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 部室からグラウンドを挟んで反対側に、投球練習場、つまりブルペンがあった。
 緑色のネットで囲まれたブルペンのわきで、二年生投手酒井優斗の細身の身体が、短いダッシュを繰り返している。
 黒森高校の野球部では、監督の方針でウォーミングアップの内容は各個人に任されている。全力ダッシュは必ずしておくことなど、いくつか条件はあるが、基本的には自分が必要だと思う運動をすればいい。身体は一人一人違うし、状態は日によって変わるからだという。このやり方に酒井は驚いた。中学までは全員一緒に同じメニューをするのが当たり前だったからだ。投手としての練習も、球速だけでなく、回転数や回転軸が頻繁にチェックされるなど、目新しい内容だった。
 ――明日は決勝……。すげえよな……。酒井は思った。 
 中学のとき、ぼくは控えの投手で、大会でなげることはほとんどなかった。今だって二番手だけど、球速は中学の時より十キロ以上上がったし(それでも130でないけど)、相手が左投手に弱いからという理由で先発した二回戦と三回戦は、結局完投したんだ。
 この高校に来てよかったよ……。

 酒井はゆっくりと歩いて、ダッシュの繰り返しで上がった息を整えた。
「あ、石川さん。あしたは先発ですね!」
 部室から歩いてきた石川さんに声をかけた。さっきのミーティングで、監督から発表があったのだ。
「うん。がんばる。昨日完投したけど、大丈夫。お前のおかげで、そこまでかなり楽できたからね。まあ、リリーフ頼むかもしれないけど」
「――っ!……はい!」
「なに、今の間」
「いやあ、プレッシャーがハンパないっす」
 深く日に焼けた顔が、あきれたような表情を浮かべ……
「いまさら、なに言ってんの。これまでだって投げてたじゃん」
「そうなんですけどね……」
 そうは言っても、三年生の最後の夏。一つ勝てば甲子園。その土壇場で二年生が試合をぶちこわしたらどうしようとか……。考えただけでぞっとする。けど、たしかに「その時はその時」なんだ。いったんマウンドに上がったら、もう逃げるところなんてない。結局いつも居なおってる。それはそれだ。とにかく、ぼくが言いたいのは――。
「絶対、甲子園行きましょう!」
「ああ。俺は、あいつを甲子園に連れて行きたいんだ」
「はい……」
 荷物を置いた石川さんがランニングを始めた。
 石川さんは身長こそぼくより低いけど、がっちりしている。その背中が、小さくなる。
 石川さんが「あいつ」と言うのは、いつも文人さんのことだ。
 ぼくなんかとは別次元のピッチングをしていた文人さんが、今は裏方。
 秋の大会も春の大会も初戦で負けたこのチームが、ここまで勝ち上がるなんて、たしかに文人さんの情報なしには考えられなかった。
 でも、マウンドでがんばってきたのは、石川さんだ。
 もし、ぼくがマウンドに上がることになったら、ぼくが石川さんを甲子園に連れて行くんだ!
 たとえ、左肩がぶっ壊れたって!
 ――まあできたら、明日はマウンドに立ちたくないんだけどね……。

 文人が、どうにかきれいになった部室を出る。
 ――グラウンドのあちこちで、みんなが思い思いに身体をほぐしていた。グラウンドを取り囲む道路を歩きながら、その様子を眺めた。野球部のウォーミングアップとしては珍しいやり方だ。選手に十分な知識と向上心があるのが前提だけど、いい方法だと思う。あの監督は選手としてはなんの実績もないようだが、指導者としてよく勉強している。いいと思えばなんでも取り入れるし、俺みたいな若造の意見だって聞く。データ班としてはやりがいのある監督だ。どこか小物っぽい雰囲気があるけど、一度甲子園に行ったら監督らしい監督になるのかもしれない。
 ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
 右手にはタバコの箱が触れ、左手には脅迫状の紙くずが触れた。よくわからないことが立て続けに起こっている。でも明日は決勝なんだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。もちろんグラウンドでがんばるのは選手たちだが、俺だって自分の働きが形になるのを見たいんだ。

 暑い。
 空を見上げた。良く晴れていた。
 みんなが俺のイメージ通りに動いてくれたら、明日は必ず勝てる。
 ――と、バックネットに違和感を感じた。
 10メートルは優にあるバックネットの一番上に、人がいるのだ。それは白い服に身をつつんだ小さな女の子で、バックネットを吊るフレームに軽業師のように腰掛け、なにやら楽しげに足をばたばたさせて緑色の網をゆらしていた。
 唖然とした。馬鹿げたことが多すぎる。
 たぶん見間違えだ。そうであってほしい……。
 目を閉じて深呼吸をした。
 そして目を開け……そっとバックネットを見上げ……あっけにとられた。
 ――鳩だと?
 どこにでもいる灰色の鳩が一羽、バックネットの上に止まっていた。ただ、それだけ。
 なんてこった。どうかしているのは俺のほうだ。鳩を人間と見間違えるなんて、聞いたこともない。ちょっと無理しすぎたか……。
 データ班の仕事って言うのは、きちんとやったら大変だ。次の対戦相手の試合を生で観察してデータシートに記録するが、パソコンへの入力は試合が終わった後だ。さらにビデオも確認しながら、傾向や特徴を炙り出していく。監督や選手たちに伝えるには、それを分かりやすくまとめなくてはならない。試合は二時間程度で終わるが、その分析には何倍もかかる。
 このところ、睡眠時間を削っていたのはたしかだ。
 まあ、県大会に関しては、やるべきことはすべてやった。あとは結果を見届けるだけ。
 だから俺が倒れたって、もはや大した問題じゃない……。鳩を人間と間違えるなんて自信がなくなるような出来事けど、寝不足だったらしようがない。そういうことにしよう。
 再び歩き出した俺は、今度はバックネットの下に気になる姿を認めた。練習の見学に人が集まってきていたが、その中に双眼鏡を構えるセーラー服があった。
 さっき逃げていった子だった。

 ――今度は逃がさん。
 グラウンドからいったん道路に出て、遠まわりして近づいた。グラウンドの選手たちに集中しているなら、気付かれないはずだ。
 三塁線と平行している道は上り坂で、本塁に近づくにつれ、だんだんグラウンドを見下ろす格好だ。坂の上にあるバックネット裏には、10人ほどのおじさんやおばさんが練習を眺めていたが、そのかたわら、スタンドの隅に、ぽつんと一人セーラー服がいた。
 今は手帳になにやら書き込んでいる。
 なんて書いてある……?
 ――そっと距離を詰めて背中越しに覗きこむ。
『石川――ウォーキングのバランスは自然』 
 やはりお目当ては石川……じゃねえな。さすがにこの内容はあやしすぎる。
 何者だ、この女。
 スタンドのコーナーにいるのは好都合。逃げ道を塞ぐようにような立ち位置から……
「こんにちは! いつも応援していただいて、ありがとうございます! ……熱心ですね!」
 明るく気さくな口調を心がけて、俺は言ったね。
 女がぎょっとして振り向く。うっとうしい前髪が両目を隠している。よくそれで双眼鏡がのぞけるな……。
 あきらかにうろたえた様子だったが、一瞬で開き直った。
 前髪のせいで目もとがよく見えないが、こっちを睨んでいるようだ……。
「な、なによ、鷹岡文人。どうしてこんなところにいるのよ? あなたの居場所はここじゃないはずよ!」
「はあ?」
 俺を知ってる? まあ、野球部に関心があるなら、知っててもおかしくはないか……。
「なんで投げないのかって言ってるの」
「いや、俺はヒジを痛めていて、去年の夏から投げてないよ」
「だからもう、治ってんじゃない!」
 おっさんとおばさんたちがざわついた。
 ――鷹岡?……鷹岡じゃん! 鷹岡文人だ。おお、本物だ。……鷹岡が投げられるって? ……明日投げるの? おお! 決勝まで隠してたのか。すげえ! 
「いやいやいやいや。そんなことありませんから! 無理です無理。ごめんなさい。この子、妄想激しくて……」
 頭をペコペコと下げ、笑顔でごまかしながら、
「おい、お前、ちょっとこっち来い」
 手首をつかんでスタンドの外へ強引に引っ張った。
 来た方向とは逆。道路を一塁側に向かって歩く。ちょうど人の姿がなかった。
「痛いわよ。離してよ」
「逃げない?」
「逃げない」
「本当?」
「たぶん……」
「ふざけるな」
 建物の日陰に入った。道路を挟んでグランドの反対側は山で、もう少しするとグラウンド全体に陰がのびて多少過ごしやすくなる。
 立ち止まって手を離す。
 身長は160くらいか。
 相変わらず挑戦的な態度でこちらを見上げている……。
「なんていうの? 名前」
「なんで教えないといけないのよ」
 面倒くさい女だ。
「そっちだけ名前を知ってるのは不公平だ」
「ふうん。意外と理屈っぽいのね。――奈美よ。水天宮奈美(すいてんぐうなみ)」
「すいてんぐう?」
 そういや、同じ学年にいたな。そのカッコイイ名字。誰かは知らなかったが。
「奈美って呼んでよ。名字、好きじゃないの」
「……名前負けするもんな」
 本人が地味すぎる。
「うるさいわね」
 グラウンドでは全体練習が始まっていた。キャッチボール。硬式球がグローブを叩く音が山に響いた。
「で、俺のヒジのことを何で知っている」
 自主的にトレーニングはしていたし、中学時代の知り合いとキャッチボールをすることはあるが、あくまで個人的なものだ。監督にも野球部の連中にもナイショ。
「身体の動きを見れば、わかるわよ。歩き方とか。何かに手を伸ばすときとか」
 当たり前みたいに奈美は言った。本当か? すげえな……。
 そういえば……さっき石川がどうとか書いてたな。
「石川はどうよ? 問題なさそうか?」
「問題ないわ。丈夫が取り得の平凡なピッチャーじゃない……」
 まあ、その通りなんだが、部外者に言われるとむかつくな。あと、この言い方だと石川の追っかけという線はやはりない。じゃあ、この女はいったい何やってんだという話だが……。
「……それより、酒井のほうが心配ね」
「なんだって!」
「たぶん、肩に違和感があるはずよ。まだ投げられるでしょうけど、無理しちゃうタイプだと危ないわよ。文人みたいに」
 そう言う奈美の表情は……相変わらず前髪でよくわからない。
 グラウンドに酒井の姿を探した。酒井がボールをグローブで受けていた。そして投手らしく、きちんとしたフォームで投げ返す。俺の目には問題なく見えるが……。
「あいつ、そんなことまったく何にも言ってないぞ」
「選手ってそういうもんでしょ。文人が痛めたときだって、そうだったんでしょ?」
「……さっきから、文人文人うるせえな」
「あら、名前で呼ばれるのは嫌だったかしら」
「そういう問題じゃねえよ」
「そもそもわたしが言ってるのは、なんで鷹岡文人は試合で投げないのかって話よ」
「この大会については、選手登録してないからね。明日は絶対に投げられない」
「だからなんで登録しなかったのよ」
 うーん。
 去年の夏、準決勝をなんとか投げきって、決勝も投げようとしたんだけど、もう誰が見たって投げるのは無理だった……。それで俺は、ただベンチに座って……。
 あんなに辛いことってなかったんだ……。
「去年、夏が終わって、六ヵ月間は投げるなって医者に言われた。そんな時、監督にデータ班をやってくれと話があった。選手を一年あきらめて、対戦相手のデータを取って分析する役割に専念してくれないかってね。
 試合に出ることを一年間やめて、基本的に練習もしないで、データ班なり、マネージャーなり、裏方の役目を引き受けるっていうのは、この高校だけの話じゃない。よくあるんだ。野球は選手だけじゃできない。黒森では、データ班は俺以外にも三人いて、みんなこの大会には登録されていない。
 要はそういうことだよ」
「もったいなさすぎるわ……」
 奈美は小さな声で、歯の間から声を押し出すように、言った。心の底からそう思っているみたいだった。
「……俺が、か?」
「他に何があるのよ……」
「俺はもったいないとは思わない。たしかに昨年、俺は投手としてこのチームに貢献したが、準優勝に終わって、俺は故障した。だが俺は今年、データ班として情報を収集し、作戦立案してチームを引っ張ったつもりだ。そして明日は決勝だ。一人も故障していない。そして明日は優勝して甲子園に行くんだ。
 悔やむことなどなにもない。このチームそのものが俺の作品なんだ」
「この情けないチームが、あの鷹岡文人の作品ですって?」
「はあ? 情けない、だと? どこがだよ」
 言っていいことと悪いことがあるぞ。
「情けないわよ。チーム打率は一割八部三厘。ベストエイトの中ではぶっちぎりで最低。四死球とスクイズと相手のエラーが主な得点源ね。四番打者にもバントさせるのはいいとして、ツーストライクからでも待てのサインが出る。よく見てればわかるのよ? そういうのは。……そして、相手の守備に弱いところがあれば、いやらしく、繰り返し、しつこく突く。あと、相手のスクイズはことごとく外す。ぜったいサイン盗んでるわね」
「ルールのなかでやってるんだ。盗まれるようなサインを出す方が悪い。
 秋の大会も、春の大会も初戦で負けて、チームは勝ちに飢えていた。俺は相手チームを徹底的に偵察し、勝てるプランを監督に提示する。だが、俺はベンチには入れないし、ルール上ベンチの外から指示はできない。ここまで試合を作ってきたのは監督と選手だ。俺は立派だと思うね」
「つまらない野球だわ。こんなチームが甲子園に行くべきじゃないわよ!」
「ふーん。……それで、お前はこれを書いたんだ……」
 俺は、左のポケットから例の脅迫状を取り出した。
 左手の上に、丸められた紙くず……。
「し、知らないわよ! そんなもの」
「さっき、奈美が書いているメモを見たぜ? これは奈美の字だ。それに、この紙って、そのメモを破ったものだろうが」
「わ、私のメモを見たの?」
「じっくり見させてもらった」
 本当は、ちょっとしか見てないけど。
 奈美は少しあごを上げて、俺を見た。やはり前髪で表情は分かりづらいが、頬が赤くなっている。ちょっとかわいい。――いやいや、こいつチームを脅迫したんだ。とんでもない女だぞ。
「だ、だって、こんなチームに、甲子園に行って欲しくないもの!」
「だからと言って脅迫状を書いていいことにはならない。奈美にとってはつまらない野球かもしれないが、それで試合に勝ってきたのは選手たちの努力があったからだ。俺たちにはたしかに目を見張るような才能はないが、みんなのがんばりまで否定するのか!」
「――ごめんなさい……」
 奈美はうつむいて、小さな声で言った。なんだ、意外と素直じゃないか。
「……双眼鏡をのぞいていて、たまたま、自販機の前で吉井がタバコを拾うのを見たのよ。それで部室に入って、しばらくしたらあんたが消火器持って飛び込んでくじゃない。まあ、いろいろ想像するわよね。それで、つい魔が差して……あんなこと、すべきじゃなかったわ……」
「魔が差した……か」
 みんな魔が差しすぎだな……。
「いいよ、一件落着だ。
 ――あと、念のため聞かせてもらうけど、お前、情報を別の高校に流したりしてないよな?」
「はあ? そんなことするわけないでしょ! 馬鹿にしないでよ!」
 奈美は、はっきりとこちらを向いた。頬に涙が流れていた。うわあ、泣かせてしまった……。 まあ、言ってることに嘘はないだろう……。
「わかった。じゃあな……」
 俺は軽く手を上げ、グラウンドをとりまく道路を歩いた。

 キャッチボールはすでに終わっていた。監督がいてノックを繰り出している。選手たちが打球を追いかける。 
 結局、なんで俺たちのことをそこまで調べているのか分からなかったが、スパイでなければどうということもない。高校野球マニアか、それでなければただの変な女だ。二度と話すことはないだろう。
 女子とあんなに話したのは生まれて初めてかもしれないけど……さすがにちょっとクセがありすぎる。
 ライトのポールに道がさしかかったところで、山側の茂みのなかから、一羽の鳩がばさばさと音を立てて飛び立った。目の前を横切ってグラウンドへ滑空していくのを、俺は目で追った。
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