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 ショートを守る二年生浦部秀彦は、ちらっと外を眺めて呟いた。
 ――お、鷹岡さん……。女の子としゃべってる! めずらしいな。彼女なのかな。にしても、地味な子だなあ……。ああいうのが好みなのかねえ……。
「ショート! 行くぞ!」
「おう!」
 浦部はボールに集中する。
 二年生として唯一スタメンに選ばれたのは、守備を評価されたからだ。フットワークは良く、グラブ捌きはなめらかで、強肩だ。バッティングは貧打の黒森打線のなかでさえ見劣りしたが、チームの危機を何度も救ったその守備力からすれば、黒森高校が決勝まで勝ち上がった立役者の一人と言っていい。
 ノッカーを務める監督の手からボールが離れ、ノックバットが叩きつけた瞬間、浦部は素早く細かなステップを踏んだ。
 やや右側にきたゴロ。回り込むように弧を描きつつ、前に出ながらバウンドを合わせて捕球すると、流れるような動作で一塁へ送球した。低く鋭いボールが老沼のファーストミットに収まる。
「いいね! ショート!」
 監督の声を聞きながら、浦部は守備位置に戻る。
 ――うん。悪くない感じ。やっぱ、俺上手いよね!
 鷹岡さんはイレギュラーを気にしてるみたいだけど、イレギュラーバウンドは普通にあるもんだ。
 小学生の時は、石ころだらけのひっでえグラウンドで練習したからな。そんときのコーチがよく言ってた。「体育館でやってんじゃないんだから、イレギュラーは当たり前なんだ」って。そして、良く足を動かして、低い姿勢でボールにアプローチしていけば、イレギュラーしたってけっこう対応できるって教わったんだ。
 ――まあ、今日はていねいにグラウンドをならしたから、みんなもやりやすそうだね!
 ノックは、サード、ファースト、セカンドと回っていく。
 試合前だから今日のノックはあまり強い打球がない。
 内野陣が軽々とボールを捌いた。……そしてまたショート。
「こい!」
「行くぞ!」
 正面のライナー! 
 たぶん、ゴロを打とうとしたのに、ライナーになっちゃったんだ。この監督、あんまりノック上手くないんだよねえ。どっちかというと、部長の方が上手いよね……。
 がっちり構え、胸の前で捕球しようとしたそのとき、浦部の視界の左端に、灰色っぽいものが映った。
 ――鳩? 
 しかし、浦部はためらわずにボールの軌道にグラブを合わせた……。
 が、視界はボールにぶつかった鳩が羽を散らすのを捉え、その代わりにボールを見失って……次の瞬間には、激しい衝撃に襲われ……そして地面に倒れた。
 反射的に打球を追うために起き上がろうとしたが、試合中ではなかったのでそのまま寝ていることにした。
 ――痛ってえ……。 
 ライナーに鳩がぶつかったんだ。で、軌道が逸れて頭に当たった? そんなことってあるの? 
 まあ、体育館でやってんじゃないからな……。鳩がボールにぶつかることもめずらしくないか。
 いや、さすがにめずらしいよね……。

 文人の目の前を横切った鳩は、グラウンドに入ると滑るように大きく旋回しながら、人の目線くらいにまで高度を下げた。そして内野に侵入し……監督が放った打球にぶつかって、羽を散らしながら落下した。――と、同時にショートの浦部が倒れこむ。
 帽子が飛んで、少し離れたところに落ちた。
 ――時が止まったみたいに、皆が一瞬黙り込む。
「浦部!」
 俺は叫んで、走った。
 グラウンドのみんなが浦部に駆け寄っていく。
 俺は、一塁側のスタンドからグラウンドへ飛び降りた。
 そのとき、死んだかと思われた鳩が、とつぜんバタバタと暴れだし……そして何事もなかったかのように飛び立っていった。
 浦部は打つほうはからきしダメだが、守備は上手い。捕って投げるだけじゃなくて、ランナーを騙すようなトリックプレーも得意だ。いるといないとでは、チームの戦い方が変わってくる。欠かせない戦力だ。
 近づくと、取り囲んだ選手たちのなかで、浦部がゆっくりと上体を起こしていた。
「大丈夫なのか、浦部……」
 こめかみのあたりに擦り傷があって、少し血がにじんでいる。大した傷じゃないが……。
「あ、すんません。鷹岡さん。ぜんぜん問題ないっす。あんまり強い打球じゃなかったし、鳩にぶつかった後だし。あの鳩、死んじゃいました?」
「お前は、鳩の心配してたのか」と老沼があきれたように言った。
「さっき飛んでったよ?」と吉川。
「そっか。よかった。じゃあ、練習しましょう。お騒がせして、すみませんです。あ、帽子……」と立ち上がろうとする浦部を俺は止めた。
「まてまて、ゆっくり立て。あと、浦部はしばらくベンチで横になってろ」
「えー?」
 監督が帽子を拾い上げる。
「頭打ってんだ。休んでろ。ゆっくり歩いてベンチへ。一塁側のが、日陰になってるから、いいだろう」
「はあい」
 しぶしぶ返事をした浦部がベンチに向かって歩き、他の選手たちがノックの準備に動き出した。
 俺は、浦部に付き添ってゆっくりと歩きながら、ふと思いついて、言った。
「なあ、浦部。お前、野球やってて楽しい?」
「え? 楽しいっスよ。もちろん。どうしたんすか、いきなり」
「あー、実はある人に『お前たちの野球はつまらん』って文句を言われたんだ。それがショックでさ」
「ははは。たしかに打てませんもんね。派手さがありませんよね。でも、自分は超楽しいっスよ。チーム同士のかけひきがあって、面白い野球やってると思いますよ」
「だよな!」
「そいつに、あのショートに注目して見てろって言ってやってください。絶対わかってもらえますよ。黒森高校の野球の面白さを!」
「なるほど。それはいい」
 ――とは言うものの、俺らの野球がつまらんというのは理解できる。
 ようするに選手よりベンチの采配が目立つ野球だ。
 チャンスで体格がいい四番が出てくればお客さんは長打を期待してわくわくするものだが、うちは当たり前にバントさせる。相手の強打者はできるだけ敬遠。そりゃ面白くないだろう。少なくとも一般受けはしない。
 それに、見ててつまらない野球は、だいたいやってる選手にも不満がある。浦部は守備に全振りしたタイプだからこう言ってくれたけど、他の連中はけっこう微妙だろう。バッターは自分のベストのスイングで打ちたいものだし、ピッチャーはいいバッターと勝負して自分の力を試したい。みんな、監督に対しても、俺に対しても、言いたいことは山ほどあるはずだ
 だがそれでも俺は、データ班として携わったこのチームをなんとかして勝たせたい。俺にとっては監督も選手たちも勝利のための駒にすぎない。勝っている限り駒は黙って言うことを聞いてくれる。
 だからこそ、イレギュラーによるケガだとか、不祥事だとかの不確定要素は、絶対に許したくないんだ。
 ――ベンチ入ると浦部は素直に横になり、俺は通路から階段を上がってスタンドに向かった。
 なんにしても、浦部が大したことなさそうで良かった。明日のプレーには影響ないだろう。昨日から意味が分からないことが続いているし、今の鳩なんか信じがたい出来事だが、浦部のキャラのおかげで、チームの雰囲気は悪くない。
 このまま優勝だ!

 スタンドはまばゆい日差しに焼け付くようだった。
 ――と、水天宮奈美がこちらに歩いてきた。
 憂鬱そうな真っ黒な髪は、なんだか疫病神のように見えた。 
 ……今さら、何か用でもあるのか?
 奈美は俺の前で立ち止まった。
「ちょっと、来てほしいの」 
「なんだよ」
「お願い。来て!」
「お前、泣いてるのか……?」 
 わかったよ、と後をついていく。こんな人目があるところでは、こっちも困る。
 グラウンドを離れ、静かな住宅地に入った。その一角の小さな公園に入った。噴水がある水辺で、子どもが遊んでいた。ノックの打球音と、選手たちの声が小さく響いた。
 奈美は木陰にあるベンチに座った。
「今の鳩、きっと私のせいなの」
「は? ボールが鳩にぶつかったことがか?」
 俺は立ったまま、聞き返した。意味がわからん。
「そうよ。昨日の試合も、極端なイレギュラーがあったけど、あれもきっとそうだわ」
「……まったくわかんねーな。イレギュラーや鳩が打球にぶつかるのが奈美のせいだとして、どうやったらそんなことが出来るんだよ」
「呪いをかけたのよ」
「の、呪い?」
「そうよ。私が黒森高校野球部を呪ったの」
 奈美は握り拳で涙を拭った。
 女の子なら、そこはハンカチじゃないのかと、俺は混乱しながら思った。
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