三枝沼 三輪は怖い

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愛 後編

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 ゆっくりと意識が現実に引き戻され、俺は重たい瞼を持ち上げた。

 暗い天井。蛍光灯の光が不自然にチラついている。病室だと気づくまで、数秒かかった。窓の外には深い闇。夜らしい。薄いカーテン越しに、いびきや寝息が微かに漂ってくる。

 手元を見下ろすと、ベッド脇に俺の荷物が丁寧に置かれていた。中身を確認する気にはなれない。視線を戻すと制服が掛けられているのが目に入った。

 俺は静かに、足音を殺して部屋を出た。廊下は薄暗く、妙に湿っぽい空気が漂っている。病院特有の薬品の匂いに何か腐敗したような異臭が混じり、不快感を引き立てた。
 その瞬間、背中にひしりと刺さる感覚――視線だ。

 振り返る勇気はないが、感じる。間違いない。廊下の奥、闇の中に何かがいる。目だけがじっと、俺を見つめている。鼓動が高鳴るが、不思議と恐怖心は湧かなかった。むしろ、じわりと込み上げる安堵に似た感覚が不気味だった。
「……襲われるなら、それでもいい」
 口の中で呟いた自分の声は、まるで他人のもののように聞こえた。

 視線を背に感じながらも、俺は歩き出す。廊下に響く「コツ……コツ……」という足音は、まるで何者かが俺を模倣しているかのように少し遅れて重なってくる。時折振り返りたくなる衝動を押し殺し、階段を降りる。闇はさらに濃くなる一方だった。

 病院の玄関を抜け、外に出ると冷たい空気が頬を撫でた。深く息を吸い、目を閉じたその時――背後で、ギィ……と重く軋む扉の音が響いた。ゆっくりと振り返ると、病院の入り口から暗闇が這い出し、何かが覗いている。白い顔のようにも見えるが、それ以上の確認はできなかった。

「……近所の病院だ」
 俺は近くの病院であったのを感謝して、ゆっくりと歩き出したかつての実家にむけて

 俺は足を止めることなく、ただ無意識のように夜道を歩き続けた。どこか懐かしく、しかし薄ら寒い感覚が胸の奥で広がっている。どうしてもあの家に行きたい――いや、「行かなければならない」と感じている。理由はわからない。ただ、その衝動に抗うことはできなかった。

 手の中のスマホが震え、かすかな音を響かせる。通知の明かりが闇夜の中で不気味に浮かび上がった。三枝沼からだ。件数は17。俺は画面を見つめ、思わず微笑む。何がそんなに慌てることがあるんだ、と自嘲気味に。

 けれど、そのメッセージを開いた瞬間、心臓が跳ねた。

「前の家に行っては駄目」

 短い文が何度も繰り返されている。17件すべてが同じ内容だ。俺の胸に妙な違和感が生まれる。どうして三枝沼が俺の行き先を知っている?それに、この言葉――まるで俺の行動を完全に見透かしているようじゃないか。

 返事を打ち込む。

「行くわけないだろう?」

 嘘だ。自分でも分かっている。本当は、もう既にあの家に向かっている途中なのだ。送信ボタンを押した瞬間、スマホの画面が唐突に消えた。電源が落ちたのだ。残り少なかったとはいえ、完全に沈黙するタイミングが異様すぎた。暗くなった画面を見つめると、背筋に冷たい汗が伝う。

 視界の端に、気配を感じた。足音もなく、音もなく、ただ遠くの街灯の光が何かを揺らしたような気がしただけだ。振り返りたい衝動を無理やり押し殺し、俺は目の前に集中する。風がやけに強くなり、耳元で低い音を立てて吹き抜けていく。

 そして、目の前に広がるのは、かつての「家」だった。

 古びた木造の外壁は、湿気を吸い込んで暗く変色している。明かりは一切ない。それでも、ただその家がそこに存在しているだけで、俺の胸は締め付けられるような感覚を覚えた。子供の頃の記憶が、霞むように頭をよぎる。この家で何があったのか――全てを思い出した

 ふと、耳に届いた音。玄関の奥から「ギィ……」と重く軋むような音が響いた。誰かが扉を開けた音だろうか。いや、そんなはずはない。この家にはもう誰も住んでいないのだから。

 俺はゆっくりと玄関へ近づいた。ノブをゆっくりと回す。

 カチャ⋯


 扉を押し開けると、真っ暗な内部が広がっていた。中には何も見えない。ただ、じっとりとした空気と、古い木の匂いだけが鼻をつく。そして、気づいた。

(……誰かいる)

 暗闇の中、何かがこちらを見つめている気配がする。

 そして次の瞬間、玄関の扉が背後から「バタン」と閉まり、完全な暗闇が俺を包み込んだ。

 そのまま一歩踏み出そうとしたその時、足元から「カリ……カリ……」という音が聞こえた。爪か何かで床を引っ掻くような音。耳障りな音に思わず足を止め、そちらを見下ろす。だが、何もない。


 暗闇の中、耳に残る「カリ……カリ……」という音。静寂の中に溶け込むようなその音が、妙に鮮明に響き渡る。何も見えないはずなのに、何かがそこにいる――その確信だけが俺の体を硬直させた。

 視線を動かしても、暗闇の中では何一つ確認できない。だが、音だけは確かにそこに存在している。爪で床を引っ掻くような音が、じわじわと俺の足元へと近づいてくる。

「……誰だ?」

 そう問いかけた自分の声は、空間に吸い込まれるように消えた。返事はない。ただ、音が止まった。それが逆に恐ろしかった。止まったということは、何かがこちらをじっと見ているのだ。

 そして、次の瞬間――背中にゾクリと冷たい感覚が走った。

 気配が……後ろにある。

 振り返りたい衝動を必死に抑え、俺は全身を強張らせたまま立ち尽くす。しかし、視界の端に何かが動いたのが分かった。暗闇の中で、不自然に白く光る何かが揺れている。

 恐怖を押し殺しながら振り返ろうとした瞬間、耳元で息をする音が聞こえた。低く湿った、それでいて近すぎる呼吸音。その音に、俺の体は動かなくなった。

「……アイ……シ……テル……」

 湿っぽく濁った声が、耳元で囁く。

 振り返るな――そう自分に言い聞かせながら、足を一歩踏み出した。その瞬間、肩に冷たい手が触れた。

「……っ!」

 反射的に振り返ると、そこには――何もいなかった。

 だが、視界の隅に何かが映った。暗闇の中、白い人影が床を這うように動いている。その姿を見た瞬間、心臓が壊れそうなほど鼓動を打ち、全身に汗が滲む。

 階段を駆け上がり、かつての自分の部屋に飛び込んだ。そこには、あの頃の記憶そのままの光景が広がっていた。古びたベッド、小さな机、埃っぽい匂い――しかし、何かが違う。

 壁一面に、びっしりと「愛してる」という文字が書き殴られていた。

「……これ……俺が書いたのか?」

 そんなはずはない⋯
 その時、背後から足音が止まり、異様な気配が部屋に溢れた

 振り返ると、そこには女が立っていた。歪んだ笑みを浮かべ、じっと俺を見つめている。その目は、俺がエレベーターで見た霊と同じだった。

 女が一歩、また一歩と近づいてきた。手には、鈍く光る包丁を握っている。

「……イ……アシ……アイテル…………ずっと……」

 その声が耳に届いた瞬間、気づけば女の顔が目の前にあり、冷たい手が俺の顔に触れていた。

「……お前は……お母さんを……父さんを……!」

 女が姿を消し、異様な静寂が戻った。俺の心臓の鼓動だけがやけに大きく耳に響く。けれど、不思議と恐怖には支配されていなかった。むしろ――落ち着いている。

「……なんでだ……」

 自分でも、この冷静さが理解できない。あの女が引き起こした惨劇の記憶が、目の前の現実と重なり合っているというのに。頭の片隅では「逃げろ」と囁く声がするが、足はそれに逆らうように前へ進む。気づけば、俺の体はあの惨劇の舞台――リビングへと向かっていた。

 暗い廊下を歩きながら、自分の感情を探る。恐怖はあるのか?怒りは?――いや、どれも違う。ただ一つ言えるのは、胸の奥にわだかまりのような「何か」が沈んでいることだった。それが何なのか、俺には分からない。ただ、その答えを知りたい――そんな気持ちだけが、俺を動かしていた。


 リビングの扉の前で立ち止まる。僅かに開いた扉の隙間から、中の空気が漏れ出してくる。湿気と、古い血のような匂い。それを感じた瞬間、胸の奥から強い違和感が込み上げてきた。

 リビングは、異常な静けさの中にあった。埃っぽい空気が漂い、家具は崩れ落ちている。それでも、この場所があの日のまま止まっていることが分かった。目を閉じれば、あの夜の叫び声や、倒れ込む音が今にも蘇ってきそうだった。

 そして――目に飛び込んできた。

 床にこびりついた、茶色く変色した血痕。それは鮮明に、あの日の光景を思い出させる。母さんが倒れた場所、父さんが崩れ落ちた場所。その全てがここにあった。

 俺は震える手で床に触れた。冷たい。その感触が、記憶の深い場所を無理やり引きずり出す。

「……守、ドアを開けちゃダメだよ……」

 母さんの言葉が、頭の中に響く。守ることができなかったその言葉が、今さらになって重くのしかかる。

「俺が……全部……」

 女は這いずるように近づき、その異様な動きから耳障りな音がリビング中に響いていた。

 カタ……ズリィ……ズリィ……

 冷たい汗が背中を伝う中、俺は立ち尽くしていた。目の前で迫りくる彼女の姿は、まるで人形のように無機質で、それでいて禍々しい生命を感じさせた。その瞳はまばたき一つせず、じっと俺を見つめている。

「……なんで……」

 声にならない問いが漏れる。頭の中では、過去の記憶が何度も何度も繰り返されていた。

 俺があの日、鍵を開けなければ――。
 彼女が俺たちの家に現れなければ――。
 全てが、違う結末になっていたかもしれない。

 だけど、それは全部「もしもの話」だ。現実は変わらない。俺が鍵を開け、彼女が家に入り、全てを壊した。母さんを、父さんを――俺の大切なものを奪っていった。

 そして、今ここにいる俺だけが「生きている」。

 なぜ、俺だけを生かした?

「なんで俺だけ……」

 俺の震える声が空間に吸い込まれるように消えた。その答えを女に求めても、彼女はただ不気味に微笑みながら、無機質な視線を俺に向けているだけだった。だが、その時――。

「貴方を愛してるからよ。」

 背後から静かに響いた声に、俺は反射的に振り返った。そこには、三枝沼が立っていた。

「……三枝沼?」

 なんでここに?疑問が頭をよぎるが、それを考える間もなく、目の前の状況に胸がざわつく。こんな場所に三枝沼がいるべきではない――危険すぎる!

「三枝沼、早く逃げろ!」

 慌てて声を上げたが、言葉が届く前に女が動いた。今まで這いずるような緩慢な動きだった彼女が、三枝沼を見た瞬間、凄まじい勢いでその身体を翻し、彼女に向かって突進してきた。

「危ない!!!」

 必死に叫びながら俺は腕を伸ばし、女を止めようと駆け出した。しかし、間に合わない。女は狂気を宿した目で三枝沼を見つめながら、異常な速度で彼女との距離を詰めていく。

 その瞬間、三枝沼は静かに、しかしどこか冷たい目で女を見つめた。そして、ゆっくりと口を開いた。

「……貴女の子供じゃないわ。」

 その言葉に、女の動きがピタリと止まった。まるで時間が凍りついたかのように、空気が重く張り詰める。

 俺はその場に立ち尽くしながら、三枝沼の言葉の意味を考えていた。

「私が本当のお母さん」

 ――あの女が俺に言った言葉。

 子供だった俺には、その言葉の意味が全く分からなかった。ただ怖くて、不安で、頭の中をかき乱すような響きとして残っただけだった。そして今、その言葉が再び頭の中を駆け巡る。

「……俺は……」

 混乱する俺の目の前で、三枝沼が一歩前に出る。冷たい目をした彼女は、女を見据えながら言い放った。

「その歪んだ愛で、どれだけの人を傷つけたか分かってる?この人に執着して、何を得られるつもりだったの?」

 三枝沼の言葉に、女は一瞬だけ表情を揺らした。しかし次の瞬間、狂ったような笑みを浮かべ、再び彼女に向かって這い寄り始めた。

 俺は叫びながら駆け寄る。女が欲しがった言葉で

「やめて!!!お母さん!!!」
 
 喉から絞り出されたその言葉が、空間を裂くように響いた。


 女は突進の勢いを止め、その場で硬直したかのように動きを止めた。歪んだ顔が、まるで言葉の意味を理解しようとしているかのように微かに揺れる。

「……お母さん……?」

 その掠れた声は、初めて聞くほど脆く、感情の混じったものだった。女の瞳に狂気の色がかすかに引き、何かを訴えかけるように俺を見つめている。

 女の影が静かに俺を包み込む。その冷たさに、恐怖や怒りよりも、妙な悲しさが胸を締め付けた。

 愛というものが、こんなにも歪むことがあるのか――

 頭の中で浮かぶのは、女とお父さんの関係だった。

 女は、お父さんを愛していた――狂気じみたほどに、強く。だが、その愛の先に待っていたのは悲劇だった。女は子供を持てない身体だった。どれだけ願っても、どれだけ努力しても、彼女の望みは叶わなかった。それが原因でお父さんとの関係が壊れたのか、それともお父さんにとって彼女との関係が最初から「遊び」だったのか――俺には分からない。ただ一つ確かなのは、女がその事実に耐えられなかったということだ。

 子供ができないから、お父さんの愛が冷めたんだ……

 彼女はそう思い込むことで、自己を保っていたのだろう。そして、そんな思い込みが、彼女を次第に狂わせていった。

 女は、お父さんがお母さんとの間に作った子供――俺――を憎んでいたはずだった。彼女にとって俺は、自分が手にすることができなかった幸せの象徴であり、同時に、お父さんを奪った存在だったのだろう。

 だが、その憎しみはいつしか歪み、別の形に変わっていった。

 女は、俺を「自分の子供」だと思い込むようになった。お父さんと自分の間に生まれるはずだった、幻の子供――それが、彼女の中で俺と重なった。最初は憎しみだった視線が、次第に歪んだ愛情に変わり、狂気が彼女の心を支配していった。

 最初から狂っていたのか、それとも愛が彼女を狂わせたのか……俺には分からない。ただ、一つだけ言えるのは、女の「愛の強さ」が本物だったということだ。

 ――でも、それは本当に愛なのか?

 胸の中で疑問が渦巻く。三枝沼の言葉が、耳の奥で響く。

「本当の愛は、相手を壊さない。」

 彼女の言葉の意味が、今なら少しだけ分かる気がする。女の愛は、確かに強かった。だが、それは相手を縛り、壊し、そして自分自身すらも破滅させるものだった。そんなものが、本当に「愛」と呼べるのだろうか

 影の中で、女が静かに泣いているのが分かった。その涙が、俺の頬を冷たく濡らしていくような気がした。

 そして、影はゆっくりと薄れていった。女の姿は消え、リビングには静けさだけが残った。俺はその場に崩れ落ち、胸の奥で何かが軋む音を感じながら、ただ呆然と天井を見つめていた。

 女の愛は、本物だった。
 でも――俺は、それを受け入れることはできない。

 胸の奥に刺さる痛みを噛み締めながら、俺はゆっくりと三枝沼に視線を向けた。リビングの薄暗い空間の中で、彼女の無表情な横顔が浮かび上がる。その冷静さが、逆に切なく思えるほどだった。

 三枝沼は目を伏せ、静かに呟いた。

「……駄目って言ったわよ。」

 淡々としたその声には、かすかに責めるような響きが含まれていた。だが、それ以上に、彼女の中にある哀しみが伝わってきた。

 俺は苦笑いを浮かべ、肩を落とす。

「自分でも、どうしたらいいかわからなかった……」

 声は掠れ、自分の弱さが嫌になる。ずっと心の中に閉じ込めていたものが、今になって溢れ出しそうだった。

 三枝沼は俺の顔をじっと見つめた。その目には、いつもの冷たい知性だけではなく、どこか人間らしい温かさが垣間見えた。そして、言葉を選ぶようにしながら続ける。

「……貴方のご両親が、私のところに来たの。」

「……え?」

 意外すぎる言葉に、思わず目を見開く。

「貴方にしか見えなかった、ご両親を守っていた霊――呪いが、貴方が危ないって知らせてくれたの。」

「……呪い?」

 その言葉に、全身が凍りついた。あの両親が、俺を守りながら縛られていたなんて――そして、それを「呪い」と呼ぶなんて。

 三枝沼は静かに頷く。その無表情の中に、深い哀愁が宿っていた。

「貴方の後悔が、ずっとご両親をこの世に縛っていたの。彼らが自ら望んで貴方を守り続けていたにしても、その理由は、貴方が過去に向き合おうとしなかったから。」

 彼女の言葉が、胸に突き刺さる。俺は、何も言えなかった。ただ、立ち尽くすことしかできなかった。

 三枝沼は続ける。その声は低く、しかしどこか優しさを感じさせた。

「あの女も同じよ。貴方の過去への恐怖や後悔が、彼女をこの場所に縛り付けた。そして、彼女自身も、その恐怖から逃げることで憎しみを膨らませていった……。」

 俺の足元が崩れるような感覚に襲われる。両親を、女を――俺が縛りつけていた?

「……笑えるな。」

「……笑えるな。」

 自分でも信じられないほど、掠れた声で笑いが漏れた。その笑いは、皮肉と自己嫌悪が混ざり合ったものだった。

「死んだ人間にまで迷惑をかけてたのかよ……俺って、本当にどうしようもないな。」

 三枝沼はその言葉に反応せず、ただ静かに立っていた。その沈黙が、逆に俺の胸を締め付ける。

「……俺は、両親を救えなかっただけじゃなくて、死んだ後も苦しめてたのか。」

 そう呟く俺を、三枝沼はじっと見つめる。その目には非難の色はなく、ただ真実を伝える重みだけがあった。

「……守りたかったのよ。どんな形であれ、彼らにとって貴方はそれだけ大事だったの。」

 その言葉が、深い傷跡のように胸に残る。彼らは死んでなお、俺を守ろうとしていた。それなのに、俺は――。

「どうすれば……どうすれば良かったんだよ……」

 俺の声は震えていた。怒りでも、恐怖でもない。ただ、圧倒的な罪悪感と後悔が混ざり合ったものだった。

 三枝沼は一歩近づき、肩にそっと手を置いた。その手は冷たくもなく、確かな温もりを感じた。

「……でも貴方は過去と向き合った。それを動かしたのは罪悪感でも向き合った。後は貴方が選ぶだけ、ご両親との日々を望むのか⋯過去を受け入れるのか。」

 三枝沼の言葉は淡々としているが、その中には確かな信念が込められていた。

 俺は目を閉じた。浮かび上がるのは、両親の笑顔と、あの夜の惨劇。背負ってきたものを捨てるには、それを正面から見つめなければならない。そう分かっていても、怖かった。

 けれど――もう逃げない。

「……俺は……もう逃げない。」

 ふっと見ると、いつの間にか両親がいた。

 リビングの薄暗い空間の中、二人の姿が静かに佇んでいる。彼らの存在感は確かにそこにあった――けれど、それが現実なのか、俺が作り出した幻想なのかは分からない。

 三枝沼に見えているのかどうかも分からなかった。ただ、彼女は何も言わず、いつもの無表情で俺を見つめている。

 ――これが俺の呪いなのか。

 俺が作り出し、俺の目にだけ映る存在なのかもしれない。それでも、三枝沼が言っていた。「貴方のご両親が私のところに来たの。」 それが本当なら、目の前にいる二人は現実なのかもしれないし、違うのかもしれない。

 霊とは何だろうか。

 人の作り出した「思い」の形なのだろうか。それとも、何か強い感情が人を霊にしてしまうのか――俺には答えが分からなかった。ただ一つ分かるのは、両親が今ここにいるという事実だけだった。

 俺はじっと二人を見つめる。彼らの顔は、ぼんやりとした記憶の中のそれとは違い、驚くほど鮮明だった。何度も忘れかけたその顔が、今は息を呑むほどはっきりと俺に微笑みかけている。

 三枝沼がいる前だというのに、俺はもう情けなさやプライドを気にしている余裕はなかった。胸の奥に溜め込んでいた後悔が、抑えきれず溢れ出す。

「……ごめんなさい……」

 小さな呟きが、涙と共に口からこぼれる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 声は次第に大きくなり、止めどなく流れる涙が頬を濡らす。

「鍵を開けて……ごめんなさい。悪さして……ごめんなさい。縛っていて……本当に……ごめんなさい……!」

 いくつもの謝罪が口をついて出る。両親が亡くなったあの日から今まで、一度も言えなかった謝罪を、俺はようやく口にすることができた。

 ふと、両親を見る。二人は、ただ微笑んでいた。優しく、穏やかに。まるで、「もういいんだ」とでも言うように。

 その笑顔に、また涙が溢れる。年月が経つにつれ、記憶の中でぼんやりと霞んでいた顔が、今はこんなにもはっきりと見える。

 ――これが最後だろう。

 そう思いながらも、心の中には静かな安堵が広がっていた。

「ああ……良かった……。父さん、母さん……しっかり顔が見えた……。」

 涙を流しながら、俺は微笑む二人を見つめた。ずっと見たかった顔。ずっと謝りたかった人たち。それがここにいる――それだけで、胸の中に詰まっていた後悔が少しだけ軽くなった気がした。

 三枝沼はそんな俺を見守りながら、小さく息をついて言った。

「……帰りましょう」

 その言葉に、俺はまた涙をこぼしながら、静かに頷いた。


 夜の道を二人で歩く静かな時間。空気は冷たく、街灯がぽつぽつと足元を照らす。俺は、ふと口を開いた。

「その……ありがとな。」

 自分でも不器用な言葉だと分かっていたが、それでも伝えたかった感謝だった。両親との再会、あの呪いの終わり――三枝沼がいなければ、俺はそれを乗り越えることすらできなかった。

 三枝沼は前を向いたまま、無表情でその言葉を受け止める。ただ、彼女の反応は予想していたものとは少し違っていた。

「御礼を言われると困るわ。」

 冷静であっさりとしたその言葉に、俺は思わず眉をひそめた。

「……なんで困るんだよ?」

 疑問を浮かべる俺をよそに、三枝沼は淡々と続けた。

「貴方が今まで家で霊現象に会わなかったのは、貴方の両親が守っていたからだもの。」

 その言葉に、俺は驚きと不安が混じった声を漏らした。

「……え?」

 両親が守ってくれていた――そうか、あの静かな家で起きなかった異常な現象も、全ては二人のおかげだったのか。しかし、それなら――。

 三枝沼は言葉を続け、妙に意味深な笑みを浮かべた。

「これから先は、もっと大変かもね。」

 その一言が、心の奥に冷たい影を落とした。彼女の笑みは、俺が初めて彼女と出会った時に感じたぞっとするような不気味さを思い出させた。

 だが、俺はもうあの頃の俺ではない。呪いと向き合い、両親と別れた今、逃げるつもりはなかった。

「そしたら……助けてくれよ。」

 俺は強がりのような笑みを浮かべながら、そう返してやった。

 すると、三枝沼は足を止め、ゆっくりと俺に振り返った。その顔にはいつもの無表情ではなく、微かな笑みが浮かんでいた。

「ええ、勿論。」

 その言葉に安心する間もなく、彼女は小さく呟いた。

「あの頭のおかしい女性の気持ちが、少し分かるかもね。」

「……は?」

 俺が聞き返す前に、彼女はさらに続けた。

「裏切ったら許さないから。」

 淡々とした声に浮かぶ、底知れない何か。それに気づいた瞬間、彼女の笑顔がやけに鋭く見えた。夜の冷気が背中を刺すように感じる。

「……あんなことがあった俺に言うセリフかよ……」

 皮肉っぽく呟いたが、その笑みに込められた本気のような気配に、笑うこともできなかった。

 幽霊は怖い――そう思っていた。けれど、大人になるにつれてその感情は薄れていき、いつしか「本当に怖いのは人間だ」と思うようになっていた。

 なぜか?霊だって、元は人間だからだ。

 三枝沼、いや三枝沼 三輪。この不思議で、どこか底が知れない彼女は、人間でありながら、その言葉と態度は人間離れしているように思える。

 その存在が、これからの俺の人生にどう影響していくのか――想像もつかない。

 彼女が見せた笑みに込められた狂気のような感情。それを思い出すたび、俺は改めて思う。

 ――三枝沼さえぬま 三輪みわは怖い。 
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