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 六回裏二死満塁――。
 老沼が石川たちを激しく鼓舞しているとき、黒森高校監督矢崎敏宏は、伝令を送るでもなく、穴倉のようなダッグアウトのベンチに深く腰掛け、帽子を目深に被り、腕組みをしていた。
 なんの策も浮かばなかったのだ。
 ――鷹岡文人……。お前は今、この状況をどう解釈している? これはお前の想定内か?
 おそらく、それはないだろう。敬遠、そしてバント攻勢。たしかに効果があった。しかし、序盤のリードと引き替えに、球場全体を敵に回してしまったんだ。
 敬遠もバント攻勢も大衆受けする作戦じゃないが、非難されるようなものでもない。むしろ今日の観客の入り方が異常なんだ。外野席を埋めているのは中立のファンで、応援したい方を応援している。それだけのことだ。そして、外野が客で埋まるなんて誰にも予測できない。
 無関係じゃないんだろうが、流れだって悪すぎる。ここまでひどいのは経験したことがない。石川の不調もそのせいだ。こればっかりは選手を責められん。
 誤算と言えば、あっちのエース榊の出来も異常だ。準決勝より数段レベルが上がってやがる。榊に対する大方の評価は「現時点では、いいピッチャーだけどドラフト云々の選手じゃない」というものだ。それがどうだ。今日の榊はどう見ても全国屈指。プロスカウト垂涎の的じゃないか。そんなことってあるか?
 もちろんまだ諦めるような点差ではない。それはわかっているが……。
 それらはこの日、矢崎の胸中で何度も繰り返されたつぶやきだった。
「ツーアウト! ツーアウト!」
「もう一個だ! 集中していこうぜ!」
 控えの選手たちががなり立てた。円陣が解かれ、試合が再開される。
 ふたたび各ポジションに散った選手たちの姿に、うつろだった矢崎の目が光を取り戻した。
 視界のなかで、サードの由比がライナーに飛びかかり、田崎は猛然とキャッチャーフライを追った。あきらかな劣勢のなかでも闘志を見せる彼らが、矢崎にはむしろ信じがたかった。
 ――俺は負けた。鷹岡文人も負けた。だが、選手たちはどうだ。あいつらはまだ負けを認めていない。戦っている。ということは、やつらはまだ勝ちは手の届くところにあると感じているんだ。俺にも、文人にも見えない何かが、見えているんじゃないか……。
 だったら、やつらに勝負を預けてみたっていいかもしれない……。
 六回表をなんとか二失点に食い止め、ベンチに戻ってきた田崎は、防具も外さず監督の前で直立不動の姿勢をとった。
「なんだ、田崎」
「次は、都築と勝負させてください!」
「ああ? 抑えられるのか?」
 矢崎は、腕組みをしたまま、眉をひそめる。
「え? そ、それは、その……」
 ――いや、そこは口ごもるところじゃないだろう。こうしたら抑えられるんだって、なんか言い分を考えてこいよ。俺を説得してみろよ。まったく、まだまだだな。
 だが、矢崎は……
「いいよ」
「は?」
「お前が考えたとおりにやってみろ」
「い、いいんですか?」
「お前が勝負したいって言ってきたんだろうが!」
「はい!」
「その代わり……」
「なんでしょう……」
 田崎はまだ恐る恐るだ。俺ってそんなに怖い監督だったのかな……。
「勝ってこい!」
「は……はい!」
 田崎の表情がぱっと輝く。
 ――おい、お前ら! 田崎は選手たちの方を向いて叫んだ。
 ――勝つぞ! 
 おお、とも、うおお、ともつかない鬨の声が、黒森高校のベンチを満たした。

 奈美の脳裏に古い思い出が蘇っていた。
 ――春のグラウンドで、私たちはキャッチボールをした。そいつのボールはおどろくほど伸びがあった。そんなに体格がいいわけじゃない。そのときは私と同じくらいだった。もっと身体が大きくて、もっと速いボールを投げる子はいた。でも、こいつのは伸びが違う。バッターの手元で浮き上がるんだ。
 最初は捕るのに苦労した。でも、球筋を意識していれば捕れる。――と、思ったら急に沈んで、ミットをはじいて、太ももにぶつかった。
 ――ごめん、今のツーシーム。
 痛さで顔をしかめながら、小学生は変化球禁止! って言うと、そいつはイタズラっぽく笑った。
 名前を鷹岡文人といった。
「お前は?」
「奈美」
「そっか、ナミ。お前がキャッチャーなら本気で投げても大丈夫だ。試合が楽しみだよ」
 そうだ、試合……となりの市との交流戦だった。
 私と文人は違うチームだっだけど、黒森市の選抜メンバーに選ばれたのだ。交流戦で文人は先発し、三回をパーフェクトに抑えた。決まりで三回で交代して、その後試合がどうなったかなんて忘れてしまったけど、とにかくそれは、わくわくするようなピッチングだったんだ。
 中学になったら、ぜったい文人と同じチームで野球がしたい!
 卒業したら、どこで野球するか聞いたら、黒森シニアに行くと言った。硬式のクラブチームだ。もちろん、私は黒森シニアに入った。
 でも、文人は来なかった。
 シニアで私はあまり試合に出られなかった。実力では負けていないのに、男子優先なのだ。彼らは試合で活躍すれば、いい高校から誘いが来る。監督だってそれを望んだ。仮に私が試合に出たところで、誰も見ていないのだ。意味がない。
 さんざんだったわね……。

 生徒指導室には矢崎監督と鷹岡文人がいた。ドラマに出てくる警察の取調室みたいに殺風景な部屋で、包帯で右肘を固定した文人は神妙な面持ちで座り、事務机を挟んで監督と向かい合っていた。
 ――野球盤に飛び込んだ俺だが、気がつくと、テレビカメラのようにその光景を見下ろしていた。
 これは昨年の夏だ。
「……で、医者の説明によると、お前は六ヵ月間は投げられない、と」
「はい。秋季大会はまったくだめですが、春先から投げられますから、来年の夏には十分間に合います」
「そうは言っても、お前には先がある。無理させるわけにはいかんな」
 と、監督は視線を外して机のわきにある置き時計を見た。ちょうど四時を指している。
「復帰は慎重に考えたほうがいい……」
「ええ……焦ってはいけないと、医者には言われていますが……」
「そこで一つ提案だが、お前、データ班をやってくれんか?」
「データ班ですか? ……でも、データ班って選手をやめて、練習にも参加しないで、そっちの仕事に専念しないといけないですよね?」
「そうだ。だから、選手をやめてくれって言ってる」
 絶句する俺。そりゃ絶句するよな。客観的に見てそう思うわ。
「新チームは、明らかにお前のワンマンチームだ。しかし、そのお前がいない状態からスタートしなければならない。話にならない。むしろ最初から『鷹岡文人なんて選手はいない』と腹を決めてスタートを切った方が、上に行けると俺は考えている」
 監督、こんなこと言ってたかな。あんまり覚えてないや。ショックでちゃんと聞いていなかったんだろうけど……あらためて聞くと、監督は単純に俺が嫌いなのかなあ……。
「まあ、今結論を出せとは言わん。考えておいてくれ……」
「いえ、データ班をやります。やらせて下さい」
「ほお……」と、監督は笑みを浮かべ、
「やってくれるか。ありがとう。データ班としていい仕事を期待しているよ」
 監督が席を立って、生徒指導室をせかせかと出て行く。気が変わって「やっぱ嫌です」と言い出すのを心配してるみたいだ。しかし俺はうつむいて、ただ一人残される……。気持ちの整理をしてるんだろうね。
 ――あー。これはバカだったな……。
 監督の強い言葉にひるんだわけじゃない。むしろ、悲しくなったというのが実際のところだ。だって、準決勝に勝つところまで二年生が一人で投げていたんだ。故障したとはいえ治るとわかって、新チームにだって期待されてると思いこんでいた。それがこのざまだ。
 でも、今にして思えば、それは監督の一案であって、俺が戦力外かどうかはまた別の話だ。投げられるようになったら、アピールの機会くらいもらえただろう。俺は選手であることにこだわるべきだった。
 もっとも、データ班をやった結果、予想をはるかに超えて多くのことを学べた。だから何が幸いするかわからないけど、それでも、みんなといっしょにグラウンドに立つほうがずっと大事なことだったんだ。
 なんだかな……。
 俺、弱いんだ。最後まであきらめない勇気ってやつが、俺には足りないんだよ。
 
 いつのまにか、俺は黒森のユニフォームを着てマウンドに立っていた。あたりは暗く、星一つ見えない。無人のスタンドに照明灯が灯っている。ここが野球盤の中なのか? 
 人気のないグラウンドだが、ただ一人、ホームベースの向こう側に防具を身につけた捕手が立っていた。
 黒森のユニフォームだが……。
 俺は近づいて言った。
「奈美……なのか?」
 マスクを取って右手に持つ。前髪を上げているその顔は見慣れないが……奈美だ。……しかし、それはそうと――。
「どっかで、キャッチャーやってたよね?」
「ようやく気づいたの? 小学生の時の黒森市選抜。覚えてない?」
「あー、ナミって言ってたっけ……。でも、ごめん……」
「男だと思ってたんでしょ。それはともかくね、あんたがあの時黒森シニアに行くって言ったから、私は黒森シニアに行ったのよ。なのに、あんたは来なかった。どういうこと?」
「うーん。そんなこと言ってたときもあったか。なんか面倒くさくなっちゃって」
 俺、すげえひどいことしてたみたいだ。
「そんなところだと思ったわよ」
「でも奈美もひどいよね。野球やってなかったとか、いろいろウソばっかりだ」
「最初に気づいてくれないから、言い出せなくなっちゃったのよ。それより――」
「なに」
「キャッチボールしておくわよ。どうせ、このあと誰かと勝負するんでしょう?」
「それもそうだな」
 奈美が硬式球を投げてよこした。シニアで野球をやってたなら、硬式の扱いには慣れてるわけか。だけど――。
「俺の球、捕れるの? 小学生の時とはちがうぜ?」
「たぶん、大丈夫よ。バッティングセンターでキャッチングの練習はしてるから」
「バッセンでミット構えるの? マンガで読んだことあるけど、本当にそんなことする人いるんだ」
「うるさいわね。女子が野球を続けるのは難しいのよ」
 奈美の声はむしろ悲しげだった。
「……そうだよな。ごめん、悪かった。俺のボール受けてよ」
「さあ、早く投げなさい!」
「おう!」
 数メートルの距離。俺はふわりとしたボールを投げ、奈美のミットがぽすんと音を立てた。
 距離は徐々に伸びていき、ボールの勢いが増していく――。
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