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 大歓声が球場を満たしていた。
 老沼は、都築が一塁を踏み忘れないか観察していたが、さすがにそんなことはなかった。

 ――果敢に勝負を挑んだ石川だったけど、やはり都築が一枚も二枚も上手だったな……。
 都築は最後のインハイを読んでいた。いや、正確にいえば、インハイだけを狙っていた。あれはそういう打ち方だ。もし低めにストライクを投げ込んでいたら、それは本来都築にとってホームランボールなわけだが、見逃し三振に倒れただろう。一か八かのバッティングだ。都築としたらそれでよかった。だって興洋はすでにリードしているんだからな。
 だから、石川。お前はまだ都築に負けたわけじゃない。それはわかってるよな。石川。

 田崎が主審にタイムを要求した。この試合、守備のタイムは三回目だ。これでもう、九回までタイムは取れない。
 俺たちはマウンドに集まった。
 石川は下を向いてない。そうだ。エースはそれでいい。
 田崎がミットで口もとを隠しながら話しかける。
「悪い。石川。勝負をあせっちゃったよ。お前のボールは完璧だった。俺の配球ミスだ」
「いやあ、そもそも俺のワガママで四番と勝負したんだ。俺のせいだよ。文人のやつ、怒ってるだろうな」
「それは違うぞ、石川」
 俺は思わず口を挟んだ。
「俺たちが都築との勝負を避けていたことが、ここまで流れを悪くしたんだ。さすがに文人だってそこまで読み切れないだろ。だから、都築と勝負したことでようやく俺たちは、やつらと同じ土俵に上がれたんだ。つまりだな……」
 みんなが俺を見てる。言葉につまった。そもそもしゃべるのは苦手なんだよ。
「あー、これからが本当の勝負なんだ」
「老沼、いいこと言うじゃん」
 田崎が言った。やめろ。照れる。
「俺はこの試合に勝ちたい。勝って――」
 石川が言った。
「俺は文人を甲子園に連れて行って、甲子園では文人に投げてもらいたいんだ」
「はあ?」と由比。
「あいつ、投げられるの?」
「投げられるよ。俺は文人が投げているのを見たから」
「そうなんだ。でも、石川が投げてきたんじゃん。お前が投げろよ」
「そんな気になれないんだ。俺と文人じゃ格が違うし、それなのにあいつは陰で俺たちのためにずっとがんばってくれた。今だって、きっとどこかで俺たちのために動いている。そう思えてならないんだ。だからさ――」
 すると吉井が言った。
「それ、なんかわかるな。そんな気がする」
「うーん。言われてみりゃ、そうかもしんねーな」と由比が言うと、田崎が続けた。
「よし! じゃあ、それで行こう! 
 ――俺たちは勝って、文人を甲子園のマウンドに立たせるんだ。
 行くぞ、お前ら!」
「「「「「おう!」」」」」
 ファーストのポジションに戻りながら俺は思った。
 このグラウンドにいない誰かのためにがんばるってことか。
 ……なるほど、それは俺たちに不思議な勇気を与えてくれる気がした。それはつまり、野球は俺たち選手たちだけのものじゃないってことだ。グラウンドでのがんばりが、グラウンドじゃないところに繋がっているんだ。
 文人なんて、いけ好かないやつだと思っていたが、俺たちのためにがんばってるのは認めるさ。だったら、ここから文人のためにがんばるのも、悪くない。
 しかし、俺の場合はだな、葉月さんという先約がいるんだ。そこは悪く思うなよ? 文人。

 奈美はバッターの様子を確認してから、マウンドに向かってサインを出した。
 ――三球勝負。私は外角高めのストレートを要求した。
 最初の打者、左打席に立つ川口へのラストボール。川口は腰が引けたようなだらしないスイング。バットは空を切り、文人の剛球がミットを叩く。
「ナイスボール!」
 やっぱり目標を全員三振にすればよかった。そこいらのバッターに、こんなボールが打てるはずがない。たとえ相手がプロ注目の都築であっても、私のリードがあったら打たせやしない。
 ボールを投げ返す。文人が少しだけ笑みを浮かべた。
 打者はあと四人。
 たったそれだけ? 
 ……少なすぎる。石川のやつ、もっとフォアボールを出せばいいのに。
 もっともっと、文人のボールを受けていたい。
 野球をやってきて、今ほど楽しいことはない。泣きたくなるようなことばかりだったけど、シニアで硬式野球をやっていて、よかった。変な目で見られながらも、バッティングセンターで150キロ超のボールを受ける練習をしていて、よかった。こんな日の目を見ないヘンテコな舞台だけど、それだって、私は幸せだ。
「ナイスピッチングじゃのう」
 一塁側のファールゾーンに立つマコが言った。
 強い打球が飛ぶ可能性がある場所だけど、魔物というくらいだから大丈夫なのだろう。
「こんな暗い、誰も見ておらんようなスタジアムで投げるのは、あまりに惜しい投手じゃ。いっそどうじゃ? 文人よ。外でやっている試合で先発したことにしてあげようかの?」
 文人より先に、私が反応した。
「はあ? 現実を変えられるって言うの?」
「ふふん」とマコは得意げに鼻を鳴らした。
「甲子園の魔物などと呼ばれてはおるが、それはわしのほんの一面でしかないからのう。
 ……文人が早々にケガから復帰し、この大会の初戦から快刀乱麻のピッチングで勝ち上がってきたというシナリオを、現実のものにしてはどうかね? あのくだらない監督に歪められた今の現実のほうが、よほど不自然とは思わんかね」
 甲子園の魔物じゃないなら、あんたはいったい何者なんだ。私はそれを聞くことはできなかった。なにか、怖くなってしまったのだ。
 でも、もしそんなことができるなら……、文人が今、外の世界で投げているのが現実なのだとしたら、こんなにすばらしいことはない。
 文人は、ちょっと顔をしかめて右手につかんだボールを睨んでいたが、
「この勝負を、先に終わらせていいかな。ここで打たれるんだったら、現実で投げたって意味ないし」
「ええよ」
 マコは楽しげな笑みを浮かべて言った。
 アナウンスが次の打者を告げる――。
『七番。ライト。林君』
 偽物の歓声に迎えられ、林が右打席に入った……。

 七回表の守備を終えた選手たちが黒森のベンチへと引き揚げてきた。
「よっしゃー! いけるいける!」
「さあ、ひっくり返そうぜ!」
「文人を甲子園へ連れてくぞ!」
 ……などとにぎやかに言い合っている。
 監督の矢崎は、相変わらず腕を組んだまま憮然としており、「文人」という言葉にわずかに反応しただけだ。
 ――勝負させてくれというから勝負させたら、見事に一発食らいやがった。これで6―2。さらに難しくなった。だが、こいつらはかえって元気になったくらいだ。都築のホームランのあとは、松下も含めてピシャッと抑えたしな。精神的に強くなったということか。
 一年前に比べたら大違いだ。新チームになったばかりのころは、まったく勝てなかったし、なにかと文人がいないからと言いわけしやがる。俺は頭にきて、文人はケガで一年はぜったいに投げられないんだと断言した。だからお前らで何とかするんだ、と。文人のケガはそこまでのものではなかったが、データ班に入った以上、もう選手ではないんだから、同じことだ。
 しかし、今になってどういうわけだが、こいつらは文人を甲子園で投げさせるんだと、盛り上がってやがる。まあ、それでモチベーションが上がるんだったら、そう思っていればいいし、実際、今日勝ったら考えたって良いだろう。
 バッターボックスから老沼がこっちを見るので、俺はサインを出した。自由に打て、と。小さく頷いた老沼が背を向ける。その背中が大きく見えた。興洋学園の都築にだって負けない風格がある。
 老沼だって一年前はまだ子どもみたいだったんだ。秋季大会で初戦敗退したとき、自分は一発打ったから悪くないみたいなことを言いやがったから、こっぴどく叱りつけたんだ。お前みたいなのがチームの足を引っ張ってるんだ。お前がいたから負けたんだ、と。それが今はどうだ。タイムのときには、一生懸命にみんなを励ましていたじゃないか。あれがなかったら、今ごろはこんな点差じゃすまなかっただろう。
 チームも同じだ。みんな大きくなった。
 俺はこのチームが好きだ。去年のチームよりいい。たまたま選手に恵まれたんじゃない。俺が育ててきたという自負がある。
 だが、それでも――。
 矢崎は腕組みを解くと、踏ん切りをつけるように両の手でももをぴしゃりと叩いた。
 ……チームってものはどこかで監督の手を離れて育っていくものらしいな。
 ――その直後、矢崎ははじかれたように立ち上がった。
 老沼の鋭いスイングが、榊のストレートを完璧に捉えていた。天高く舞い上がったその打球は、バックスクリーンに跳ね返ってから、あざやかな緑の芝生の上に転がった。

       * * *     

 内野席の最上段。白いドレスに身をつつむマコは、一人で野球盤の前に座っていた。ピッチャーとキャッチャーとバッターしかいないその小さなスタジアムでは、背番号21を背負った人形が、鋭いボールを投げバッターを空振り三振にしとめたところだ。
 同時に、どっと場内が沸いた。四番のバットで高々と打ち上げられた白球が、かなたバックスクリーンへと飛んでいくのを、マコは見送った。
 ――文人よ、いいチームメイトがおるではないか。
 老沼正義が今、万雷の拍手につつまれながら、ダイヤモンドを駆け抜けていく。
 彼が放ったアーチは、劣勢の一塁側スタンドに夢を与える起死回生の一発になった。
 ……不思議なものじゃの。応援されている選手が、応援している観客を励ましておるわ。
 わしには、それとなくわかる。いろいろな者がスタンドにおる。彼らにはそれぞれの生活がある。仕事に疲れた者、子育てに悩む者、テストの成績が悪いと悩む者、恋に悩む者……そんな彼らのもやもやを、老沼の一撃はまとめてバックスクリーンに叩き込んだがごときじゃ。もっとも、それで何かが解決するわけではないが、彼らにささやかな勇気を与えたに違いないのじゃ。
 観客が選手を応援し、選手が応える。 
 野球とは、社会が見る夢のようなものではあるまいか。
 いま選手たちは、夢そのものになろうとしている。
 美しいのう……。
 ――グラウンドを見下ろすマコもまた、老沼に拍手を送るのだった。
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