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若き龍の目醒め 15

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次の日。


「九郎~!いつまで寝てるの!?ほんとに遅刻するわよ~!!」


翌朝、母の大声に九郎は目が覚めた。
昨夜、愛華先生に送ってもらった後、夕食も食べないで、自分の部屋に入り、制服を着たまま、ベッドに飛び込み、朝まで寝てしまった。頭を起こして、携帯の時計を見てみると、もう朝ご飯を食べ終えていなければいけない時間だった。

「最近、こんなのばっかりだ!」

そう叫びながら、カバンをひっつかみ、家を出て行く。
走る姿は元気そのもの。とても昨日袋叩きにされたようには見えない。

(あれだけ、痛かったのになぁ。人間の体って案外丈夫にできてるんだな)

九郎は呑気にそう思っていた。

喧嘩などしたことない彼には、途中で意識が朦朧としていたこともあって、自分の怪我がどの程度だったか把握していないのだ。本来なら、数日はベッドで唸っていなければならない怪我だったはずである。
あの喧嘩の名残りといえば、手の甲に貼られた絆創膏ぐらい。

その脇には、まだくっきりと浮かび上がっている、妙な痣。


しかし、九郎は、全速力で道を駆け抜け、いつもの電車に間に合った。そして、いつもの定位置のドアに寄りかかる

(あ~あ、結局、昨日は由紀子ちゃんに電話できなかったなぁ。最近、メールもくれないし)

不意に、鼻の奥が痛くなった。

(どうすればこの気持ちから立ち直れるんだろう)

たかが夢。なのにこの喪失感。
このどうしようもない無力感は、何だろう。
この先、ずっとこんな気持ちと同居するのはやりきれないが、誰も救い出してくれない。

だけど――――。

(何か、わかってる筈なんだって気がする。どうすればいいのか、僕は一度、気が付いた筈なんだ)

それは昨日、あいつらに殴られながら、自分で口にしたような。だが、痛みと衝撃のせいで、記憶は曖昧だ。

(まぁ、いいや。きっと話してるうちに思い出すさ。カッコ悪いけど、正直に全部話そう……。今夜こそ電話しよう)


そんなことを考えているうちに、電車は駅に着いた。大勢が乗り降りするホームで感傷に浸っている暇はない。朝の通勤通学客たちと、押し合いへし合いしながら電車を降りる。
こうも、もみくちゃされていると、あれこれ複雑なもの思いに、ふけっている余裕はない。
とりあえず、ぶつからないこと、人の間をすり抜けること。

つまり人の気配に集中する。

すると、頬に何かチクチクするものを感じた。見つめられている気配。慌てて足を止め、周りを見渡してみるが、こちらを見ている気配はなかった。
ただ、見間違えようがない、黒く長い髪が揺れながら遠ざかっていく。
あの人が、慌てて目をそらすことなど考えられない。

というよりも――――。

(綾姫さまが僕を見てた?まさか)

何かの勘違いだろう。

(そもそも僕に、気配を感じるなんてことができるわけないじゃないか。玖朗じゃあるまいし)

そう自分を納得させ、肩をすくめてまた歩き出す。人ごみの中で九郎は改札口に向かい、定期券を出し、何気なく横に目をやると、一つの改札機が異様に混んでいた。七十歳ぐらいの白髪の女性がどうしても改札口を通れないでいたのだ。

「あの、大丈夫ですか?」

九郎はあえて人の流れを割って自然とその女性に近づき声をかけた。困っている女性の後ろには、何人もの人たちが、イライラと順番待ちをしていた。けれど、誰も、手助けをしようとはしなかった。

一昨日までの九郎ならそうだったと思う。今でも、そんな自分に内心驚いていたが、引っ込むつもりもない。

「これはですね……」

説明しようとした九郎に、その女性はじろりと険悪な視線を向けた。
差し伸べた手は拒否された。だが、九郎は、これまで恐れていたようなバツの悪さを感じていなかった。

「わかってます。馬鹿にしないでちょうだい」

女性はふんと鼻を鳴らした。

「切符ですか?だったらそれをそこの……」

「わかってると言ってるでしょ!!」

穏やかに続けた九郎の声に、女性は怒鳴り散らした。同時に、女性の切符が改札機に吸い込まれ、改札口が開く。女性は、憤然とした足取りで、ずかずかと人ごみに消えていった。
たまっていた人の流れが動き出す。誰も、今のささいな出来事に、注目していた様子はない。九郎は、静かな表情のまま歩き出した。

「おはようございます。天井くん。」

出口に向かおうとしていたところに、後ろから聞き覚えのある声が聞こえ、遠慮がちに上着の裾を引っ張られた。クラスメイトの沙弥である。


「今の人、なんか感じ悪いですね?せっかく天井くんが親切に教えようとしてたのに」

「見てたの?」

恥ずかしく思わない自分を、九郎は少し不思議に感じた。それよりも、あのまま通り過ぎてしまったら、その方が自分が情けないと思っている。

『困っている者を見捨てるなどすべきではない』


玖朗の声が聞こえるような気がする。九郎が返事をしないでいるあいだも、沙弥はあの女性に対してぶつぶつと怒ってくれていた。

「そっか、そうだよな」

九郎は小さな声でつぶやいた。

「え?」

沙弥が驚いた顔で九郎の顔を見た。

「ううん、なんでもないよ」

九郎は、言葉を濁した。

今までは、さっきのような時に、拒否されるのが怖かった。間抜けなことをしたと、自分が惨めになることが嫌だった。救いの手を差し伸べても拒否されることもある。
その時、助けようとした者を笑う人もいるかもしれない。それでも、拒否した人の、つまらない見栄に対して、こんな風に怒ってくれる人もいる。親切が空回りしても、評価してくれる人もいる。たとえ誰もいないとしても、自分で自分を誉めることができる。自己嫌悪に陥らなくて済む。

今の九郎には、好意を素直に受け取れない人の存在は、哀しく思えた。

「どうしたんですか?急に遠い目をしちゃって……」

「いや、大したことじゃないよ。何というか、曇ってた気持ちが晴れただけ」

沙弥はきょとんとしている。

(何かをすれば、誰かが応えてくれる)

そして、何もしなければ、応えなど返ってこない。

(だから……始めてみよう)

九郎は空を見上げた。その空は少しまぶしかった。

(ああ、このことも……)

由紀子に伝えようと、思った。






―――というわけで、間違いないと思うんだ。

―――ええ、そうですわね。早速いつものように……。

―――あたしやこーじの時と同じ手筈で。九郎くんもきっと自分が見ているあれが〈夢〉だと思ってるんだろうけど。

―――そうではないことを、知ってもらわねばなりません。

―――うん。でも、ほんとのことを知って、乗り越えられるかな?九郎くんは。

―――わかりませんわ。けれども、それは自分で耐えるしかないことですもの。放っておけばますます悪くなるだけです。覚醒して自分がどうなっているのか気づかねば、自滅の可能性もありますものね……それでは引き続き、観察しておいてくださいね、〈アン・ボニー〉さん。

―――ん、わかった。できるだけ早くお願いね、〈ティターニア〉

―――ええ、急いであの方たちに接触を取ってみましょう。あの方たちのことですから、いつそのつもりになられるか予想はできませんけれども、そう遅くはないでしょう。

―――まぁ、目は離さないようにするよ。それと……ええと、その間も、ちゃんと……なんだよね?

―――もちろん、報酬はキチンとお支払いしますわ。これも立派な、〈ドラゴン・ゾルダード〉のお仕事ですもの。













(剣術、やってみようかな?近くに教えてくれるとこあったっけ?)

そんなことを思いながら、九郎は帰り道を歩いていた。

(それはまぁ、今夜、由紀子ちゃんに電話してから調べるか)

今日の九郎は、割としゃんと過ごせた。

授業も真面目に聞き、休み時間は優や他の友人たちと、他愛もない話をし、昼休みは杏たちも含めて昼ご飯を食べ、帰りはそのままみんなとゲーセンで遊んだ。その後も、他の皆は繁華街へ繰り出していったが、さすがに断った。
何か新しいことを始めようと決めたけれど、いざとなれば心が揺らぐ。それにやったことがないというだけで、好きでもないことに付き合おうとは思わない。家に帰る前に、本屋に立ち寄っていこうと大通りから外れる。


人通りの少ない、その街角で。

「えっ!?」

強烈な輝きに目を射られて、九郎は思わず立ち止まった。
そして、その全ての色を含んだ白い光は、空から真っすぐ一筋に伸びていた。

その一筋の光は、徐々に横に広がっていき、九郎を包み込んでいく。


「え、え……?ちょ――――」


九郎が反応する間もなく、光は九郎の全身を覆っていった。






(わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?)


光に包まれた後、九郎は暗く広い場所を高速で移動しているような気がした。落ちているのか上がっているのか、横に移動しているのか判別ができない。
ただ漠然と、自分はどこかへ向かっているのだと感じていたが、不思議とGは感じなかった。

九郎がその場所にどれくらいいただろうか。


ほんの数秒かもしれないし、あるいは何時間もそこにいたのかもしれない。もう時間の概念のようなものが失われていた。
しばらくすると、視線の先に、全ての色を含む白くて巨大な光を放つ大樹が見えた。
無限の可能性、世界という果実を宿して、無数の枝に分岐する巨大な生命の樹。

それは、尽きることなく生長を続けている。


過去から現在へ、現在から未来へ。決してとどまることなく流れ続けている。
九郎は茫然とその樹木を見つめていた。
それはあまりにも膨大な情報量であり、あまりにも巨大な存在だった。
九郎はこれ以上、それを見てはいけないとわかっていた。
(あと、ほんの少し、これを見続けたら……)

自分はパンクしてしまうと、九郎は思った。だがそれでも、魂のもっとも奥にある『知りたい』という欲求があった。それはあったかもしれない世界。そして未来。

可能性の未来。

その枝の間には、色鮮やかな生き物のようなものたちが止まり、飛び回っていた。

〈あれは……龍?〉

何となくだが、その生き物は普通ではないと認識した。すると、一部の枝や果実が腐り落ちていった。
あるいは別の枝に無理やり結合され一つにされていく。それを見ていた九郎の視界には、異形のモノ。

次に、どこかで見たことがあるような逆三角形のピラミッド。


そしてその目には―――――。
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