魔法使いと皇の剣

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4章 波乱

狂気の魔法使い

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 美しく輝く湖のほとりに、オルフィーナは静かに佇んでいた。

 そこは彼女の想い人が創り上げた、外界から隔絶された場所。結界によって守られた楽園。

 湖面は穏やかに陽光を反射し、周囲には色とりどりの花が咲き誇る。優しく揺れる草木の音が、彼女の心を落ち着かせるようだった。

 しかし——彼女の心は、今なお揺れていた。

 愛する人を待つ高揚と、これから伝えなければならない言葉への迷い。

 その思いを押し殺すように、静かに目を閉じる。

 ——そして、待ち人が現れた。

 黒いローブを羽織り、青みがかった髪を無造作に伸ばした青年。
 湖を囲む木々の間から現れた彼は、今や賢者と呼ばれる存在だった。

 ケンニグ。

 オルフィーナの心が、一瞬だけ温かさを取り戻す。

 「オルフィーナ……待たせたね。」

 ケンニグは微笑みながら、優しく問いかける。

 オルフィーナはその言葉に静かに首を振った。

 「そんなことはないわ。貴方がこうして来てくれるだけで、私は嬉しいから。」

 ケンニグは安堵したように微笑み、

 「僕の方こそ……君に会えるだけで、ここまでの苦労なんて忘れてしまうよ。」

 湖面に映る二人の影が揺れ、静かに波紋が広がっていく。

 ——しかし、オルフィーナの心は穏やかではなかった。

 彼に伝えなければならないことがある。
 その言葉が彼を傷つけると分かっていても、避けることはできなかった。

 オルフィーナは胸の前で手を組み、静かに口を開く。

 「ケンニグ……貴方に伝えなければいけないことがあるの。」

 ケンニグは僅かに眉をひそめた。

 「どうしたんだい?」

 オルフィーナは瞳を伏せ、言葉を選びながら続ける。

 「貴方が私に求めた誓いは、すでに達成されたわ……でも、私が貴方に求めた誓いはまだ叶えられていない。このままでは誓いの力は失われてしまう……」

 先ほどまでの穏やかな空気が、一瞬で冷たく張り詰めた。

 ケンニグの微笑みが消え、鋭い光を宿した瞳がオルフィーナを見つめる。

 「……君が僕に願った誓い。神と人が等しく慈愛を得ること……」

 彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。

 「僕は君の願い通り、国を創った。それでも駄目だったのかい……?」

 オルフィーナは静かに首を振った。

 「いいえ、貴方は確かに私のために動いてくれた……でも、その過程で私の願いから遠ざかることが起きてしまったの。」

 誓い——それは神と人が交わす契約。

 オルフィーナは願った。
 このアルベストという戦乱の絶えない国で、人々が真に愛を知ることを。

 しかし——ケンニグは壊れていた。

 愛の強制。信仰の強制。

 彼は持ち前の魔法の力で、人々の心を歪めた。
 言葉では愛を説きながらも、信仰を根付かせるために人々の精神を操り、支配し、新たな国を築いた。


 ——そこにあったのは、純粋な愛ではなく、誓いという名の呪い。

 ケンニグとオルフィーナの間に生まれた子を世継ぎとし、誓いのもとに人々を従わせた。

 それは、本当に彼女が求めたものだったのか。

 オルフィーナは悲しげにケンニグを見つめた。

 「誓いは、片方が納得しただけでは成されない……貴方も、それを知っているでしょう?」

 ケンニグは頷いた。しかし、その表情にはもはや微笑みの影すらなかった。

 青白い月の光に照らされた彼の横顔は、まるで氷のように冷たく、鋭い。

 「その誓いによって、私は貴方を愛した。」

 オルフィーナは震える声で言った。

 「この気持ちは誓いによるもの……私は、それが消えてしまうのが怖い。」

 湖面に映る彼女の顔は、かすかに揺れている。

 「もし、誓いがなかったら……私は本当に、貴方を愛していたのか……知りたくない。」

 オルフィーナは苦しげに微笑んだ。

 ケンニグは静かに息を吐いた。

 「君が何を言いたいのかは、分かるよ。」

 そう言って、彼はそっとオルフィーナの手を取った。その手の温もりは、まるで炎のように温かかった。

 「けれど、僕の心が君に向いていることは——誓いとは関係ない。」

 オルフィーナは驚いたようにケンニグを見つめた。

 「僕は、誓いを交わさなくても——君が僕を愛していると確信できる。」


 オルフィーナの胸が、強く締め付けられる。

 だが、それを信じることが——信じてしまうことが——どれほどの恐怖を伴うのか。

 ——これは真実なのか?

 神の愛とは、誓いのもとに成り立つものではないのか?オルフィーナはゆっくりと目を閉じ、震える唇を噛みしめた。

 夜風が湖を撫でる。

 オルフィーナの胸に走る亀裂が、音を立てて崩れ去る。その瞬間、誓いの力が弾け飛び、彼女の心は目の前の男から離れていった。

 ——何かが違う。

 握られた手の温もりが、急速に冷えていく。

 オルフィーナは反射的にケンニグの手を振りほどいた。同化した女性の記憶が、彼女の中で混ざり合い、かき乱す。

 この男に抱く感情は、果たしてオルフィーナ自身のものなのか?それとも、無理やり彼女のもとへ連れてこられた"もう一人の彼女"のものなのか?

 わからない。

 だが、ひとつだけ確信できることがあった。

 目の前の男に向けているこの感情は——愛ではない。

 「ケンニグ……!」

 憎しみと恐怖が入り混じった声が、オルフィーナの口から紡がれた。

 ケンニグは悲しげに首を振る。

 「……彼女の記憶が、君の愛を邪魔しているんだね。」

 次の瞬間——

 世界が弾け飛んだ。

 ケンニグが躊躇なく放った魔法が、美しく輝いていた湖を、一瞬で吹き飛ばす。

 轟音とともに水しぶきが天を裂き、弾き飛ばされたオルフィーナの身体は地面を転がった。

 荒れ狂う魔力の余波が大地を砕き、湖畔を囲んでいた木々は無残に折れ伏していく。かつて楽園だったこの場所は、一瞬にして破壊された。

 ——賢者と称され、剣士はその名を聞けば剣を納め、魔法使いは畏怖と敬意をもって知恵を授かろうとする。

 そうまで言われた魔法使いが、本気で彼女を打ち倒そうとしている。

 オルフィーナは痛む身体を押して起き上がろうとするが、ケンニグがゆっくりと歩み寄る。

 その顔には、微かな哀れみの色が浮かんでいた。

 「その身体は、君には相応しくない。」

 ケンニグの声音は優しい。だが、それは恐ろしく冷たい響きを帯びていた。

 「僕が君に、新しい身体を用意しよう。」

 崩れ落ちた湖の跡地で、ケンニグは静かに言葉を紡ぎ続ける。

 「そして、また一からやり直そう。」

 オルフィーナの呼吸が止まる。

 ケンニグの瞳には狂気すら浮かんでいなかった。
 ただ、純粋な確信が宿っているだけだった。

 「僕も反省している……今度は、やり方を間違えない。」

 ケンニグは、転がるオルフィーナを見下ろし、微笑む。

 「同化してすぐ、君の感情がオルフィーナだったとき、君は僕の誓いを受け入れた。……そこには確かに、僕の愛を受け入れた君がいた。」

 彼の声には、確かな信念が込められていた。

 「だが——今や人である彼女と同化した君には、それがわからない。」

 ケンニグは、オルフィーナの瞳を覗き込むようにしながら、言葉を続ける。

 「大丈夫。君が何度でも顕現できるよう、信仰できる国を創った。」

 オルフィーナの背筋が凍る。

 「何度でも……何度でも……僕は君のために働く。君が教えてくれた"愛"のために。」

 ケンニグの声は、静かで、深く、そして——歪んでいた。オルフィーナは、恐怖に震えながら、その狂信者のような瞳を見つめた。

 彼は、本気でそう思っているのだ。

 この男は、決して自分を手放さない。

 何度でも。
 何度でも——

 彼は、オルフィーナを手に入れようとするだろう。

 彼女の意志など、関係なく。
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