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 沸き立つような一塁側のスタンドで、宮村理香は冷静に戦況を見つめていた。
 ――六回裏。榊に対して黒森打線はここまで三振八個。なんと現在七連続三振中。
 打順は一番から……。
「飯田! 何とかしろー! 老沼さんまで回せー!」
 夢野がかれた声で叫ぶ。黒森の選手は全員三年生だが、老沼以外は呼び捨てだ。応援の語彙も含めてだんだんおっさんみたいになっている。
 初球。飯田はバントの構えを見せ、スッと引いた。内野手が一瞬ダッシュするが、ワンストライク。
「そうだ! 飯田! やってみろ!」
 実際、初回のバント攻勢は成功したわけだし、試してみる価値はある。榊というピッチャーは投げ終わった後、バランスが崩れることが多いから、バントの守備は得意ではないはず。二球目は大きく高めに外れてボール。球速表示は145。少し落ちた。
 そして三球目をバントした。三塁側に転がった打球。やはり榊のダッシュはもたついたが、自分でボールを拾うと、土煙を上げながら右足で踏ん張って、強引に一塁に投げる。飯田は俊足の勢いそのままに一塁に飛ぶ。ヘッドスライディング。ファーストは目の前でワンバウンドする難しい送球を上手くすくい上げたが、タイミングはほとんど同時……。
 だが、判定はアウト。
 一塁側のスタンドを溜息が埋め尽くす……が、それはすぐに拍手に変わった。
「ナイストライだ! 相手は嫌がってるぞ! 繰り返していこう!」
「お嬢さん、よく野球知ってるねえ」
 前の席のおじいさんがニコニコしながら振り返った。
「えへへ……」
 たしかに老沼正義の個人ファンが言うようなことじゃない。
 実際、夢野の指示に従ったかのように、続く二番の吉井、三番の由比もセーフティバントを試み……惜しくも倒れた。悪くないバントだったし、相手の守備もほころびかけているのだが、際どいタイミングで二人ともアウトになってしまった。
 このあたり、いかにも流れがない。でも、一塁側のスタンドは大いに沸いた。選手たちが戦う姿勢を見せてくれたからだ。
 そして七回表。マウンドに上がった石川が気迫のピッチングを見せる。三番の安藤をスライダーで三振。石川はこれが今日一つ目の三振。
 さらに四番の都築に対し、キャッチャーがストライクゾーンに構えると、球場は今日一番の盛り上がりを見せた。ここまでは敬遠気味のフォアボール三つだった。都築との初めての勝負だ。
 初球、外角高めのストレートを見送ってワンストライク。二球目、三球目はスライダー。三球目はライト線への痛烈なライナーがわずかにファール。歓声がスタンドから滝のように溢れていく。これでワンボール、ツーストライクになった。四球目。キャッチャーの構えはインハイ。寸分違わず投げ込まれたストレートに、窮屈そうなスイングになる。打球が高く上がる。ファールフライだ。サード! サード! 選手たちから、一塁側スタンドから、無数の声が上がる中を、サードの由比が懸命にボールを追って、頭から飛び込んで、ボールはグラウンドに弾んだ。
 由比が拳で地面を叩いて立ち上がる
「サード惜しいー! ピッチャー投げ勝ってるよ! がんばって!」
 夢野が思わず老沼以外を応援をするくらいに、いい勝負だ。 
 たぶん、バッテリーは今の内角高めで打ち取りたかった。だから問題はこの後。もう一つ内角高めに行くか、それともスライダーを外に投げるのか。どちらにしても、ボールカウントに余裕があるのだから、ここはじっくり攻めていい――。私はそう思ったが……。
 同じインハイのストレート。ストライクゾーンのボールに、都築はヒジをたたんで器用に対応して見せた。
 見事に芯で捉えた打球が舞い上がり、レフトのポール際へ……。切れそうで、切れず、落ちそうで、落ちず……。そのまま外野スタンドの最前列に飛び込んだ。
 三塁塁審が頭上で右手をぐるぐると回す。
 ダイヤモンドを一周する都築を、スタンドを揺らす大歓声が包み込んだ。ホームラン。
 6―2。
 黒森は厳しくなった。
 しかし、都築がベンチに入るころには、球場を温かな拍手が包みこんで、打った側も打たれた側も、等しく称えていた。

 キャッチボールで肩が十分温まると、文人は奈美に座ってもらって本格的な投球練習に入った。
 ――静かなスタジアムに、ボールがミットを叩く音がこだまする。ストレート。カーブ。スライダー。シュート。チェンジアップ。スプリット。一通りの持ち球を試したところで、奈美が立ち上がった。俺の背後を見やっている。
 無音ではあるが、オーロラビジョンに決勝戦の映像が流れているのだ。
 七回表。バッターボックスに立つ三番の安藤がスライダーに空振りする。三振だ。石川の背中がまばゆく躍動して、暗いスタジアムに彩りを与えた。六回の何かにおびえていたような石川がウソのようだ。
 そして四番の都築。田崎が外角高めに構える。おいおい、勝負するのか……。
 俺は息を呑んで画面を見つめ……、そして首を振った。
 バットの芯がボールを捉える。快音が聞こえてきそうだった。打球の行方を見定めた都築が、一塁に向かって悠然と走り出す……。
「キャッチャーの配球ミスね。勝負に出て首尾よく追い込んだのよ。ピッチャー優位のカウントで正直にストライクを投げる必要はない。インハイを続けるんだったらシュートにするべきだったわ。……まあ、これは結果論ね。プレッシャーの中で早く勝負を決めたい気持ちはわかるし、たいていのバッターなら今のをヒットにすることすら難しい。一球でインハイに対応してスタンドまでもってく高校生が異常だわ」
「いや、そもそも都築と勝負する意味がない。そんなリスクを負う必要はないんだ。敬遠でよかった。今の石川なら後続は問題なく抑えられるんだから」
「それはどうかしら? みんなが期待する勝負を避けて通ってきたから、スタンドが敵に回るし、プレーする方だってどこかやましい気持ちになるのよ。そんなんじゃ、思う存分プレーするのも難しいし、流れだって悪くなるいっぽうよ。だから、ここで思い切って勝負に出たのは間違ってないと思うの」
 流れ……か。いったいなんなんだろうな、それは。ここまで勝ち上がってくるときには、流れなんて、あまり意識しないで済んだんだ。決勝という舞台が何か特別なのか、それとも……。
「んー……。それ、わからないんじゃないんだけどさ、この話って『呪い』とか『甲子園の魔物』とか関係してるのかな」
「今日のお客さんの入り方とか、盛り上がり方とか、どう見たって普通じゃないでしょ? こんなの魔物の仕業としか言いようがないわ。この流れだって無関係じゃない。お客さんの盛り上がりが、流れの勢いを増している。 
 たとえばそんなふうに、『魔物』が流れを加速させてるんじゃないかしら。もしかしたら、黒森にとって悪い流れしか加速しないのかもしれないけど」
「つまり、不自然にならないように、黒森に不利な流れをつくってるってことか」
「おっと、わしの悪口はそれくらいにしておいてもらおうか」
「「マコ」」
 バックネットから沸いて出たみたいに、その少女はホームベースの向こう側に立っていた。
 俺たちは反射的にマコと言ったけど、さっきまでスタンドにいたマコじゃない。両側でまとめられた長い髪は赤く、そして身にまとうドレスは漆黒だった。スタンドの白いマコは少なくとも見た目は慎ましい雰囲気だったが、この黒いマコはなんだか邪悪な空気を周囲にまき散らしていた。
「イメージがちがうわ」
「中の人だから?」
「何を言っておるのじゃ。そもそもお前らはなんなんだ。背番号21と22? 高校野球ではめずらしい番号だのう」
 不信感まるだしの少女。自分の背中は見えないが、ベンチ入りは20人だからその次っていう設定なんだろう。
「えっと、さっきまでオーロラビジョンに映っていた試合なんだけど、流れが偏りすぎてるから、それをなんとかしようと思ってきたのよ」
「気のせいじゃろ?」
「そんなことないわ。ぜったいおかしいんだから」
「やかましいのう……」
 と言いつつ、マコ(で、いいのかな?)は、微妙に笑みを浮かべた。なんだか忘れていたことをだんだん思い出してきたような雰囲気だ。
「黒森とかいうチームの自業自得みたいなもんじゃが、お前らがかわりに対価を支払ってくれるのなら、どうにかなるかもしれんのう?」
「対価……か。どうやって払ったらいいんだ?」
「つーか、そもそも文人の作戦がいかんかったのじゃ。敬遠ばかりさせよって」
 なんだよ、話がわかってんじゃないか。
「そこは読みが甘かったんだ。自分の失敗だけど取り返せるものなら取り返したい。で、どうしたらいいんだ?」
「そうだのう。黒森の先発投手が四球で歩かせた打者と勝負してもらおうか。一番と七番。四番は三回歩いているから三回勝負」
「おお!」
 そんなんでいいの! むしろ楽しみでしかないんだけど。
「文人、遊びじゃないんだからね。負けたら意味ないのよ。――守備はどうするのかしら」
「二人で守るんじゃな」
「うは……」
 そりゃ厳しい。打球を前に飛ばされた時点で負けみたいなもんだ。
「ゴロを捕って、バッターにぶつけたらアウトになるのかしら」
 三角ベースか!
「硬式じゃぞ。そんなわけあるか」
「なんていうか、ミッションクリアの条件とか、あるの?」
「いい勝負をして、お前たちがいい結果を残せば、それが試合に反映されるじゃろう。それで勝てるかどうかはまた別の話じゃがの。ここで目標を宣言してから挑戦してくれれば、なおいいのう。黒森にボーナスがつくかもしれん」
「全員三振よ」
「まてまてまて」
 相手は都築だぞ。
「……ヒット性の当たりゼロとかでどうよ」それでもきついけど。
「つまらないわ。だいたいヒット性かどうかって誰が判断するのよ」
「文人や奈美が『打たれた!』って思うかどうかじゃな」
「なるほど、心の問題なのね」
「野球はメンタルのスポーツなのじゃ」
「じゃあ、それでいこう」
「だめよ」
「なんだよ」
「私たち二人で全部アウトにしましょう。それが目標」
「……わかったよ」
 なんでそんなに強気なんだか。
「承知した。じゃあ、やってもらおうかのう」
 ……と、三塁側のベンチからガタゴトと音がして、興洋学園のユニフォームが現れる。バットを携えた五人の選手たちが、ベンチ前で素振りを始めた。生身の人間にしか見えない。
 ――ん? 五人? 
 一番の川口と、七番の林。そして四番の……都築が三人いるんだ。さすが野球盤の中だ。違う意味で怖いぞ。
「三人いるが、同じ打者が三回打席に立つと考えてええぞ。システム上そうなってるだけじゃ。前の打席の配球とかは覚えているし、ボールに対する慣れもある。勘違いせんようにな」
 システムねえ……。
『一番、センター、川口くん』
 場内に女声のアナウンスが響き、無人のスタンドにつくりものっぽい歓声が起こった。
 こんなんでもテンションが上がる。
 本物ではないのだろうが、バッター相手に投げるのは実に一年ぶりだ。
 さあ、やってやろうじゃないの。
 俺は、奈美が投げたボールを受け取る。
 左バッターボックスに入って構えた川口。
 こいつはミートが上手い。二人で守るには厄介な相手だ。力でねじ伏せたい。
 一つ大きく息を吸った。振りかぶって、初球を投げ込む……。
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