同棲彼女が寝室で喘いでたので、僕は静かに鍵を置いて全てを捨てた。数年後、絶望する彼女と破滅する間男を横目に、僕は新しい人生を謳歌する

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第五話 僕が捨てたもの、そして得たもの(エピローグ)

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ホテルのエントランスを出て、隣を歩く紗英との会話に相槌を打ちながらも、僕の意識の片隅は背後の気配を正確に捉えていた。
天唄響歌。
ガラスに一瞬映ったその姿は、僕の記憶の中にある彼女とは似ても似つかない、影のように薄い存在だった。驚きも、憐れみも、憎しみさえも、僕の心には浮かんでこなかった。凪いだ湖面に小石を投げ込まれたかのように、ほんのわずかな波紋が立っただけですぐに消えていく。彼女はもはや、僕の人生における登場人物ではなく、完全に削除済みの過去のデータでしかなかったのだ。

僕は振り返らなかった。振り返る必要も、価値もない。僕の時間は前にしか進んでいない。過去という名の澱みに足を取られている暇はないのだ。

「湊さん、さっきから何か考え事?」
「いや、今日の君は一段と綺麗だと思って、見惚れていただけだよ」

僕がそう言うと、橘紗英(たちばなさえ)は「もう、お上手なんだから」と嬉しそうに頬を染めた。彼女は僕が立ち上げたコンサルティング会社の、最も信頼するビジネスパートナーだ。聡明で、自立していて、そして何より、僕の仕事への情熱を深く理解してくれている。いつしか僕たちは仕事上の関係を超え、互いに惹かれ合うようになっていた。

数日後、僕のオフィスのデスクに、探偵からの最後の報告書が届けられた。
皇龍牙は、巨額の損害賠償を背負って自己破産。かつての華やかな生活とは無縁の日雇い肉体労働で、その日暮らしの生活を送っているらしい。酒に溺れ、荒んだ日々を送る彼の周りには、もはや誰もいない。彼がかつて誇っていたプライドは、今の彼を苛むだけの呪いとなっているようだ。
僕はその報告書を一瞥すると、何の感慨も抱くことなく、そのままシュレッダーにかけた。細かく裁断された紙片が、ゴミ箱へと落ちていく。
これで、清算は全て終わった。僕の人生を汚した異物は、完全に駆除された。長かった「作業」の、静かな終わりだった。

「湊さん、何をシュレッダーにかけているんですか? 大事な書類だったりして」

コーヒーカップを片手に、紗英が僕のデスクの前に立った。彼女の柔らかな笑顔は、この無機質になりがちなオフィスに温かな光をもたらしてくれる。

「古い書類だよ。もう必要ないから、整理していたんだ」
「そう。お疲れ様です」

彼女は僕の過去を何も知らない。僕がかつて、一人の女性に全てを捧げ、そして全てを奪われたこと。その絶望の底から這い上がるために、冷徹な復讐者となったこと。そして今、その全てを終えたこと。
僕は、彼女にその過去を話すつもりはなかった。復讐は、過去に区切りをつけ、汚された自分の魂を浄化し、新しい人生を始めるための、僕一人だけの「儀式」だったのだから。もう、その儀式は終わった。これからは、未来だけを見て生きていけばいい。

その夜、僕と紗英は、東京の夜景を一望できる高層ビルの最上階にあるレストランで食事をしていた。窓の外には、無数の光の粒がまるで宝石をちりばめたかのように広がっている。

「どうしたの、湊さん。さっきから窓の外ばかり見て。お料理、冷めちゃいますよ」

紗英が、僕の心を覗き込むように優しく問いかける。

「いや、今日の夜景は格別に綺麗だと思ってね」

僕の脳裏に、かつて響歌と共に見た夜景が不意に蘇った。安アパートの小さな窓から、二人で肩を寄せ合って見た、ささやかな街の灯り。あの頃の僕は、その光の向こうに、彼女との輝かしい未来を夢見ていた。
だが、その記憶が胸を締め付けることはもうない。あの日の絶望と裏切りは、僕という人間を一度殺し、そして再生させた。あの経験があったからこそ、僕は強くなれた。あの日の痛みが、今の僕を形作る礎となっている。そう思えば、過去の全てが無駄ではなかったのかもしれない。

失ったものは、確かに大きかった。人を無条件に信じる心。純粋な愛情。けれど、僕が得たものは、それ以上に大きい。
困難に立ち向かう強さ。物事の本質を見抜く洞察力。そして何より、隣で僕を信じ、支えてくれる紗英というかけがえのない存在。

僕は、テーブルの上にある紗英の左手に、そっと自分の手を重ねた。驚いて僕を見る彼女の瞳に、僕の姿が映っている。

「紗英」
「はい」
「これからもずっと、一緒にこの景色を見ていってくれるかな」

それは、不器用な僕なりのプロポーズだった。
僕の言葉の意味を正確に理解した紗英の目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。そして、彼女は、僕が今まで見た中で最高の、花が綻ぶような笑顔で、力強く頷いた。

「……はい、喜んで」

その瞬間、僕の中で、本当に何かが終わった気がした。
天唄響歌への復讐劇は、静かに幕を下ろした。いや、そもそもあれは復讐ですらなかったのかもしれない。ただ、過去の亡霊を振り払い、僕が僕自身の人生を取り戻すための、長い闘いだったのだ。

僕はポケットから小さなベルベットの箱を取り出し、開いて紗英の前に差し出した。シンプルなデザインながらも、中央でひときわ強く輝くダイヤモンドの指輪。
それは、誰かのためにバイト代を貯めて買ったものではない。僕が、僕自身の力で手に入れた成功の証であり、紗英と共に歩む未来への誓いの証だ。

指輪を彼女の薬指にはめてやると、その輝きが窓の外の夜景に負けないほどの光を放った。
僕たちはどちらからともなく微笑み合い、グラスを軽く打ち鳴らす。カチン、という澄んだ音が、二人の新しい門出を祝福しているようだった。

僕が捨てたのは、偽りの愛と、脆い幸福が乗った泥舟だった。
そして僕が得たのは、揺るぎない信頼と、自分の力で未来を切り拓いていくという確信。そして、心から愛せるパートナーだ。

失踪から三年。
夜凪湊の本当の人生は、愛する人と共に、この輝く夜景の中で、今、静かに始まった。
もう二度と、過去を振り返ることはないだろう。僕の前には、どこまでも明るい未来が広がっているのだから。
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