三枝沼 三輪は怖い

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愛 前編

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 愛という言葉は、無数の形を持つ。家族愛、親愛、友愛、自己愛、盲愛、純愛……。並べていけばキリがないほど、そのバリエーションは豊かだ。ギリシャ神話ではエロス(情熱的な愛)、フィリア(友情的な愛)などとも呼ばれるが、結局はどれも「個人の気持ち」を表している点で同じだ。

 愛は、相手の気持ちに依存せず、一方的に成立することができるものだ。相手に届かなくても、返されなくても、それが愛だと言える。盲愛や片思いがその最たる例だろう。一方で、自己愛は少し違う気がする。他者を介さない点で、もっと自己完結的なものに思える。

 そこで疑問に思うのは、「愛の強さで勝負したら、どの愛が一番強いのか?」ということだ。

 家族愛は、血の繋がりや幼少期からの時間の共有に基づき、深く根付くものだ。親愛や友愛は、互いの信頼や尊敬を育むことで成立する。盲愛は、理性を超越し、時に危険なほどの執着や情熱を見せる。純愛は、他者を純粋に思い続けるその献身的な姿勢が際立つ。そして自己愛は、他者に依存せず、自分自身を肯定する力強さがある。

 もし愛を「強さ」で測るなら、答えは見る人によって変わるだろう。盲愛のように燃え盛る情熱かもしれないし、家族愛のように消えることのない安定かもしれない。あるいは、自己愛のように、誰にも奪われない自分への確信が最強だと言う人もいるかもしれない。


 愛は多様で、その「強さ」もまた、一概には測れない。けれども、どの愛にも共通しているのは、それが誰かの心を支えたり動かしたりする強い力を持っていることだ。もしかすると、強さの競い合いそのものが意味を持たないのかもしれない――なぜなら、すべての愛が、それぞれの形で「強い」からだ。


「なぁ、これどうよ? 俺の入れたスペシャルコーヒー。飛ぶぞ。」

 エプロンを引っさげて自信満々に差し出した俺のコーヒーを、三枝沼は無表情で受け取り、静かに口をつけた。そして一言。

「不味いわね。」

 その言葉に肩を落とす俺をよそに、三枝沼は粗末にする気はないらしく、静かにコーヒーを飲み続けていた。その姿を見ていた三枝沼の祖父、宗介そうすけさんが苦笑いしながら俺に言った。

まもる、ちゃんと見てやらないからそうなるんだ。」

 停学が明け、俺は再び学校に通い始めた。停学明け直後はクラスの注目を浴びるかと思っていたが、案外噂はすぐに沈静化した。七十五日どころか、二十日程度で収まった。俺の日頃の行いの良さが影響しているのだろう――なんて勝手に思っている。

 ただ、バイト先を失った俺には新たな問題があった。収入源をどうするか悩んでいた矢先、意外なところから助け舟が来たのだ。

「おじいちゃんのお店で働けばいいわ。」

 それは三枝沼の提案だった。正直、この喫茶店が人手不足に見えたことは一度もない。だが、孫の頼みには逆らえないのか、宗介さんと三枝沼の祖母は快く俺を受け入れてくれた。

 しかも三枝沼とセットで――だ。

 三枝沼の祖父母は彼女に甘いと感じたが、それでも彼女を大切に愛してくれる身内がいることに、俺はどこか安心した。

 バイトを始めた俺は、せめて自分の給料分くらいはしっかり働こうと決意した。看板を店の外に出したり、グーグルマップに店舗情報を登録したり、地味な努力を積み重ねている。

 宗介さんには「商売っ気があるな」と笑われたが、俺なりにこの喫茶店を盛り上げる気持ちでやっている。三枝沼も、文句を言いながらも黙々と仕事をこなしている。

 あの事件を経て、こうして新しい日常を楽しんでいる自分に、少しだけ誇らしさを感じていた。

 バイトを終え、三枝沼とシャールを出た俺は、ふと気になって彼女に話しかけた。

「そういやマンションで一人暮らしってさ、霊とか大丈夫なのか? 家に出たりしないのかよ。」

 俺が何気なく尋ねると、三枝沼はいつもの無表情のまま答えた。
 
「前にも言ったけど、私は見えるけど好かれない。それにあしらい方も知ってる。」

 彼女らしい冷静な答えに、俺は納得しつつも少し感心した。だが次の瞬間、三枝沼は続けるように問い返してきた。
 
「貴方こそ、大丈夫なの? 一人暮らしで。」

 ん? 一人暮らし?

「一人暮らし? 前に言わなかったか? 俺は両親と暮らしてるぞ。」

 そう答えると、三枝沼は突然足を止め、じっと俺の目を見つめてきた。その目には、何か引っかかるようなものが浮かんでいた。

「あそこで家族と……?」

 その一言に、俺は思わず眉をひそめた。失礼なやつだ。狭いのは認めるが、俺はあの家で両親と仲良く暮らしている。それなのに、何でそんな言い方をするんだ?

「何だよその言い方。家が狭いのは分かってるけど、普通に仲良く暮らしてるっつーの。」

 俺が少しムッとして言い返すと、三枝沼は一瞬口を閉じ、視線を少し下に落とした。

「……ごめんなさい。ただ、あそこには……いや、何でもないわ。」

 はっきり言わない彼女の言葉が、妙に引っかかった。だが、俺もそれ以上深く突っ込む気にはなれなかった。あの時の表情――それが少し気になりながら、俺たちはそのまま別れた。

 家に帰ると、いつものように両親がリビングにいた。その光景に、俺はほっとしながらも、どこか胸の奥に生まれた違和感が消えないままだった。

 朝、いつものように目を覚まし、キッチンで朝食を作りながら俺は両親に話しかけた。

「そういや、ここって駐輪場にバイク置いていいのかな? 伯母さんに聞くの忘れたんだけど……知ってる?」

 親父もお袋も知らない様子で顔を見合わせていた。まあ、答えを期待して聞いたわけじゃない。なんとなく家族の団欒の一環としての会話だ。

 親父は俺に学校のことをいろいろ聞きたそうだった。停学明けの俺を気にしているんだろう。お袋はといえば、俺が席について朝食を食べる様子を、静かに優しい目で見守っている。

 こうした他愛もない日常が、いつの間にか心地よくなっていた。俺は何の疑問も抱かず、朝食を終えるとカバンを手にして玄関に向かう。

「行ってきます!」

 いつも通りの元気な声でそう言い玄関を出て振り返ると、リビングから二人がこちらを見送る姿が見えた。これがいつもの日常、俺の当たり前の生活だった。
 
 家を出た俺は、ちょうどアパートの前で伯母さんに出くわした。

 伯母さん――二瓶にへい 静香しずかさんはお袋の姉で、このアパートのオーナーでもある。俺たち家族を住まわせてくれているのも、静香さんの厚意のおかげだ。祖父、つまり静香さんたちの親父さんから引き継いだこのアパートは、どこか懐かしい雰囲気がある。

「守、これから学校? 気をつけてね。」

 伯母さんは、俺を気遣うように声をかけてくれた。俺はいつもの調子で明るく返す。
「いってきます!」

 そのまま自転車にまたがり、学校に向かってペダルを漕ぎ始めた。

 漕ぎながら、ふと昔住んでいた実家の方向へ視線を向けた。そこはもう、俺の記憶の中で少しぼんやりし始めている場所だ。でも、妙に心に引っかかることがある。

 ――エレベーターで見た霊の女性。

 そういえば、あの鏡に映っていた女性の顔……どこかで見たことがある気がする。

 いつだったかは思い出せない。ただ、その顔が記憶のどこかに焼き付いているような気がした。

 自分でも妙に引っかかるその感覚を整理しながら、三枝沼に話してみようかと思った。彼女なら、何か分かるかもしれない。そう思いながら、俺はペダルを漕ぎ続けた。

 学校に着いて、いつものようにクラスメイトたちと挨拶を交わし、俺は三枝沼に話しかけた。

「なぁ、実はさ、聞きたいことがあって。」

 そう言うと、三枝沼は無表情のまま俺をじっと見つめ、淡々と答えた。
「私もあるわ。」

 お互いに話したいことがあるのなら丁度いいと思い、俺は提案した。
「シャールでいいか?」

 バイトが休みの日にシャールへ行くのは少し気が引けるが、まあ三枝沼の祖父母だし大丈夫だろう。だが、俺のその提案に、三枝沼は静かに首を振った。

「貴方の家がいい。」

 その言葉に、俺は思わずドキッとした。だが、三枝沼に変な意味はないだろうと自分に言い聞かせ、少し声を落として言った。

「おま、まぁ変な意味じゃないだろうけど、クラスメイトがいる前でそういうこと言うなよ……。」

 三枝沼はきょとんと首を傾げて、俺の言葉の意味が伝わっていないようだった。俺は溜息をつき、続けた。
「まぁいいや。ただ、俺の家には両親もいるし、厳しいぞ? 別の場所にしようぜ。」

 だが、俺の言葉に被せるように、三枝沼はあっさりと言った。
「貴方の両親に会いたいからよ。」

 その一言に、俺は口をあんぐりと開けたまま硬直した。

(こいつ……意味分かって言ってるのか?)

 俺の頭の中で、何かがぐるぐると回り始めた。三枝沼の無表情に真意を読み取るのは難しい。だが、確かに「両親に会いたい」と言った彼女の目は真剣だった。

「お前、なんで俺の両親に会いたいんだよ?」

 ようやく口を動かして問いかけた俺に、三枝沼は静かに、しかしどこか意味深に答えた。
「貴方の両親に……少し興味があるだけ。」

 その言葉に、ますます俺の胸の中で得体の知れない不安が膨らんでいった。

 三枝沼と帰る途中、俺は彼女に言った。
「徒歩だと俺の家まで結構かかるぞ。それでも大丈夫なのか?」

 だが、三枝沼は特に気にする様子もなく、淡々と「大丈夫」とだけ返してきた。

 溜息をつきながら、俺は自転車を引きつつ三枝沼の隣を歩いていた。そして気になっていたことを、ついに口にした。
「なぁ、なんで俺の親に会いたいんだ?」

 三枝沼は少し考えるような間を置いてから、静かに答えた。
「貴方のことを知りたいから。」

 その言葉に、俺は顔が赤くなるのを感じた。どうしてこいつは、こんな恥ずかしいことを平気で言えるんだ……。照れを隠そうと必死になっている俺をよそに、三枝沼はさらに続けた。

「不思議だったの。貴方は小さい頃に霊が見えていたと言ってたわよね。私も同じ。でも、私の場合は“きっかけ”があったから。」

 その言葉に、俺は三枝沼の祖父から聞いた話を思い出した。「妹の死」――それが三枝沼が霊を見えるようになったきっかけだった。

(じゃあ、俺のきっかけは何なんだろう?)

 小さい頃から見えていた俺は、いつしかそれが見えなくなった。そして、三枝沼と出会ってまた見えるようになった。

「それが何か関係あるのか?」

 俺が問いかけると、三枝沼は足を止め、じっと俺の顔を見つめた。その目には、何か確信めいたものが宿っているようだった。

「行けば分かる。」

 その静かな一言に、俺は言葉を失った。何が分かるというんだ? 急に胸がざわつくような、嫌な予感とも期待ともつかない感情が押し寄せてきた。

 三枝沼の真意を測りかねながらも、俺は一緒に歩き続けた。

三枝沼を連れて家に着いたのは、ちょうど夕方。黄昏が辺りを静かに染め始めていた。

「頼むから変なこと言うなよ」

そう釘を刺すと、三枝沼は露骨に不満そうな顔をする。俺はため息をつき、玄関のドアを開けた。

「ただいま」

いつもと変わらない両親の穏やかな笑顔が出迎える。俺は三枝沼を促しながら言った。

「えっと、クラスメイトの三枝沼。三輪、あの停学中に来てくれたの覚えてるだろ?」

わざと軽く説明し、挨拶しやすい間を作ってやったが――三枝沼は玄関で無表情のまま硬直していた。まるで、ここに何か見えないものがいるかのように。俺が視線で「おい」と促し、口元で言葉を送る。

三枝沼は微かに目を細め、家の奥をじっと見つめている。その視線の先には、何も特別なものはない。ただのリビングだ

「……あなたの両親は、どこ?」

 突然の問いかけに、俺は一瞬言葉を失った。

「え? 親父とお袋? 普通にいるけど……ってか、目の前にいるだろ。」

俺がそう言うと、三枝沼は目を細め、じっと俺の顔を見つめてきた。その視線には何かを探るような、鋭さがあった。

「……そう。」

彼女は小さく呟き、視線をリビングの奥へと向けた。

その様子に、俺は胸の奥がざわつくのを感じた。なんだこの違和感は――。

俺はリビングにいる両親の方を一瞥する。二人はいつものように此方を見ていて、穏やかな雰囲気を保っていた。

「ちょっとタイム!」
 
三枝沼を引っ張るように外へ出ると、俺は苛立ちを隠せず口を開いた。

「おい、だから言ったろ? 変なこと言うなって」

呆れたように言う俺に、三枝沼は黙ったまま何かを考え込んでいる。沈黙が長く続き、俺が再び言おうとしたその時、彼女が静かに口を開いた。

「……不思議ね。たぶん、あれ……貴方にしか見えてないんだわ」

「……は?」

思わず間抜けな声が出た。意味がわからない。俺が見えているのは、紛れもなくいつもの両親だ。毎日顔を合わせている、何も変わらない二人のはず。

「……何言ってんだよ……」

頭が、ズキンと痛んだ。三枝沼は変わらず淡々とした声で問いを続けてくる。

「ねぇ、貴方のお父さんの仕事は?」

また、ズキン。こめかみを刺すような痛みが走る。
俺は顔をしかめながら、必死に答えを探した。

「……タクシーの運転手だ……夜に……」

言いながら、頭の中に違和感が広がっていく。
――そうだったっけ? 本当にタクシー運転手だっけ?
いや、そうだ。夜勤だから夕方には家にいない。それで……今は夕方……。

ズキンッ!

思考が揺さぶられ、考えることが億劫になる。頭の奥が割れそうに痛い。
三枝沼は少しも動じず、また静かに言葉を放った。

思考が揺さぶられ、考えることが億劫になる。頭の奥が割れそうに痛い。
三枝沼は少しも動じず、また静かに言葉を放った。

「じゃあ、貴方の両親の年齢は?」

――ズキン、ズキン、ズキン。

何かが脳内で狂ったように鳴り響く。両親の年齢……?言われてみれば、考えたことがない。
何歳だ?若いはずだ。でも、具体的な数字が出てこない。思い出せない……。顔も――いつも一緒にいるはずなのに、細部が曖昧だ。どんな表情をしていた?どんな目だった?

「……さぁ……年齢なんて聞いたことない……。30代か40代じゃないか……?」

言葉をひねり出すが、頭が痛すぎてもうまともに考えられない。脳が鉛のように重い。

ズキン……ズキン……。

痛みが波のように押し寄せる中、三枝沼は無表情にこちらを見つめ続けている。その目には冷たい光が宿っていた。俺の動揺を、何か確かめるように見ているのだろうか。

 

「……貴方は、両親の顔がわかるの?」

 

その言葉が、俺の中に何か鋭いものを突き立てた。
ズキン、ズキン、ズキン……頭が割れそうだ。顔……両親の顔……俺は本当に、思い出せるのか?いや、思い出せない。今この瞬間、母さんと父さんの顔がまるで霧の中に消えていくようだ。形が曖昧で掴めない。

「――わかるに決まってるだろ……」


 痛い……頭が割れるように痛い……。

 俺は耐えきれず三枝沼の方を見るが、彼女はただ無表情で、じっと俺を見つめていた。何も言わず、何も助けず――ただ、見ているだけだ。

 その時、近くから伯母さんの声が聞こえた。
「守……!?」

 駆け寄ってきた伯母さんの顔には、明らかな動揺が浮かんでいる。そして、彼女は三枝沼を問い詰め始めた。
「何があったの? あなた、守に何をしたの!?」

 伯母さんの声が耳に響く中、俺の目の前には父さんと母さんの姿がぼんやりと映った。

 ――お父さん、お母さんが、目の前にいる。

 でも、違和感があった。何かが引っかかる。俺はふと考えた。

(あれ……? いつからだろう。俺が親父とお袋って呼ぶようになったのは……。)

 子どもの頃、確かに「お父さん」「お母さん」と呼んでいたはずだ。なのに、どうしてだろう。いつからか、あの二人を「親父」と「お袋」と呼ぶようになった気がする。

 ――ああ、思い出した。

 それは、誰かに話す機会が増えたからだ。他人に自分の両親のことを語る時に、自然とその呼び方を使い始めた。そう、他人に――。

 頭が痛い。けれど、その痛みの中で俺は一つのことを思い出した。

(そうだ……あの女性の霊……俺がエレベーターで見たあの人……。)

 ずっと引っかかっていたあの姿が、頭の中に鮮明に浮かび上がった。そうだ、俺はあの霊を――知っている……。

 胸の奥から湧き上がる感情と記憶に、頭痛がさらに激しくなる。それでも俺は、その記憶に抗えなかった。何かが崩れ落ちるように、俺の意識はゆっくりと深みに引き込まれていった。


 小さい頃、俺はお化けが怖かった。
 夜、トイレに行くのも怖くて、お母さんを起こして一緒に行ってもらっていた。

「ちゃんといる?」

 俺がそう呼びかけると、お母さんはクスクス笑いながら「ちゃんといるよ」と返してくれた。

 そんな俺を見ながら、お父さんはいつもこう言っていた。
「守、お化けなんていないぞ。もし出たらぶん殴ってやれ。捕まんないからな。」
 お母さんはそんなお父さんに「変なこと言わないで」と叱っていたけど、そのやりとりがいつも楽しくて、家は笑いが絶えなかった。

 俺たちの家は大きくはなかったけど、間違いなく俺が大好きな場所だった。

 ――女が来るまでは。

 ある日、突然その女が現れた。
 玄関先に立ったその女は、俺を見るなり笑ってこう言った。
「私が本当のお母さんよ。」

 訳が分からなかった。

 お母さんはその女と言い合いになった。
 俺は、お母さんがあんなに怒るのを初めて見た。

 しばらくすると二人とも大人しくなったけれど、お父さんが帰ってきた途端、再び騒動は起こった。

 お父さんはその女を見るなり、顔を真っ赤にして怒鳴った。けれど、その声にはどこか怯えも混じっていた。

 女はお父さんに向かってこう言い放った。
「その女がいるから駄目なのよ。」

 そして女は帰っていった。

 その後、お母さんは俺にこう言った。
「誰が来ても、絶対にドアを開けちゃ駄目よ。」

 お父さんも念を押してくれた。
「守、お母さんの言うことをちゃんと守れよ。」

 俺は頷いた。けれど――心のどこかで、褒められたい気持ちがあった。
 一人で留守番して、「偉いね」と誰かに言われたかった。

 だから、俺は――ドアを開けてしまった。

 女は俺に優しかった。
 頭を撫でながら、柔らかな声でこう言った。
「お父さんはね、私と愛し合っていたのよ。」

 その言葉が真実なのか、それとも嘘なのか――子供だった俺には分からなかった。ただ、女は俺を安心させるように微笑みながら、永遠に続くかのように話し続けた。
 お父さんと自分がどれだけ深く結びついているのか。どれだけ運命的な愛があったのか――そんな話を、延々と。

 そうしているうちに、お母さんが帰ってきた。

 お母さんは部屋に入るなり慌てた様子で駆け寄り、女を見た瞬間に顔を青ざめさせた。そして、すぐに俺に「こっちに来なさい」と促しながら、女に向かってこう告げた。
「今すぐ出て行って。出て行かないなら、警察を呼ぶわ。」

 女はお母さんの言葉を聞いても動じず、にこりと笑いながら「構わないわ」と呟いた。そして――持っていた包丁を取り出し、その刃を自分の首に深々と突き立てた。

 笑い声が響いた。
 血が溢れ、女が倒れたその瞬間――お母さんは俺を必死に抱きしめた。

「大丈夫、もう大丈夫だから……!」

 お母さんの手は震え、冷たかった。混乱していたのだろう。彼女は震える手で携帯を取り出し、慌てて誰かに電話をかけた。その相手は警察ではなく、お父さんだった。

 一方、俺は目の前の光景に呆然としていた。

 女は倒れたまま、動かなくなった――と思った。だが、それは違った。

 女は動いたのだ。

 首から血を流しながら、まるで壊れた人形のようにぎくしゃくと体を動かし、歪んだ目を開けた。そして、ズルズルと這うように俺たちの方に近づいてきた。

「……お母さん……」

 恐怖で声を絞り出したが、お母さんにはその光景が見えていないようだった。震えながら俺を抱きしめているだけで、這い寄る女には気づいていなかったのだ。

 俺は息が詰まるほどの恐怖に包まれ、ただ立ち尽くすしかなかった。

 女はお母さんの首に両手を回し、ギリギリと音を立てながら力を込めていった。
 
 ギシッ……ミシッ……
 骨が軋む音が、異常な静けさの中に響き渡る。

 お母さんは何が起きているのか分からない様子で、目を見開きながら苦しそうに手を伸ばす。だけどその手は空を掴むばかりで、声も出せないまま……ただ命を絞り取られていった。

 俺はその光景を見ていることしかできなかった。泣きながら叫びたかったけれど、声は喉で詰まって出てこない。

 女の力は異常だった。
 
 グシャリ……
 粘土を握りつぶしたような音と共に、お母さんの首は歪み、その顔がまるで人形のようにぐったりと傾いた。

 ひん剥かれたお母さんの目は、俺を見つめたままだった。その視線が、何もできなかった俺を責めているようで、目をそらしたいのにそらせなかった。

 女は、俺に近づいてきた。
 カタ……カタ……
 床を叩く音が、まるで地獄の鐘のように響いてくる。

 そして、女は俺の顔のすぐ近くまで顔を寄せてきた。
 異常なまでに見開かれた目は、まばたき一つせず、まるで命を持たない人形のようだった。

 アイ……アィ……アイ……
 
 女は、狂ったように低く、湿った声で「愛」という言葉を繰り返していた。言葉というより、もはや音だった。

 亡骸となったお母さんの隣で、俺と女の異様な時間が続く。恐怖と混乱で息が詰まり、視界がぼやけていく中――玄関が開く音がした。

「バタン!」

 お父さんだ。

 お父さんはお母さんの死体を目にした瞬間、叫び声をあげた。

「何だこれは……!おい、守!」

 俺の方に駆け寄り、震える手で俺を抱きしめた。だけど――お父さんは女に気づいていなかった。

 女は、ゆっくりとお父さんに近づき、背後からその身体にまとわりついた。
 
 アイシテル……ワタシヲ……
 耳元で囁き続けるその声に、お父さんは気づかない。電話の向こうの警察に必死に状況を説明していたからだ。

「頭のおかしいストーカーが……妻を……!」

 その瞬間、女が動いた。

「クチャ……グチャ……」
 女はお父さんの顔に顔を近づけるとキスをするように、唇を噛み切った。

 お父さんの叫び声が部屋中に響き渡る。

 しかし女は止まらない。


 グチュ……バリ……グシャ……
 
 女は口でお父さんの顔を次々に噛みちぎり、肉を引き裂いていく。お父さんは抵抗するが、女の力には及ばない。

 そして――女は手に持った包丁を振りかざした。
 ザクッ……ザクッ……ザクッ……
 お父さんの下腹部に何度も、何度も包丁を突き刺す。

「やめて……!やめろ!」
 俺は声にならない叫びをあげながら、その光景を見つめることしかできなかった。

 血が床を染め、お父さんの体が崩れ落ちていく。
 女は、笑っていた。狂ったように、ただ笑っていた。
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