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 六回の表。文人は石川が都築を歩かせるのを見届けると、内野席の階段を上った。
 ――この後、石川は五番の松下に打たれるだろう。
 俺にはその予感があった。
 敬遠とはいえ、四球の後、投手はストライクがほしくなって甘めに投げ込みがちだ。いつもの石川なら問題ないが、今日はプレッシャーのケタが違う。前の打席だって、松下には甘く入ったんだ。そのときは老沼のファインプレーがあったけど、何度も同じようにはいかない。それに、この球場の雰囲気は松下の背中を押す。
 耳を突き刺すような金属音が場内に響き渡った。
 一瞬遅れて爆発的な歓声がグラウンドに降り注ぐ。
 足元がびりびりした。
 スタンドが揺れるというのを、俺は初めて経験した。
 振りかえると、一塁ベースのそばでライトスタンドを見つめる老沼の姿があり、そのかたわらを走り去る松下の巨体があった。
 松下がライトスタンドに叩き込んだんだ。ツーランホームラン。
 5―2。
 敬遠策が裏目に出たわけだ。
 そもそもこれまで興洋学園と戦ったチームは都築を敬遠しなかった。それは松下が怖かったからだ。だが俺は、松下には穴があるから石川の制球があれば恐るるに足らずと踏んだ。だから、都築との勝負を避けるように提案したんだが、今の石川の状態は想定外だ。そしてそれを生んだのはこの球場の雰囲気だ。
 そもそも、この球場が満席になるのがおかしい。こんなの予想できるはずがない。これもマコ――『甲子園の魔物』のせいなのだろう。なんと言ったって、『甲子園』なのだ。この雰囲気はまさしく甲子園のそれだ。
 苦労して作りあげた積み木細工……それは興洋学園という大きな鉄の塔だって超えるはずだったのに……それが土台から崩れ去っていく。
 まあ、地力の差か……。
 やまない歓声に背を向けて、内野席の一番上まで上がった。
 野球盤を挟んで奈美とマコが向かい合って座っている。
「奈美、どうよ調子は? ――って見りゃわかるか」
 奈美はうつむいて黙っている。……こっちの試合もちょうど六回表。現実よりかなりテンポが速い。マコが率いる興洋学園の攻撃中だ。スコアボードによれば、この回三点が入って興洋が3―2と逆転している。なおも一死二、三塁のチャンス……。 
「おい、奈美。さっさと投げんかい――」
 マコの声は見た目に応じてかわいいが、口調がやくざだ。
「……どうした、もう気持ちが折れたのか? 早いのう。早すぎるわ。まあ、男に忘れられた情けない女ってのは、そんなもんかもしれんがのう?」
 マコが何を言っているのか知らないが、奈美は顔を上げマコを睨むと、
「そんなんじゃないわ!」
 盤上のピッチャーがセットポジションから投球動作を開始する。バッターはカーブを引っかけた。打ち取った。ショートゴロだ。三塁ランナーはスタートを切っている。ショートは前進守備。きちんとバックホームすれば刺せる……が、捕球の寸前でバウンドが変わった。身体に当たった打球は方向を変え、レフト前に転々と転がった。二塁ランナーも本塁を狙う。レフトからのバックホーム……これも逸れた。二点追加で5―2。バッターも二塁に進んだ。野球盤のスタンドが歓声を上げる。
 奈美が悔しげに拳でひざを叩いた。
「また! ……こんなの、ゲームじゃないわ!」
「なんじゃ、もう試合放棄か? 不運は不運じゃが、こんなのはサイコロを三回振ったら三回とも一の目が出たくらいのものじゃろうが。年に一回や二回はあるわ。ましてや試合には流れっちゅうもんがあるからのう。
 たしかに、野球はときに理不尽じゃ。じゃが、社会はもっと理不尽なのじゃぞ? お前が男に忘れられたようにのう。――ひょっひょっひょ!」
 マコが奈美を嘲笑する。
「そんなことはわかってんのよ! だけど、これは作為的なものだわ!」
「ほお? で、どうするのじゃ?」
「もうっ! もうっ!」
 奈美は感情を爆発させたように両拳で自分の膝を叩き続けた。
「奈美やめろよ。どっか痛めるぞ……」
 ――と、その瞬間、奈美が消えた。俺の目には、奈美が野球盤に吸いこまれたように見えた。
「おい! 奈美をどうしたんだ!」
「中に吸いこまれたようじゃのう。あるいは自分から飛び込んだのか」
 自分から飛び込んだ?
「奈美を返せよ!」
 マコはまったく動じることなく、笑みさえ浮かべている。
「まあ、そう焦らんでもよい。試合が終われば帰ってくる。それよりゲームをこのままにしてええのか? ひどいことになりそうだが?」
「そうか。これが現実の試合に影響を与えるんだったな……」
 俺は振り返ってグラウンドを見た。5―2のままだが、二死満塁だ。打席に二番の熊切が入るところで、キャッチャーの田崎が主審にタイムを要求した――。

 老沼正義はファーストの守備位置から、セットポジションを取る石川の背中を見た。真夏の日差しが照りつけていている。
 ――さすがに疲れるよな……。この六回も長い守備になった。
 二死二、三塁。打席には一番打者の川口。フルカウントになった。
 最後に投げたのは、ストライクゾーンからボールになるスライダー。三振狙いの攻め。いいボールだが、選球眼のいい川口は手を出さなかった。フォアボールだ。これで二死満塁。場内の歓声がまた一段と高まる。
 田崎が主審にタイムを要求した。三塁側のスタンドでは、ブラスバンドが早くも次の打者のための音楽を奏ではじめ、要所で応援団が声を合わせる。外野からの声も大きい。球場全体が興洋を応援しているみたいだ。
 マウンドに駆け寄った田崎は、言うことをどっかに忘れてきたみたいに声が出なかった。興洋の応援に圧倒されたのか、それとも目の前にいる石川があまりに沈んでいるからなのか……。
 おいおい、それはまずいよ……。喧噪がつつみこむ球場の中で、マウンドだけが沈黙していた。みんなは互いの顔を見あっていたが……、
「石川、お前さ……」
 俺が声をかけた。そういうキャラじゃないけど、そんなこと言ってられない。
「お前のボールは悪くない。ヒットは打たれてるけど、良い当たりなんて松下の一発ぐらいじゃないか。飛んだところが悪いだけだ。自信持てよ……」
 だめだ、こいつ聞いちゃいねえ……。
「だからさ……」
 ――と、うつむいたままの石川が、声を発した。
「……ごめん、おれぜんぜん自分のピッチングができなくて……」
 あふれかえる歓声の中でかろうじて聞き取れた。ちょっと、イライラしてきた。いや、ちょっとじゃねえな。かなりイライラした。俺はほとんど怒鳴った。
「そんな問題じゃねえよ! 下向くなっつってんだよ! 興洋の応援すごいよな。外野の声まできこえるもんな……。だけど、おい! 一塁側のスタンドを見てみろよ――」
 ようやく石川が顔を上げた。日に輝く満席のスタンドが見えたはずだ。
「……みんな俺たちを応援してくれてるんだ。お前を応援してるんだよ。あきらめないで声を出してくれてるんだよ。なのに、地べたなんか見て恥ずかしくないのか! 戦う相手はどこにいるんだよ。前を向け! 声を張るんだ!」
 気持ちが落ちてるのは石川だけじゃなかった。みんな全体に表情が暗い。これだけ言ってもうつむき加減だ。俺の声が届いていない。もっと何か言わなきゃ……。
 だが、主審が「君たち、急ぎなさい」と声をかけてきた。それもルールだからな、しょうがねえ……。
「いくぞ! お前ら!」
 俺は最後に怒鳴りつけて、ポジションに戻る。頼りなげな「お、おう……」みたいな返事がバラバラと返ってきた。
 まずいな……これは……。
 俺はキャプテンシーとか統率力ってやつにはぜんぜん自信がないんだ。基本、自分が打てりゃいいって考えてる人間だから仕方がないが、こういうときは困るぜ……。
 ――と、ホームベースの向こうに立った田崎が大きな声を出した。よく通るいい声だった。
「ツーアウトだ! ここで切るぞ!」
 するとみんなも呼応し「おう!」「ピッチャー打たせろ!」と声が出始める。
 ほっとした。いつものみんなだ。
 プレー再開に、一塁側応援席からわーっと拍手が降り注ぐ。
 田崎がマスクをつけるとき、目が合った。田崎は、にやっと笑って少し頭を下げた。
 ――なんだよ、田崎。「ありがとう」か? よせよ、照れるじゃないか……。
「さあ、行くぞ! 石川!」
 俺は吠えた。


 文人はさっきまで奈美がいた席に座ると、膝の前にある乳白色のレバーを触った。
 ――レバーはつかんで動かすだけでなく、指ごとにスイッチがついていて、複雑な入力が可能だが……どうも飾りみたいなものらしい。自軍の選手を見ながら「こう動け」とイメージするとその通りになる。あえて言えば、レバーにはイメージを助ける役割がありそうだ。
「ちょっと、投げさせてもらっていいですか?」
「ん、まあ準備投球じゃな。ええよ」
「じゃあ……」
 野球盤上のマウンドで石川にボールを投げさせる。イメージ通りのボールを投げるし、緩急をつけることだってできる。神経そのものが野球盤と繋がっているみたいに、微妙な指示を送ることができる。かといって、石川の能力を超えることはできない。自由自在みたいなのに、そうじゃない。こんなにもどかしいことはない。奈美が感情的になるのもわかる気がした。
 わあっという歓声が耳に入った。
 現実の球場でプレイが再開されていた。
 二死満塁だ。バッターは二番の熊切。強豪校の二番らしく、長打も期待できる右の強打者だ。
 その熊切が、痛烈なライナーを三塁線に放ち、サードの由比が果敢に飛びつく。……が、打球はグローブをかすめ、そのままファールゾーンで弾んだ。どっとスタンドが沸く。カウントはまたしてもフルカウント……。
 石川が投げる。熊切は高めのストレートに反応し、鋭いスイングを見せる。打球はほぼ真上に打ち上がった。キャッチャーの田崎がマスクをかなぐり捨て、バックネットに向かって打球を追って走る。空から糸を引くように落下する打球に向かって、田崎が頭から飛び込んで……フェンスの影に入って見えなくなり、土埃が舞う……歓声が一段と大きくなる……。塁審が両手を挙げる……ファールだ。
「惜しいぞ!」
「ナイスファイトだ!」
「がんばれ、ピッチャー! みんな守ってるぞ!」
 一つ一つのプレイに歓声が呼応する。
 両校の応援を比べてみれば、外野席まで従える興洋学園の方が圧倒的に人数は多いし声も大きいが、黒森の応援席には選手との一体感がある。
 投じられたラストボールは、強烈なピッチャー返しとなって石川を襲ったが、反射的に差し出したグローブにたたき落とされ、目の前に転がった。石川が拾って落ち着いてファーストに投げる。これでスリーアウト……。
 引き揚げてくる黒森の選手たちを暖かい拍手が迎えた。
 田崎と石川がグラブタッチをする。
 ――長い守りだったが、この回の失点は松下のツーランホームランの二点だけに止めることができた。……まあ、そう言うべきだろう。
 5―2か……。
「さあ、わしらも始めるかの?」
「ええ……」
 野球盤は現実と同じく5―2。六回表、一死二塁。興洋学園の攻撃中だ。これに勝てば、現実の試合にもいい影響を与えられると言うが、そもそも勝てるのか、これ。
 俺は石川を操作して三番の安藤をショートゴロに打ち取った。ランナーが三塁に進んだが、ツーアウト。四番の都築は迷わず敬遠。一、三塁になった。五番の松下はインコースをつまらせてセカンドゴロ。内野陣がダブルプレーの動きに入る。注文通りだ。――これでスリーアウト……と思いきや、ゴロはセカンド吉井の前で冗談みたいに跳ね上がった。三塁ランナーは生還。一塁ランナーは三塁を狙う。ライトからボールが中継されて三塁は際どいタイミングだったが、ワンバウンドの送球がまたしても大きく弾んだ。サードの由比が捕球できない。これでもう一人ランナーが帰って、7―2。なおも二死二塁。
 ――さすがに、これは……。
「なんじゃ、お前。もう、あきらめたのか?」
「まさか」
 マコは野球盤のことではなく、現実の試合のことを言っているんだと、反射的に俺は思った。実際、その通りみたいだった。
「本当かなあ? あきらめてないなんて、口だけじゃろ?」
 マコはニヤニヤといやらしい笑みを浮かべ、
「――本当はあきらめていても、あきらめたとは言えないことってあるよのお……。人間とは実に面白いわ。お前は選手ではない。もはや試合には手を出せん。事前の情報だけで勝負するベンチ外の指揮官じゃ。そしてその情報も読みも、致命的なところで誤っておった。榊の球速が上がったことなどは、不可抗力であったであろうが、その時点でお前は負けじゃ」
「……」
「お前に比べたら黒森の選手たちは立派じゃ。今まで頼りにしてきたお前の読みが外れておっても、監督の指示をあてにできなくても、まだ勝負を捨てておらん。さっきの守備を見たであろうが。圧倒的な不利な状況じゃぞ? まわりは敵ばかりに見えたかもしれんの。その中にあって、見事な気迫で危機を乗り切ってみせた。
 ……選手たちはあきらめておらなんだ。指揮官であるお前は負けたと思っているのに、選手たちがそれを認めないのじゃ。それが、お前には意外だったんじゃないかの? むしろ、心を打たれたんじゃろう。感動したんじゃろう。笑えるのう。ひっひっひ」
 ……うるせえ、その通りだ。
 たしかに俺はデータ班として失敗した。しかも選手じゃないから今さら何もできない。
 でも、今回に限ってはこの野球盤がある。こいつをどうにかできれば、試合の展開も変わるはずなんだ。あいつらが、あんなにがんばっているんだから、俺だってできることはやっておきたい。
 だけど、この野球盤がそもそもおかしい。こっちに不利なことばかり起こるし、それが現実にも影響してるんだ。
 じゃあ、この野球盤の不自然さって、いったいなにが原因なんだ。なんでめったに起きないようなイレギュラーやエラーが、立て続けに起こるんだ。
 ――なんだか、なかに誰かがいて確率的な部分を操作しているみたいじゃないか。
「お前は選手としてはケガで使いものにならないし、指揮官としても無能だが、黒森の選手たちは賞賛に値する。それでこそ、心をへし折る甲斐があるというものだ。ここから先が、楽しみだのう」
 俺は嫌みたっぷりな言葉をスルーして、
「奈美は、この中にいるんですよね?」
「どうした? 奈美が恋しくなったか?」
「いや、そういうわけでは」
 マコが質問に答えない。俺は、奈美はこの中にいるかと訊いただけだ。奈美がこの中にいると知られたら、困ることでもあるのか?
 ……奈美は、この中にいて意地悪をしている「誰か」をどうにかするために――あるいは戦うために――飛び込んだんじゃないか。
 だったら、俺も行かなきゃいけない。奈美に一人でがんばらせるわけにはいかない。
 俺にも行けるのか……? この野球盤のなかに。
 野球盤に集中してみる。小さなマウンドに目をこらした。俺が昔、そこにいた場所。
 マウンドの、その土の臭いを感じようとした。
 ――と、この現実のスタンド。その光景が、まるで砂でできているみたいにさらさらと崩れ落ち、かわりに暗闇が視界を埋め尽くしていった。

       * * *

 野球盤の一角。一人で座るマコは、満足げな笑みを浮かべつつ、二人が吸いこまれていった眼下のフィールドを見やる。
 そして、誰にも聞かれない言葉をつぶやくのだった。
 ――これで、役者はそろったのう。この夏一番のエンターテイメントになるかどうかは、そなたら次第じゃ。さあ、ゲームは終盤。全速力で駆け抜けるがよい!
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