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第2章
紳士?いいえずるい男です
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由紀はホテルのバスルームで身なりを整えていた。酔いはほとんど抜けていたが、昨夜の記憶はところどころ曖昧で、あまり直視したくない。本当に、色々やらかしまくってしまった気がする。
しかもネットでは結婚、リアルでは婚約だなんて──。どちらも偽装だけど。とんでもない事になってしまった。
ため息をつきながら、化粧ポーチを手を取ると。ふと目に入ったゴミ箱の中身に、彼女の動きが止まった。
ベージュのストッキング。
丸められて、捨てられている。まぎれもなく、昨日履いていたストッキングだ。
「え……?」
思わず顔が真っ赤になる。まさか。自分で脱いだのか?いや、そんな記憶はまるでない。昨夜の記憶をいくら巻き戻しても、ベッドに倒れ込んでから後はおぼろげで。
「私、酔ってるうちに……ストッキング、脱いで、捨てた……?」
洗面台の鏡に映る自分の顔が、信じられないくらい赤くなっている。おそらく、介抱してくれていた亮には脱ぐ所を見られただろう。
あー!もう本当、何やってんの私──。
思わず、声にならない声をバスタオルに押し付けるように呟いた。
***
翌日、由紀は朝一番の全体ミーティングで淡々と案件報告をこなしていた。
「……こちらは3月末の引き渡しに間に合うよう、調整を進めています。売買部には、後ほど補足資料を共有します」
無駄のない言葉、整った声のトーン、背筋の通った姿勢。社内にいる全員が「あの藤木さんがいれば大丈夫」と思わせる、まさに“できる女”。だが──。
昨日、私、あのホテルで土下座して……。しかもストッキング──。スーツの下で汗がにじむのを、由紀は必死で抑えていた。
つい昨日、部下であり配信者仲間の亮と、ゲーム内結婚、さらには偽装婚約まで話が進んだその本人と、今、普通に社内で顔を合わせなければいけない現実。
こっちはまだ頭が追いついてないのに。
ミーティングが終わると、由紀はさっさと自席に戻り、パソコン画面を凝視するふりをして、内心の動揺を必死に押し殺す。業務に集中していくらか落ち着きかけたころ。
「藤木さん、お疲れ様です」
「……お疲れ様です、高橋君」
気づけば亮が傍に立っていた。
今日も変わらず、爽やかな笑顔を浮かべて。
「さっきの資料で分からない箇所があって。……ここなんですけど」
「はい、どこですか」
屈まれ近寄られると、昨日の事が過ぎる。内心頭から火が出そうだった。けれども無表情で由紀は差し出された資料を見る目で追い、質問に淡々と答える。
「……なるほど、分かりました。それとあと1つなんですけど」
「……はい?」
亮が由紀の耳元に、口を寄せた。小さく呟かれる。
「……会社でも、由紀さんって呼んでいいですか?」
「だめです」
甘く囁かれた提案に、由紀の眉が一瞬動いた。それでも口を真横に結んで、間髪入れずに答える。
しかし、その耳元が赤いのを見て、亮はほくそ笑んだ。
「……それは残念です。じゃ、失礼しました」
「はい」
亮が去った後、資料を机にとんとんと打ちつけて、角を整える。すると隣の席の佳奈と目があった。
「藤木先輩って。本当にクールですよね」
「……はい?」
「私、高橋さんが隣にいるだけで、多分めっちゃテンパっちゃって、あがっちゃうなって。さすがです」
訳のわからない事で尊敬された。いいや、違う。
内心テンパっちゃってるし、上がってる。
さっきの本当なんだったんだろう。完全にからかわれている。資料に頭を埋めたくなるのを、必死で我慢していた。
***
その夜──。食事を終えたところで、由紀の携帯が震えた。画面には「高橋亮」の名前。一瞬戸惑ったが、通話ボタンを押していた。
いつもこの時間帯は「エデンフィールド」でシンとゆきんことして話はしていた。しかし、こうして彼から電話が来るには初めてだ。
「……もしもし」
「こんばんは、由紀さん。ごめんなさい、こんな時間に」
あいかわらずの軽やかな声。それがどうしようもなく腹立たしくて、けれど胸の奥がきゅっと痛む。
「いえ、どうかしました?」
「週末のご実家にご挨拶に行くことと、エデンフィールド内での結婚式のこと打ち合わせしたくて」
「……はい」
偽の事なのに、本当に婚姻するようでほのかに体温が上がる。
「それにさっき、会社で。もしかして、ちょっと、悪ノリしすぎたかなと」
悪ノリしたっていう自覚はあったようだ。
耳元で「由紀さんって呼んでいいですか」なんて言われたあの瞬間、心臓が止まりかけた。
「……あれは、ちょっと反則です」
「やっぱり……ごめんなさい。藤木さんモードの由紀さんが、あんまりにもカッコよくて。つい、揺さぶりたくなったっていうか」
亮の声が、申し訳なさと、それでもどこか嬉しそうな響きを含んでいた。案外サドっけがあるのかもしれない。
「職場では、ああいうの、なしですよ?」
「了解です」
「亮君、あの……ひとつ、聞いてもいいですか」
「うん?」
由紀には、どうしても確かめたい事があった。
「……あの、昨日の事で。バスルームのゴミ箱に、私のストッキング、あって」
通話の向こうで、音が止まった気がした。
「……あれって、酔って私が……」
「あぁ。あれ、俺が脱がせました。ごめんなさい」
「えっ……」
間髪入れずに言われたその言葉に、息を呑む。
「伝線してたし、ちょっとむくんでたっぽかったから、履いたままだとつらいかなって……。あと、気持ち悪そうだったし」
亮は申し訳なさそうに言った。言葉が出てこない。記憶が曖昧なせいで、余計に恥ずかしい。
「もちろん、ちゃんと見ないようには。……ほんとに、それだけで」
「……そうでしたか。だったら、言ってくれたらよかったのに。朝、何も……」
「うん。でも、言ったら。きっと、由紀さんが気まずくなるかなって思って」
その一言に、由紀の心の奥がきゅうっとなった。ぐうの音もでない。あの場で言われてたらきっと実際壁に頭を打ちつけていた。
優しすぎる。優しさの裏に、ちょっとずるいくらいの思いやりがある。
「ほんと、亮君、ずるいです」
「ありがとうございます。ほめ言葉として受け取っておきます」
どこまでもポジティブで、たくましいこの年下の彼が、今、彼女の世界にずかずかと入り込んでこようとしている。これまで何重にも、防衛線を張っていたはずなのに。
「……ほんと、困るな」
ため息混じりの呟きは、通話の向こうに届いたかどうか分からなかった。
だが、亮の返事はこうだった。
「はい、困らせたぶん、いっぱい安心させますから。大丈夫ですよ、由紀さん」
その声は冗談のようでいて、本当に真剣だった。
何が大丈夫なのか分からないけれど。
ほっと、息が漏れた。
しかもネットでは結婚、リアルでは婚約だなんて──。どちらも偽装だけど。とんでもない事になってしまった。
ため息をつきながら、化粧ポーチを手を取ると。ふと目に入ったゴミ箱の中身に、彼女の動きが止まった。
ベージュのストッキング。
丸められて、捨てられている。まぎれもなく、昨日履いていたストッキングだ。
「え……?」
思わず顔が真っ赤になる。まさか。自分で脱いだのか?いや、そんな記憶はまるでない。昨夜の記憶をいくら巻き戻しても、ベッドに倒れ込んでから後はおぼろげで。
「私、酔ってるうちに……ストッキング、脱いで、捨てた……?」
洗面台の鏡に映る自分の顔が、信じられないくらい赤くなっている。おそらく、介抱してくれていた亮には脱ぐ所を見られただろう。
あー!もう本当、何やってんの私──。
思わず、声にならない声をバスタオルに押し付けるように呟いた。
***
翌日、由紀は朝一番の全体ミーティングで淡々と案件報告をこなしていた。
「……こちらは3月末の引き渡しに間に合うよう、調整を進めています。売買部には、後ほど補足資料を共有します」
無駄のない言葉、整った声のトーン、背筋の通った姿勢。社内にいる全員が「あの藤木さんがいれば大丈夫」と思わせる、まさに“できる女”。だが──。
昨日、私、あのホテルで土下座して……。しかもストッキング──。スーツの下で汗がにじむのを、由紀は必死で抑えていた。
つい昨日、部下であり配信者仲間の亮と、ゲーム内結婚、さらには偽装婚約まで話が進んだその本人と、今、普通に社内で顔を合わせなければいけない現実。
こっちはまだ頭が追いついてないのに。
ミーティングが終わると、由紀はさっさと自席に戻り、パソコン画面を凝視するふりをして、内心の動揺を必死に押し殺す。業務に集中していくらか落ち着きかけたころ。
「藤木さん、お疲れ様です」
「……お疲れ様です、高橋君」
気づけば亮が傍に立っていた。
今日も変わらず、爽やかな笑顔を浮かべて。
「さっきの資料で分からない箇所があって。……ここなんですけど」
「はい、どこですか」
屈まれ近寄られると、昨日の事が過ぎる。内心頭から火が出そうだった。けれども無表情で由紀は差し出された資料を見る目で追い、質問に淡々と答える。
「……なるほど、分かりました。それとあと1つなんですけど」
「……はい?」
亮が由紀の耳元に、口を寄せた。小さく呟かれる。
「……会社でも、由紀さんって呼んでいいですか?」
「だめです」
甘く囁かれた提案に、由紀の眉が一瞬動いた。それでも口を真横に結んで、間髪入れずに答える。
しかし、その耳元が赤いのを見て、亮はほくそ笑んだ。
「……それは残念です。じゃ、失礼しました」
「はい」
亮が去った後、資料を机にとんとんと打ちつけて、角を整える。すると隣の席の佳奈と目があった。
「藤木先輩って。本当にクールですよね」
「……はい?」
「私、高橋さんが隣にいるだけで、多分めっちゃテンパっちゃって、あがっちゃうなって。さすがです」
訳のわからない事で尊敬された。いいや、違う。
内心テンパっちゃってるし、上がってる。
さっきの本当なんだったんだろう。完全にからかわれている。資料に頭を埋めたくなるのを、必死で我慢していた。
***
その夜──。食事を終えたところで、由紀の携帯が震えた。画面には「高橋亮」の名前。一瞬戸惑ったが、通話ボタンを押していた。
いつもこの時間帯は「エデンフィールド」でシンとゆきんことして話はしていた。しかし、こうして彼から電話が来るには初めてだ。
「……もしもし」
「こんばんは、由紀さん。ごめんなさい、こんな時間に」
あいかわらずの軽やかな声。それがどうしようもなく腹立たしくて、けれど胸の奥がきゅっと痛む。
「いえ、どうかしました?」
「週末のご実家にご挨拶に行くことと、エデンフィールド内での結婚式のこと打ち合わせしたくて」
「……はい」
偽の事なのに、本当に婚姻するようでほのかに体温が上がる。
「それにさっき、会社で。もしかして、ちょっと、悪ノリしすぎたかなと」
悪ノリしたっていう自覚はあったようだ。
耳元で「由紀さんって呼んでいいですか」なんて言われたあの瞬間、心臓が止まりかけた。
「……あれは、ちょっと反則です」
「やっぱり……ごめんなさい。藤木さんモードの由紀さんが、あんまりにもカッコよくて。つい、揺さぶりたくなったっていうか」
亮の声が、申し訳なさと、それでもどこか嬉しそうな響きを含んでいた。案外サドっけがあるのかもしれない。
「職場では、ああいうの、なしですよ?」
「了解です」
「亮君、あの……ひとつ、聞いてもいいですか」
「うん?」
由紀には、どうしても確かめたい事があった。
「……あの、昨日の事で。バスルームのゴミ箱に、私のストッキング、あって」
通話の向こうで、音が止まった気がした。
「……あれって、酔って私が……」
「あぁ。あれ、俺が脱がせました。ごめんなさい」
「えっ……」
間髪入れずに言われたその言葉に、息を呑む。
「伝線してたし、ちょっとむくんでたっぽかったから、履いたままだとつらいかなって……。あと、気持ち悪そうだったし」
亮は申し訳なさそうに言った。言葉が出てこない。記憶が曖昧なせいで、余計に恥ずかしい。
「もちろん、ちゃんと見ないようには。……ほんとに、それだけで」
「……そうでしたか。だったら、言ってくれたらよかったのに。朝、何も……」
「うん。でも、言ったら。きっと、由紀さんが気まずくなるかなって思って」
その一言に、由紀の心の奥がきゅうっとなった。ぐうの音もでない。あの場で言われてたらきっと実際壁に頭を打ちつけていた。
優しすぎる。優しさの裏に、ちょっとずるいくらいの思いやりがある。
「ほんと、亮君、ずるいです」
「ありがとうございます。ほめ言葉として受け取っておきます」
どこまでもポジティブで、たくましいこの年下の彼が、今、彼女の世界にずかずかと入り込んでこようとしている。これまで何重にも、防衛線を張っていたはずなのに。
「……ほんと、困るな」
ため息混じりの呟きは、通話の向こうに届いたかどうか分からなかった。
だが、亮の返事はこうだった。
「はい、困らせたぶん、いっぱい安心させますから。大丈夫ですよ、由紀さん」
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