7 / 25
第1章
私はただの、妹だから
しおりを挟む
「……あれ?もしかして、蓮じゃない?」
突然届いた声に、2人して振り返る。その先には、長い髪を緩く巻いた女の人が立っていた。すらりと伸びた手足に、ぴたりとフィットする黒のワンピース。ヒールを履いた足元も軽やかで、その姿はまるで雑誌から抜け出してきたかのようだ。
「舞……?」
蓮兄が、少し驚いたようにその名を呼ぶ。初めて聞く名前だった。でも──。この人どこかで見た事があるような。記憶を辿るけれど、答えはでなかった。
それよりも蓮兄の表情が気になって、胸の奥がふっと冷えた気がした。
「日本に帰ってたの?なんだ、言ってくれればよかったのに、蓮」
彼女は迷いなく近づいてきて、すっと蓮兄の腕に触れる。その仕草が自然で、見慣れたような手つきだった。私はその隣で、完全に固まっていた。
どういう関係?恋人?元カノ?頭の中で言葉がぐるぐる回るけれど、喉の奥でそれらの言葉をぐっと押し込める。
「あ、ごめんなさい。……そちらは?」
彼女が私に気づき、にっこりと微笑む。その笑みは穏やかだったけれど、“値踏み”のような視線が混じっていた。
「……妹だ」
「こんにちは。咲です」
蓮兄がそう言ったのに、私はなぜかほっとするよりも、胸の奥がちくん傷んだ。
「え、妹さん?あなたがあの。やっぱりかわいい。彼女さんかと思っちゃった」
あの、ってなんだろう。思わず顔が歪む。
やんわりとした口調の中に、どこか私を試すような響きがあった。私の全部を一瞬で見抜いたような目をしていた。
「舞、つれが探してるみたいだぞ」
「あ、いけない」
舞さんは軽く髪を払って、蓮兄の顔を覗き込むようにして言った。
「また連絡していい?話したいこと、あるの」
「ああ……。分かった」
「よかった。……じゃあ、またね。咲さんも」
くるりと踵を返して歩き去っていく。香水の甘い香りだけが、その場にふんわりと残っていた。
「……舞さん、綺麗な人だね」
そう言った自分の声が、少しだけ上擦っている気がして、自分で嫌になった。どういう関係なの、と聞いてしまおうか悩む前に、蓮兄が答えた。
「……昔の、ただの知り合いだ」
それだけ。何も知らない私には、それだけで十分だった。
何を話したくて連絡をとるのか、なぜ蓮兄のことをあんな風に見つめていたのか。
考え出すと、胸の中がそわそわとして落ち着かない。
「咲?」
「……ん、ううん。なんでもないよ」
大丈夫。私は“妹”なんだから。
でも、胸の奥に沈んだ小石は、しばらく波紋を広げ続けていた。
***
帰りの車の中は、珍しく音楽もかかっていなかった。
蓮兄は黙ってハンドルを握っていて。私は助手席で夜景を眺めていた。今日は疲れてしまったので、夕食はお惣菜を買った。でもお昼たくさん食べちゃったから、正直食べる気しないな、なんて思う。
「ケーキも買うか?」って聞かれたから、「太っちゃうからいい」って答えた。なんだか本当に、胸がいっぱいいっぱいだった。
── え、妹さん?あなたがあの。
舞さんのあの言葉が妙に引っかかっていた。蓮兄、私の事他の人に話してたんだ。でもどんな風に言ってたんだろう。YUNOとして配信しているのも、そうだけれど。
私は蓮兄の事、知らない事でいっぱいだ。
今日はもう、情緒がジェットコースターみたいだった。勝手に浮かれて、悩んで、傷ついて。一体私は何をやっているのだろう。
「咲」
名を呼ばれて、びくっとする。
「今日は……楽しかったか?」
静かな声だった。普段の蓮兄と変わらないはずなのに、なぜか胸が詰まりそうになる。
「……うん。すごく楽しかった。ありがとう、蓮兄ちゃん」
半分本当で、半分嘘。
蓮兄は柔らかい微笑みを浮かべていた。
「お兄ちゃんの誕生日は私が奢るね」
「別にそんなのはいい」
「プレゼントだって好きなの選んでもらうんだから。今から何欲しいか考えててね」
「……あぁ。分かった」
この時が終わるのが嫌で。同時に。早く終わって欲しかった。
***
夜、ベッドに寝転んで、ぼうっと天井を見上げていた。手に握っていたネックレスを、つまんで揺らす。オパールが切な気に輝いて見えた。
スマホでYUNOのアーカイブを聴く。確かこの回だ。
『月の光は、誰かの孤独をそっと照らしてくれる。君の夜も、静かで、あたたかくありますように』
それだけのセリフに、涙が溢れた。
だって、この声は、蓮兄ちゃんだから──。
嬉しかった。楽しかった。幸せだった。
ネックレスをかけてくれた時も。
「綺麗だ」って言ってくれた事も。
本当に、なんで気づいちゃったんだろう。今までずっと気づかないふりしてきたのに。
だけれど──。今日でこの気持ちはおしまい。
私は、蓮に恋なんてしちゃだめだ。
お母さんが、やっと手にした幸せを壊すなんて、絶対に許されない。それに彼には舞さんみたいな人が似合う。
私はただの、妹だから。
***
「おはよー!」
「……おはよう」
鮭をグリルに入れながら、元気よく挨拶をする。すると蓮兄は驚いた顔をしていた。
「今日、当番俺だろ」
「そうだけど。昨日のお礼。それにいつもより早く目が覚めちゃったから」
笑ってごまかすように言うと、蓮兄はじっと私を見た。無表情。だけど、なんとなく言いたいことを飲み込んでるような顔だった。
「そうか。……なら、お願いする」
「うん!」
いつものように、静かに言ってコーヒーメーカーのスイッチを押す。キッチンにポコポコと抽出音が響く。蓮兄はシンクの前の立って洗い物をし始めた。
「あ、ありがとう」
「あぁ。咲」
「ん?なに?」
「……昨日のネックレス、気に入ったか?」
視線はシンクに向けられたままで、ぼそっと言われた。
「え、あ、うん。すっごく!ありがとう」
「……つけてないんだな」
いつもより低い声だった。なぜだか喉の奥がぎゅっと締め付けられる。
「うん。大切な物だから。無くしたりしたら嫌だし。ここ1番の、デートの時とかにつけて行くよ」
言っていて空々しかった。1番好きな相手が横にいるのに。他の人とデートだなんて。でも勘違いしちゃいけないから。こう答えるのが、正解だろう。
すると蓮兄の手が、一瞬止まったのが分かった。
「……デート、ね。……そうか」
ぽつりと、低く呟く。その声には、いつもの静けさではない皮肉めいた色があった。唇の端が微かに上がっている。
「あ、そんな相手いないくせに、って思ったでしょ」
「……いいや。咲」
洗い物を終えて手を拭くと、彼はこちらに手を差し出してきた。
「スマホ、ちょっと貸してくれないか」
「スマホ?」
「昨日、中華料理屋で置き忘れただろう?」
「あ、うん。あの時は焦っちゃってごめんね」
昨日のランチの際、テーブルに置きっぱなしにしてしまい。お店を出てしばらくして気づいたから、すぐ戻って取りに行った。
「俺のスマホ新しくしたから。データー引き継いだけど、アプリの設定昔とそのままか確認したい」
「え?……あぁ」
18歳の時、携帯の機種変をする際、OSを蓮兄と同じにした。その時設定がいまいちわからなかったから、全部蓮兄に最初やってもらった気がする。その際、互いの携帯を探すアプリの連結も行っていた。
車にスマホを置き忘れた時に、1回使ってもらっただけで。今そのアプリが入ってるのかさえも分からない。
パスコードを入れて、携帯を蓮兄に手渡す。なんか変なアプリとかは入れてないけれど。ちょっと気恥ずかしかった。
「どうぞ」
「あぁ。……今再連携した。これでもう無くしても焦らないな」
「うん、ありがとう」
スマホを受け取って、アプリの画面を眺める。
「位置情報、切らないようにな」
「あ……うん」
彼は柔らかく微笑んで顔を傾けた。思わず、その顔に見惚れてしまう。
「お互い、何かあったときすぐ探せるようにしといた方がいい」
それは至極当然の事で。でも胸の中にふっと広がった違和感を拭いきれなかった。
「……分かった。気をつけるね」
目を細めて、じっとこちらを見られた。なんだか圧を感じて、グリルの中の鮭を覗き込む。
そっか、今まで全然意識してなかったけど。これお互いの位置が、いつでも分かるってことなんだ。じゃぁ蓮兄の帰り遅い時とか、今どこら辺か分かるのか。あ、でも。
その位置が万が一ホテルだったりしたら──。やめよう。探して欲しいって言われた時だけ使おう。
***
「……どこもやっぱり高いな」
ため息混じりに呟いた声が、自分でも驚くほど疲れていた。
仕事の昼休み、食堂の片隅でひとり、スマホをスクロールする。「物件探し」は、ここ最近の昼休みの習慣になりつつあった。
セキュリティが甘いと不安だし、浴室乾燥機がないと雨の日は洗濯物が大変。駅から遠いと通勤が地獄。
けれど、希望をひとつ増やすごとに、家賃は跳ね上がっていく。今の自分の給料で、これを1人で払えるのか。いや、払えない。それはもう、とっくに分かっていることだった。
当たり前な話。今の環境ってすごく恵まれている。
思わず机に突っ伏す。あの家を出なきゃいけない、って思ってるくせに。なのに、現実を突きつけられると、足がすくむ。きっと、まだ覚悟ができていない。自分でもあまちゃんだなって思う。
不意にちょっと視界が歪んだ気がした。この頃、寒暖差も激しいから、体、疲れちゃってるのかな。
「あれ、お疲れ気味?咲さん」
そのとき、不意に誰かに覗き込まれた。顔を上げると、そこにはトレイを持った川村圭吾君がいた。
「あ、圭吾君。今から休憩?」
「うん、業務押しちゃって。……隣いいかな?」
「うん、どうぞ」
気遣うような声色とともに、彼はにこりと笑って私の隣に腰を下ろした。今思っても、あの高校時代の“川村君”と同一人物なのが信じがたい。ダイエットも含めて相当努力したんだろうな。
「何か悩み事?」
「え?あぁ。ちょっと部屋探してて」
スマホの画面を伏せながら、苦笑いを浮かべる。すると圭吾くんが、なぜか納得したように頷いた。
「あぁ、今実家暮らしだっけ」
あれ、圭吾君にそんなこと話したっけ──。少し違和感を覚えつつも、会話を続けた。
「1人暮らししたいって思ってるんだね」
「うん。今両親転勤でお兄ちゃんと2人暮らしなんだけどね。色々甘えちゃうから、自立しないとなって思って」
「お兄さんと、……2人?」
その瞬間、圭吾くんの表情がかすかに変わる。口元が少し歪んで、目の奥が曇ったような気がした。
「うん。ずっと海外に住んでたんだけど。3月に帰国したの」
「……へー。咲さん初めての部屋探しでしょう?僕でよければ、助けになるよ」
「うん?ありがとう」
すぐ爽やかに微笑んだ彼に、私は少し安心して笑い返した。見目の良さと愛嬌で、彼はすでに社内でも女性社員からの注目を集めている存在だった。私に対しても、いつもまっすぐで。いい人だなと感じていた。
「早速だけど。明日の夜とかどう?」
「……明日?」
彼の言葉に、一瞬、胸がざわついた。
明日は、金曜日。YUNOの配信がある日だ。
週に1度の癒しの時間。ここ1年、どんなに忙しくても耳を傾けてきた。
けれど、いまは──。あの声の主が誰なのか、知ってしまっている。
もう、素直に聴けない。
聴くたびに、心が軋む。苦しくなる。
「うん。お願いしようかな」
明るく答えたけれども、少し声が震えてしまっていた。
だけど、それでも前に進まなきゃと思った。
「本当?あは、よかった。近くに美味しい居酒屋見つけたんだ。ちょっと隠れ家的で雰囲気もいいから、気に入ってもらえると思う」
「うん、じゃぁそこで」
私は笑って頷いたけれど、心のどこかに小さな棘が刺さっていた。
明日、YUNOの声を聞かないことが、何かを終わらせる一歩になるなら。これは正解だ。
そう、思いたかった。
突然届いた声に、2人して振り返る。その先には、長い髪を緩く巻いた女の人が立っていた。すらりと伸びた手足に、ぴたりとフィットする黒のワンピース。ヒールを履いた足元も軽やかで、その姿はまるで雑誌から抜け出してきたかのようだ。
「舞……?」
蓮兄が、少し驚いたようにその名を呼ぶ。初めて聞く名前だった。でも──。この人どこかで見た事があるような。記憶を辿るけれど、答えはでなかった。
それよりも蓮兄の表情が気になって、胸の奥がふっと冷えた気がした。
「日本に帰ってたの?なんだ、言ってくれればよかったのに、蓮」
彼女は迷いなく近づいてきて、すっと蓮兄の腕に触れる。その仕草が自然で、見慣れたような手つきだった。私はその隣で、完全に固まっていた。
どういう関係?恋人?元カノ?頭の中で言葉がぐるぐる回るけれど、喉の奥でそれらの言葉をぐっと押し込める。
「あ、ごめんなさい。……そちらは?」
彼女が私に気づき、にっこりと微笑む。その笑みは穏やかだったけれど、“値踏み”のような視線が混じっていた。
「……妹だ」
「こんにちは。咲です」
蓮兄がそう言ったのに、私はなぜかほっとするよりも、胸の奥がちくん傷んだ。
「え、妹さん?あなたがあの。やっぱりかわいい。彼女さんかと思っちゃった」
あの、ってなんだろう。思わず顔が歪む。
やんわりとした口調の中に、どこか私を試すような響きがあった。私の全部を一瞬で見抜いたような目をしていた。
「舞、つれが探してるみたいだぞ」
「あ、いけない」
舞さんは軽く髪を払って、蓮兄の顔を覗き込むようにして言った。
「また連絡していい?話したいこと、あるの」
「ああ……。分かった」
「よかった。……じゃあ、またね。咲さんも」
くるりと踵を返して歩き去っていく。香水の甘い香りだけが、その場にふんわりと残っていた。
「……舞さん、綺麗な人だね」
そう言った自分の声が、少しだけ上擦っている気がして、自分で嫌になった。どういう関係なの、と聞いてしまおうか悩む前に、蓮兄が答えた。
「……昔の、ただの知り合いだ」
それだけ。何も知らない私には、それだけで十分だった。
何を話したくて連絡をとるのか、なぜ蓮兄のことをあんな風に見つめていたのか。
考え出すと、胸の中がそわそわとして落ち着かない。
「咲?」
「……ん、ううん。なんでもないよ」
大丈夫。私は“妹”なんだから。
でも、胸の奥に沈んだ小石は、しばらく波紋を広げ続けていた。
***
帰りの車の中は、珍しく音楽もかかっていなかった。
蓮兄は黙ってハンドルを握っていて。私は助手席で夜景を眺めていた。今日は疲れてしまったので、夕食はお惣菜を買った。でもお昼たくさん食べちゃったから、正直食べる気しないな、なんて思う。
「ケーキも買うか?」って聞かれたから、「太っちゃうからいい」って答えた。なんだか本当に、胸がいっぱいいっぱいだった。
── え、妹さん?あなたがあの。
舞さんのあの言葉が妙に引っかかっていた。蓮兄、私の事他の人に話してたんだ。でもどんな風に言ってたんだろう。YUNOとして配信しているのも、そうだけれど。
私は蓮兄の事、知らない事でいっぱいだ。
今日はもう、情緒がジェットコースターみたいだった。勝手に浮かれて、悩んで、傷ついて。一体私は何をやっているのだろう。
「咲」
名を呼ばれて、びくっとする。
「今日は……楽しかったか?」
静かな声だった。普段の蓮兄と変わらないはずなのに、なぜか胸が詰まりそうになる。
「……うん。すごく楽しかった。ありがとう、蓮兄ちゃん」
半分本当で、半分嘘。
蓮兄は柔らかい微笑みを浮かべていた。
「お兄ちゃんの誕生日は私が奢るね」
「別にそんなのはいい」
「プレゼントだって好きなの選んでもらうんだから。今から何欲しいか考えててね」
「……あぁ。分かった」
この時が終わるのが嫌で。同時に。早く終わって欲しかった。
***
夜、ベッドに寝転んで、ぼうっと天井を見上げていた。手に握っていたネックレスを、つまんで揺らす。オパールが切な気に輝いて見えた。
スマホでYUNOのアーカイブを聴く。確かこの回だ。
『月の光は、誰かの孤独をそっと照らしてくれる。君の夜も、静かで、あたたかくありますように』
それだけのセリフに、涙が溢れた。
だって、この声は、蓮兄ちゃんだから──。
嬉しかった。楽しかった。幸せだった。
ネックレスをかけてくれた時も。
「綺麗だ」って言ってくれた事も。
本当に、なんで気づいちゃったんだろう。今までずっと気づかないふりしてきたのに。
だけれど──。今日でこの気持ちはおしまい。
私は、蓮に恋なんてしちゃだめだ。
お母さんが、やっと手にした幸せを壊すなんて、絶対に許されない。それに彼には舞さんみたいな人が似合う。
私はただの、妹だから。
***
「おはよー!」
「……おはよう」
鮭をグリルに入れながら、元気よく挨拶をする。すると蓮兄は驚いた顔をしていた。
「今日、当番俺だろ」
「そうだけど。昨日のお礼。それにいつもより早く目が覚めちゃったから」
笑ってごまかすように言うと、蓮兄はじっと私を見た。無表情。だけど、なんとなく言いたいことを飲み込んでるような顔だった。
「そうか。……なら、お願いする」
「うん!」
いつものように、静かに言ってコーヒーメーカーのスイッチを押す。キッチンにポコポコと抽出音が響く。蓮兄はシンクの前の立って洗い物をし始めた。
「あ、ありがとう」
「あぁ。咲」
「ん?なに?」
「……昨日のネックレス、気に入ったか?」
視線はシンクに向けられたままで、ぼそっと言われた。
「え、あ、うん。すっごく!ありがとう」
「……つけてないんだな」
いつもより低い声だった。なぜだか喉の奥がぎゅっと締め付けられる。
「うん。大切な物だから。無くしたりしたら嫌だし。ここ1番の、デートの時とかにつけて行くよ」
言っていて空々しかった。1番好きな相手が横にいるのに。他の人とデートだなんて。でも勘違いしちゃいけないから。こう答えるのが、正解だろう。
すると蓮兄の手が、一瞬止まったのが分かった。
「……デート、ね。……そうか」
ぽつりと、低く呟く。その声には、いつもの静けさではない皮肉めいた色があった。唇の端が微かに上がっている。
「あ、そんな相手いないくせに、って思ったでしょ」
「……いいや。咲」
洗い物を終えて手を拭くと、彼はこちらに手を差し出してきた。
「スマホ、ちょっと貸してくれないか」
「スマホ?」
「昨日、中華料理屋で置き忘れただろう?」
「あ、うん。あの時は焦っちゃってごめんね」
昨日のランチの際、テーブルに置きっぱなしにしてしまい。お店を出てしばらくして気づいたから、すぐ戻って取りに行った。
「俺のスマホ新しくしたから。データー引き継いだけど、アプリの設定昔とそのままか確認したい」
「え?……あぁ」
18歳の時、携帯の機種変をする際、OSを蓮兄と同じにした。その時設定がいまいちわからなかったから、全部蓮兄に最初やってもらった気がする。その際、互いの携帯を探すアプリの連結も行っていた。
車にスマホを置き忘れた時に、1回使ってもらっただけで。今そのアプリが入ってるのかさえも分からない。
パスコードを入れて、携帯を蓮兄に手渡す。なんか変なアプリとかは入れてないけれど。ちょっと気恥ずかしかった。
「どうぞ」
「あぁ。……今再連携した。これでもう無くしても焦らないな」
「うん、ありがとう」
スマホを受け取って、アプリの画面を眺める。
「位置情報、切らないようにな」
「あ……うん」
彼は柔らかく微笑んで顔を傾けた。思わず、その顔に見惚れてしまう。
「お互い、何かあったときすぐ探せるようにしといた方がいい」
それは至極当然の事で。でも胸の中にふっと広がった違和感を拭いきれなかった。
「……分かった。気をつけるね」
目を細めて、じっとこちらを見られた。なんだか圧を感じて、グリルの中の鮭を覗き込む。
そっか、今まで全然意識してなかったけど。これお互いの位置が、いつでも分かるってことなんだ。じゃぁ蓮兄の帰り遅い時とか、今どこら辺か分かるのか。あ、でも。
その位置が万が一ホテルだったりしたら──。やめよう。探して欲しいって言われた時だけ使おう。
***
「……どこもやっぱり高いな」
ため息混じりに呟いた声が、自分でも驚くほど疲れていた。
仕事の昼休み、食堂の片隅でひとり、スマホをスクロールする。「物件探し」は、ここ最近の昼休みの習慣になりつつあった。
セキュリティが甘いと不安だし、浴室乾燥機がないと雨の日は洗濯物が大変。駅から遠いと通勤が地獄。
けれど、希望をひとつ増やすごとに、家賃は跳ね上がっていく。今の自分の給料で、これを1人で払えるのか。いや、払えない。それはもう、とっくに分かっていることだった。
当たり前な話。今の環境ってすごく恵まれている。
思わず机に突っ伏す。あの家を出なきゃいけない、って思ってるくせに。なのに、現実を突きつけられると、足がすくむ。きっと、まだ覚悟ができていない。自分でもあまちゃんだなって思う。
不意にちょっと視界が歪んだ気がした。この頃、寒暖差も激しいから、体、疲れちゃってるのかな。
「あれ、お疲れ気味?咲さん」
そのとき、不意に誰かに覗き込まれた。顔を上げると、そこにはトレイを持った川村圭吾君がいた。
「あ、圭吾君。今から休憩?」
「うん、業務押しちゃって。……隣いいかな?」
「うん、どうぞ」
気遣うような声色とともに、彼はにこりと笑って私の隣に腰を下ろした。今思っても、あの高校時代の“川村君”と同一人物なのが信じがたい。ダイエットも含めて相当努力したんだろうな。
「何か悩み事?」
「え?あぁ。ちょっと部屋探してて」
スマホの画面を伏せながら、苦笑いを浮かべる。すると圭吾くんが、なぜか納得したように頷いた。
「あぁ、今実家暮らしだっけ」
あれ、圭吾君にそんなこと話したっけ──。少し違和感を覚えつつも、会話を続けた。
「1人暮らししたいって思ってるんだね」
「うん。今両親転勤でお兄ちゃんと2人暮らしなんだけどね。色々甘えちゃうから、自立しないとなって思って」
「お兄さんと、……2人?」
その瞬間、圭吾くんの表情がかすかに変わる。口元が少し歪んで、目の奥が曇ったような気がした。
「うん。ずっと海外に住んでたんだけど。3月に帰国したの」
「……へー。咲さん初めての部屋探しでしょう?僕でよければ、助けになるよ」
「うん?ありがとう」
すぐ爽やかに微笑んだ彼に、私は少し安心して笑い返した。見目の良さと愛嬌で、彼はすでに社内でも女性社員からの注目を集めている存在だった。私に対しても、いつもまっすぐで。いい人だなと感じていた。
「早速だけど。明日の夜とかどう?」
「……明日?」
彼の言葉に、一瞬、胸がざわついた。
明日は、金曜日。YUNOの配信がある日だ。
週に1度の癒しの時間。ここ1年、どんなに忙しくても耳を傾けてきた。
けれど、いまは──。あの声の主が誰なのか、知ってしまっている。
もう、素直に聴けない。
聴くたびに、心が軋む。苦しくなる。
「うん。お願いしようかな」
明るく答えたけれども、少し声が震えてしまっていた。
だけど、それでも前に進まなきゃと思った。
「本当?あは、よかった。近くに美味しい居酒屋見つけたんだ。ちょっと隠れ家的で雰囲気もいいから、気に入ってもらえると思う」
「うん、じゃぁそこで」
私は笑って頷いたけれど、心のどこかに小さな棘が刺さっていた。
明日、YUNOの声を聞かないことが、何かを終わらせる一歩になるなら。これは正解だ。
そう、思いたかった。
10
あなたにおすすめの小説
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~
cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。
同棲はかれこれもう7年目。
お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。
合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。
焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。
何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。
美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。
私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな?
そしてわたしの30歳の誕生日。
「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」
「なに言ってるの?」
優しかったはずの隼人が豹変。
「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」
彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。
「絶対に逃がさないよ?」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる