりとほぐれていく。画面越しに彼の表情を眺める。今夜の朗読は、宮沢賢治の「よだかの星」。
『よだかは、実にみにくい鳥です』
その出だしを聴いただけで、胸が詰まった。よだかの孤独と、星に向かって飛び続ける切なさ。朗読はゆっくりと、穏やかに、でも確かに胸の奥に染み込んでくる。
いつの間にか、目元がじわりと熱くなっていた。
「……うぅ、……よだか」
ぽろぽろと、涙がこぼれる。
『来週は羅生門を朗読します。それじゃ君の心が、少しでも軽くなりますように。おやすみなさい』
YUNOの囁くような声が、耳に溶けた。
「……幸せ」
イヤホンを外しながら、思わず小さく呟いていた。
「……あぁ。投げ銭したい。リアルタイムで配信してくれたりしないかな」
画面に映る「終了しました」の文字に、名残惜しさが募る。YUNOの配信はすべて収録形式だ。リアルタイム配信も、スパチャも一切なし。けれどそれが逆に、神聖な存在っぽく思えるわけだけど。ファンとしては複雑なところでもある。
正直グッズとかライブとかあるvtuberが、羨ましい。
配信の余韻を抱いたまま、コメント欄に感想を書き込む。あんまり重たくならないようにと、感想は必ず2行で終わる程度と決めている。
すっかり喉が渇いてしまっていた。部屋を出て階段を下りる。するとリビングから実況の高揚した声と、スタジアムの歓声が聞こえてきた。
ソファには蓮兄が座っていた。彼は薄く表情を浮かべながらテレビを見ている。
「どっちが勝ってるの?」
「今のとこ2対1。オランダが1点リード」
その口調は相変わらず淡々としているけれど、少し楽しそうに見える。
「……アイスあるぞ。俺は食べないけど」
「え?あ、食べる!」
即答するといそいそと冷凍庫を開けて、バニラバーを取り出した。ソファに並んで座りながら、アイスを口にする。甘さが口の中でとける。至福のひとときだ。
「……今日、なんかご機嫌だな」
「え、そう?」
ぽそりと呟くように言われて、思わず目を泳がせる。
「なにか、いいことあったか?」
「あー、どうだろう。仕事を褒められた事ぐらいかな」
考えるふりをして誤魔化す。さっきまで推しの配信を聞いて、泣きながら幸せになってました、なんて言えるはずもない。
「誰に」
「うん?」
「誰に褒められたんだ?」
じっと見つめられて、問われれば何だか圧を感じた。
「えっと、例の圭吾君から。声がいいって言われて」
そう言うと、彼の眉毛がぴくりと動いた気がした。
「……口、ついてる」
「え?」
言われた瞬間、蓮兄の指先が唇の端に触れる。指先でそっと拭われた次の瞬間、彼はそのまま、その指を自分の口に入れた。
これ、YUNOさんの、シチュエーション動画にあったやつ──。そう思うと心臓がドクンと跳ねた。
静かに、指を口に含んだままの彼がこちらを見る。わずかに、唇の端が持ち上がっていた。
「……なに?変な顔して」
「べ、べつに?」
「……ん」
蓮兄は何事もなかったように、またテレビへと視線を戻した。危ない。妹の私といえども、ときめきかけた。本当なんで蓮兄、YUNOさんの声に似てるのかな。顔が熱い。
そうだ、こういう事昔から無意識にやってくる人だったっけ。
「咲」
「んー?」
「……明後日、一緒に出かけないか?」
昔のことを思い出していると、ぽつりと言われた。
「え?明後日?」
「咲の誕生日だろう。それとも誰かと予定あるのか」
そうだ、明後日の日曜日。
4月27日は、私の24歳の誕生日だ。
「ううん、ないけど」
自然と声が小さくなる。蓮兄は相変わらずテレビに視線を戻したまま、さらりと言った。
「今までずっと祝ってやれなかったから。何か美味いもんでも食べに行こう」
「誕生日必ずメッセージくれてたじゃない。それにもう子供じゃないし。お祝いなんてしなくても……」
「ダメだ」
間髪入れずにそう言われて、思わず黙る。けれども横顔はいつも通り無表情に近いのに、不思議と温かかった。少し間を置いて、彼は言葉を続ける。
「プレゼント、自分で選んだ方がいいだろう。だから出かけよう」
不意に視線を向けられて、目が合った。鳶色の瞳に、ほんの少しだけ迷いのような色が見えた気がした。
思わず視線を逸らした。
「……別に、いいよ。そんなの」
「いらない、ってことか?」
「そういう意味じゃなくて。その、何でもいいよ。蓮兄が選んでくれたなら、それで」
「分かった」
少し息をついて、微笑まれた。テレビから実況の歓声が上がった。オランダがゴールを決めた。
「よっしゃ」
珍しく片手で蓮兄がガッツポーズをした。「よかったね」と口にしながら、内心戸惑っていた。
なんかこの歳になって、兄妹で誕生日に出かけるって。かなりブラコンが過ぎるのでは。
でも、蓮兄にもし奥さんとかできたら。
そういう事もできなくなるし。まぁいいか。
日本に帰ってきたのだから、すぐまた彼女できるだろうし。こうやって2人で出かけるのも、最後かもしれない。
そう思うと、なぜだか。心が陰っていく気がした。
***
土曜の夜は、眠れなかった。
ベッドの中で何度も寝返りを打ってみたけれど、まぶたは一向に重くならない。いつものようにYUNOのアーカイブを再生してみたけれど。耳に入ってきているはずなのに、心に届いていない感じ。
なんでだろう。体が火照ってるわけでもない。ただ、心のどこかがざわついていた。
「……なんか食べよ」
ぼそっとつぶやいて、ベッドから抜け出す。廊下に出ると、ほのかな明かりが足元を照らした。廊下の突き当たりに目をやる。父の書斎の扉から、明かりが漏れていた。
蓮兄まだ起きてるんだ。もう時刻は深夜1時。土曜、というかもう日曜だけれども、まだ仕事があるのだろうか。
それで今日一緒に出かける予定だから、何だか申し訳ない気分になった。出る時間もう少し遅くして、休んでもらおう。
それより蓮兄も何か食べるかな。カップスープとか持ってってあげたら、ちょっとは喜ぶかな──。そんなことを考えながら、足音を立てないように扉へと近づいた。
その時だった。
「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた」
はっきりと、それでも甘さを含んだ静かな声。
思わず耳を疑う。それは日常で聞いている“蓮兄”の声ではなくて──。“YUNO”の声だった。
足先が冷水に浸かったみたいに、冷たくなった。喉が詰まったように、呼吸が浅くなる。心臓が痛いほどに鳴っている。
うそでしょ──。そんな言葉が、唇の奥からこぼれそうになるのを、口を押さえて慌てて飲み込む。その間も“羅生門”を読む彼の声が、澱みなく耳に入ってくる。
完全にYUNOの声だった。ずっと推してきた、癒しで、憧れで、支えだったあの声が。まさか。
違うよね、偶然、似てるだけだよね──。これまでと同じように、そう言い聞かせたくても。鼓膜がそれを許してくれなかった。
震える手で、そっと扉に触れる。目をぎゅっと閉じれば、軽く眩暈がした。
私の、推しが──。
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