魔法使いと皇の剣

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3章 神の肉

サイスル

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 扉を出たサイスルは、廊下の隅に立つ小さな影に気づき、微笑を浮かべた。

 まだ幼さの残る顔立ちの少年――ワイダーが、驚いた様子でこちらを見つめ、慌てて頭を下げる。
 その仕草にはどこか焦りが滲んでいた。

 サイスルは彼の表情を静かに見つめながら、柔らかく言葉をかける。

「君がしたいようにするといい。」

 ワイダーは息をのんだ。
 恐れと戸惑いが入り混じった目でサイスルを見つめる。
 まるで、何かを悟られまいとするかのように唇を引き結び、それでも隠しきれない動揺が指先の震えとなって現れていた。

 サイスルはそんな彼を穏やかに見つめたまま、ゆっくりと背を向ける。
 その瞬間、ワイダーの表情が変わった。

 怯えと迷いが、決意へと変わる。

 サイスルはそれを背中越しに感じながら、静かに歩き出した。

 月明かりの差し込む長い廊下。
 城の兵舎は不気味なほど静まり返っている。

 そんな中、背後で静かに扉が開くを感じサイスルは微笑んだ

 静寂な廊下を歩くサイスルに、一つの影が寄り添うように現れた。

 仮面をつけた男が、低く淡々と語りかける。

「盗賊たちは予想通りしくじりました。」

 サイスルは足を止めず、微かな嘆息を漏らした。

「期待はしていなかった。だが、ベイルガルドにとっては良い土産になっただろう。」

 仮面の男は静かに頷き、少し声を潜めて続ける。

「アーベンの方はどうされますか? 我らを騙り、竜族を殺そうとしていたようですが。」

 サイスルはまるで興味がないかのように肩をすくめた。

「好きにさせておけ。運命の眷属を殺そうとは、随分と馬鹿なことを考えたものだ……だが、彼なら成し遂げるかもしれないな。少なくとも、ケイオスよりは可能性がある。」

 微かに笑みを浮かべながら、サイスルは足を止め、夜闇に沈む王都の景色を窓越しに見下ろす。

「問題はレグラスの方だ。忌々しい男だ……ハンベルグが王位に指名したことで、余計な手間になった。」

 サイスルは仮面の男に鋭い視線を向け、短く命じる。

「見つけ出して、殺せ。」

 男は深く頭を下げる。

「七騎士は如何されますか?」

 サイスルは皮肉げな笑みを浮かべた。

「そっちは終わった。」

 再び歩き出しながら、サイスルは低く続ける。

「ホイスタリンの軍勢は明日には到着する。そして、オーデントも見過ごすことはないだろう。」

 仮面の男はわずかに間を置いて報告する。

「ベイルガルドも動き始めています。殿下との謁見を希望していますが、如何されますか?」

 サイスルは目を細め、まるで計算するように指先で机を軽く叩く。

「事が終わり次第、動く。」

 仮面の男は静かに頭を下げ、闇の中へと消えていった。

 サイスルは独り静かに歩を進めながら、考えを巡らせる。

 ——「真の王」などというくだらない幻想。自らそう名乗り、影で暗躍してきたのは、すべて今日のために過ぎない。

 かつて自分の血筋が作り上げたこのオーデント国。その王座に返り咲きたいと思ったことは一度もない。それでも、この国を使う価値はあった。

 ベイルガルドと手を結ぶこともできた。だが、黒衣の伝道者どもは厄介だった。好き勝手に動き、こちらの計画を乱すこともあった。

 ——しかし、それももうすぐ終わる。

 オーデントを生贄に、この地をセイクリッドランドへと変える。そして、死の神を……死の力を生み出すために。

 サイスルは兵舎を抜け、人々で賑わう王都の街並みを進む。

 石畳の道、並び立つ豪奢な建物、穏やかに笑う人々。何も知らぬまま日常を過ごす彼らを見て、ふと考える。

 ——この輝かしい城も、近いうちに消え去るのか。

 わずかばかりの寂しさを覚えながらも、顔には出さない。

 すれ違う者たちから親しげな挨拶を交わされ、サイスルは軽く頷き返す。そして、ゆっくりと城の奥へと向かっていった。

 やがて、たどり着いたのは離れにある先代王——ハンベルグの寝室。

 護衛の騎士たちは、まるで当然のように彼を通した。

 サイスルは扉を開ける。

 室内は静寂に包まれていた。

 豪華な天蓋付きのベッド。その上に横たわるのは、かつて偉大と称された男——ハンベルグ。

 しかし今や、彼の面影は見る影もない。

 かつての威厳に満ちた体躯はやせ細り、赤い髪は色を失い、虚ろな目を開けたまま、ただ天井を見つめているだけだった。

 サイスルはゆっくりと歩み寄る。

「……王よ。」

 静かに、しかしどこか楽しげに、その名を呼ぶ。

 反応はない。サイスルはそれを気にする様子もなく、微かな微笑みを浮かべた。

 ——当然だ。

 ハンベルグにかけた呪いは、アスケラの力ではない。これはサイスル自身の手によるものだった。

 もともとはケイオスを王に据え、大陸に戦乱を引き起こすための布石。だが、今やそれすらどうでもよくなった。

 恐らく、ケイオスやアーベンだけでなく、他にも気づいている者はいるだろう。だが、それでいい。

 ケイオスは王になることを望み、周囲の者たちも怪しみながらも口を噤んだ。誰も彼を真に問い詰めようとはしなかった。戦乱が起こらなければ、いずれ疑問を抱く者も現れたかもしれないが、もはやそれすら叶わない。

 ——もし、あの時ハンベルグを殺していれば、この状況は生まれなかった。

 サイスルはやせ細ったハンベルグを見下ろし、哀れだと感じた。

 この国の者たちは皆、どこかでこの状況をおかしいと思っている。だが、それでも誰一人として行動しようとしなかった。

 ——それは、もはや誰もハンベルグを必要としていないからだ。

 彼は未だ存命であるにもかかわらず、「先代の王」として過去のものとされている。

 サイスルはふっと寂しげな笑みを浮かべ、ハンベルグの頭を優しく撫でた。

「哀れなものですね、王よ。」

 そして、新たな呪いをかける。

 ハンベルグの口から微かなうめき声が漏れる。

「大丈夫です。殺しはしませんよ。ただ、もう少しだけ耐えてください。」

 虚ろな目をしたハンベルグが、だらりと涎を垂らす。サイスルはそれを布巾で丁寧に拭い、そして、その手をしっかりと握る。

「気をしっかりお持ちください。あなたには、もう少しだけ役目が残っています。」

 低く囁く声には、慈悲と嘲笑が入り混じっていた。
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