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第一話 偽りのマイホーム、綻びの週末
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柔らかな朝の光が、リビングの大きな窓から差し込んでいる。床に広がる光の四角形は、まるで僕たちの未来を祝福しているかのようだ。僕は淹れたてのコーヒーが注がれたマグカップを両手で包み込み、その温かさと香りをゆっくりと味わった。
「パパ、見てー! お花にお水あげたよ!」
庭に面したウッドデッキから、六歳になる娘の詩(うた)が満面の笑みで手を振る。その隣では、四歳の息子、湊(みなと)が姉の真似をして小さなジョウロを懸命に傾けていたが、中身はとうに空っぽだった。微笑ましい光景に、自然と口元が緩む。
「偉いな、詩。湊もありがとう。お花、喜んでるよ」
僕の声に、二人はきゃっきゃっと声を上げて笑い合う。この声が、この笑顔が、僕のすべてだ。
視線を室内に戻すと、アイランドキッチンで朝食の準備をする妻、理亞(りあ)の後ろ姿があった。小気味よい包丁の音、フライパンの上でベーコンが焼ける香ばしい匂い。結婚して八年、彼女が奏でる生活の音は、僕にとって世界で最も心地よい音楽だった。
「蒼、もうすぐできるわよ。顔、洗ってきたら?」
振り返った理亞が、優しい声で言う。昔から変わらない、少しあどけなさの残る笑顔。僕はこの笑顔に救われ、この笑顔を守るために生きてきた。
「ああ、そうするよ」
席を立ち、洗面所へ向かう。鏡に映った自分の顔は、三十五歳という年齢以上に穏やかに見えた。中堅IT企業でチームリーダーを任され、仕事は順調。念願だった注文住宅のマイホームも昨年完成した。そして何より、僕には世界一の妻と、天使のような子供たちがいる。
これ以上何を望むというのだろう。完璧な人生。手垢のついた言葉だが、心からそう思っていた。
理亞とは会社の同僚だった。営業事務として入社してきた彼女は、いつも明るく、誰にでも分け隔てなく接する太陽のような女性だった。部署は違ったが、何度か仕事で関わるうちに、その人柄と笑顔にどうしようもなく惹かれていった。必死のアプローチの末に交際が始まり、二年後にプロポーズしたときのことは今でも鮮明に覚えている。
『私で、いいの?』
涙を浮かべながらそう問いかけた彼女を、力強く抱きしめた。『理亞じゃなきゃ、駄目なんだ』と。
結婚を機に彼女は退職し、専業主婦となった。それから詩が生まれ、湊が生まれ、僕たちの世界はより一層、幸福な色で満たされていった。僕が仕事に打ち込めるのも、理亞が家庭という名の城を完璧に守ってくれているからだ。感謝してもしきれない。
「さあ、みんな、ご飯にしましょう!」
理亞の明るい声で、僕は感傷的な回想から現実へと引き戻された。テーブルには、彩り豊かな朝食が並んでいる。スクランブルエッグにカリカリのベーコン、新鮮な野菜サラダ、そして焼きたてのトースト。何気ない週末の朝食。それが、こんなにも満ち足りていて、温かい。
「「いただきまーす!」」
子供たちの元気な声が響く。僕も理亞も、それに合わせて手を合わせた。
「湊、お口にケチャップついてるわよ」
理亞が優しく息子の口元をナプキンで拭う。湊はそれがくすぐったいのか、身をよじって笑った。詩は「わたし、ひとりでできるもん」と、少しお姉さんぶってフォークを巧みに使っている。
すべてが順調だ。何もかもが、僕の思い描いた理想の通りに。
……そのはず、だった。
食事が一段落し、僕がコーヒーのおかわりを淹れている時だった。ふと、ダイニングテーブルに置かれた理亞のスマートフォンが目に入った。画面を下にして、まるで何かを隠すように。
ほんの些細なことだ。だが、その小さな違和感が、ここ数ヶ月、僕の心の隅に澱のように溜まっていた。
以前の理亞は、スマホにそれほど執着するタイプではなかった。リビングのどこかに置きっぱなしにしていることも多く、僕が彼女のスマホで調べ物をしたり、子供たちが勝手にカメラで遊んだりすることも日常茶飯事だった。
だが、いつからだろう。彼女がスマホを肌身離さず持ち歩くようになったのは。食事の時も、トイレに行く時も、風呂に入る時でさえ、防水ケースに入れて持ち込んでいる。そして、僕が近くにいる時は決まって画面を伏せて置くようになった。
最初は、ママ友との付き合いが活発になったからだと思っていた。詩が小学校に上がるのを前に、地域の情報交換が重要になるのだろうと。彼女の世界が広がるのは良いことだ。そう、自分に言い聞かせていた。
「理亞、また連絡?」
背後から、努めて明るい声で尋ねてみる。彼女の肩が、ほんの少しだけ強張ったように見えたのは、気のせいだろうか。
「え? あ、うん……。まあ、そんなところ。来週のランチのことで、ちょっとね」
理亞は振り返らず、スマホの画面をタップしながら答える。その声はいつも通りなのに、どこか空虚に響いた。僕はそれ以上何も言えず、自分の席に戻って再びコーヒーを口に含んだ。苦い後味が、やけに舌に残った。
その日の午後は、家族で新しくできた大型ショッピングモールへ出かけることにした。週末のモールは多くの家族連れで賑わっていて、その喧騒が僕の心に燻る小さな靄を少しだけ晴らしてくれた。
「パパ、あのおもちゃ屋さん、行きたい!」
「湊はアイス食べたーい!」
両側から腕にまとわりついてくる子供たちを交互になだめながら、僕たちは目的もなくフロアを歩いた。理亞は子供たちの服を選んだり、雑貨を手に取ったりして、心から買い物を楽しんでいるように見えた。その楽しげな横顔を見ていると、朝感じた違和感など、僕の考えすぎだったのだと思えてくる。
「少し、休憩しないか? フードコートでジュースでも飲もう」
歩き疲れた僕の提案に、全員が賛成した。幸いにも窓際の席が一つ空いていた。子供たちのジュースと僕たちのコーヒーを買い、席に戻る。窓の外には、整備された公園の緑が広がっていた。
「わあ、ここからだと公園がよく見えるね。今度、あそこでお弁当食べたいな」
理亞がそう言って微笑む。僕は「そうだな、暖かくなったらピクニックに行こう」と答えた。そうだ、僕たちの家族は何も変わらない。この幸せは、これからもずっと続いていく。そう信じたかった。
「ごめん、ちょっとお手洗い」
しばらくして、理亞がそう言って席を立った。詩と湊は、買ってもらったばかりの小さなオモチャに夢中になっている。僕はコーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
その時だった。
テーブルの上に置き忘れられた理亞のスマホが、ぶぅ、と短く震え、画面が光った。ロック画面に表示された通知のポップアップ。何気なく、本当に何の気なしに、僕の視線はそこへ吸い寄せられた。
そして、僕の思考は、完全に停止した。
そこに表示されていたのは、見慣れた名前だった。
『黒瀬部長』
黒瀬玄間。僕が所属する部の部長であり、理亞が退職する前に所属していた営業部の、当時の上司だ。なぜ、部長が? プライベートで?
そして、僕の全身から血の気が引くのを、はっきりと感じた。メッセージのプレビューに表示された、短い一文。
『次の週末、例の場所で。楽しみにしてるよ』
……例の場所? 楽しみにしてる?
頭の中で、その言葉が何度も何度も反響する。理解が追いつかない。会社の部長が、部下の妻に送るメッセージではない。どう考えても。そこに漂う空気は、あまりにも親密で、馴れ馴れしかった。
すぐに画面は暗転し、テーブルの上には何事もなかったかのように黒い板が横たわっている。だが、僕の網膜には、あの白い文字が焼き付いて消えなかった。心臓が、まるで誰かに鷲掴みにされたように痛む。冷たい汗が、背中を伝うのが分かった。
「お待たせ。どうかしたの? 蒼、すごい顔色よ」
何も知らない理亞が、呑気な声で戻ってきた。そして、テーブルの上のスマホを自然な仕草で手に取り、自分のバッグにしまい込む。その一連の動きが、スローモーションのように見えた。
「……いや、なんでもない。少し、人混みに酔っただけだ」
絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。理亞は「そう? 大丈夫?」と僕の顔を覗き込むが、その瞳をまっすぐに見返すことができなかった。
今まで僕が見て見ぬふりをしてきた、数々の小さな違和感のピースが、頭の中で急速に繋がり始めた。
最近増えた『ママ友とのランチ』。以前よりも帰りが遅くなることがあった。
僕が出張で家を空ける日に限って、『友人の結婚式で実家に泊まる』と言っていたこと。
時折、僕の知らない新しい香水の匂いが、彼女の服から微かに香ったこと。
僕がプレゼントした覚えのない、少し趣味の違うネックレスを身につけていた日。
そのすべてが、黒瀬部長からの、あのメッセージにつながっていく。パズルのピースが、恐ろしい絵を形作っていくように。
帰り道の車内は、奇妙な静寂に包まれていた。後部座席では、遊び疲れた詩と湊が寄り添うようにして眠りに落ちている。その寝顔は、無垢な天使そのものだ。
助手席の理亞は、ラジオから流れるポップスに合わせて、静かに鼻歌を歌っている。幸せそうだ。何も知らず、何も疑わず、ただ目の前の幸福を享受している。……あるいは、僕を完璧に欺きながら、別の幸福をも享受しているのか。
ハンドルを握る僕の手は、汗でじっとりと湿っていた。平静を保つのに、全神経を集中させなければならなかった。アクセルを踏む足が、怒りで震えそうになるのを必死でこらえる。
やがて、見慣れた我が家が見えてきた。オレンジ色の夕日に染まる、真新しい白い壁。僕たちの夢と希望が詰まった、幸せの象徴。
だが今、そのマイホームは、まるで張りぼてのセットのように空虚に見えた。ここで繰り広げられてきた僕たちの幸せな日々は、すべて理亞が演じていた、巧妙な演劇だったというのか。
「ただの勘違いだ。きっと、何か仕事の用事の、行き違いなんだ」
心の中で、必死にそう繰り返す。信じたい。僕の愛した理亞が、僕たちの大切な家庭を裏切るはずがない。あの笑顔が、優しさが、嘘であるはずがない。
しかし、僕の心の奥深くでは、冷徹なもう一人の自分が囁いていた。
真実を確かめろ、と。
ガレージに車を停め、エンジンを切る。訪れた静寂の中、僕は隣に座る妻の横顔を盗み見た。僕の葛藤など露知らず、彼女は眠っている子供たちを愛おしそうに見つめている。
その横顔が、初めて見る他人のように、ひどく遠く感じられた。
僕の完璧だった世界に、最初の、そして決定的な亀裂が入った瞬間だった。
「パパ、見てー! お花にお水あげたよ!」
庭に面したウッドデッキから、六歳になる娘の詩(うた)が満面の笑みで手を振る。その隣では、四歳の息子、湊(みなと)が姉の真似をして小さなジョウロを懸命に傾けていたが、中身はとうに空っぽだった。微笑ましい光景に、自然と口元が緩む。
「偉いな、詩。湊もありがとう。お花、喜んでるよ」
僕の声に、二人はきゃっきゃっと声を上げて笑い合う。この声が、この笑顔が、僕のすべてだ。
視線を室内に戻すと、アイランドキッチンで朝食の準備をする妻、理亞(りあ)の後ろ姿があった。小気味よい包丁の音、フライパンの上でベーコンが焼ける香ばしい匂い。結婚して八年、彼女が奏でる生活の音は、僕にとって世界で最も心地よい音楽だった。
「蒼、もうすぐできるわよ。顔、洗ってきたら?」
振り返った理亞が、優しい声で言う。昔から変わらない、少しあどけなさの残る笑顔。僕はこの笑顔に救われ、この笑顔を守るために生きてきた。
「ああ、そうするよ」
席を立ち、洗面所へ向かう。鏡に映った自分の顔は、三十五歳という年齢以上に穏やかに見えた。中堅IT企業でチームリーダーを任され、仕事は順調。念願だった注文住宅のマイホームも昨年完成した。そして何より、僕には世界一の妻と、天使のような子供たちがいる。
これ以上何を望むというのだろう。完璧な人生。手垢のついた言葉だが、心からそう思っていた。
理亞とは会社の同僚だった。営業事務として入社してきた彼女は、いつも明るく、誰にでも分け隔てなく接する太陽のような女性だった。部署は違ったが、何度か仕事で関わるうちに、その人柄と笑顔にどうしようもなく惹かれていった。必死のアプローチの末に交際が始まり、二年後にプロポーズしたときのことは今でも鮮明に覚えている。
『私で、いいの?』
涙を浮かべながらそう問いかけた彼女を、力強く抱きしめた。『理亞じゃなきゃ、駄目なんだ』と。
結婚を機に彼女は退職し、専業主婦となった。それから詩が生まれ、湊が生まれ、僕たちの世界はより一層、幸福な色で満たされていった。僕が仕事に打ち込めるのも、理亞が家庭という名の城を完璧に守ってくれているからだ。感謝してもしきれない。
「さあ、みんな、ご飯にしましょう!」
理亞の明るい声で、僕は感傷的な回想から現実へと引き戻された。テーブルには、彩り豊かな朝食が並んでいる。スクランブルエッグにカリカリのベーコン、新鮮な野菜サラダ、そして焼きたてのトースト。何気ない週末の朝食。それが、こんなにも満ち足りていて、温かい。
「「いただきまーす!」」
子供たちの元気な声が響く。僕も理亞も、それに合わせて手を合わせた。
「湊、お口にケチャップついてるわよ」
理亞が優しく息子の口元をナプキンで拭う。湊はそれがくすぐったいのか、身をよじって笑った。詩は「わたし、ひとりでできるもん」と、少しお姉さんぶってフォークを巧みに使っている。
すべてが順調だ。何もかもが、僕の思い描いた理想の通りに。
……そのはず、だった。
食事が一段落し、僕がコーヒーのおかわりを淹れている時だった。ふと、ダイニングテーブルに置かれた理亞のスマートフォンが目に入った。画面を下にして、まるで何かを隠すように。
ほんの些細なことだ。だが、その小さな違和感が、ここ数ヶ月、僕の心の隅に澱のように溜まっていた。
以前の理亞は、スマホにそれほど執着するタイプではなかった。リビングのどこかに置きっぱなしにしていることも多く、僕が彼女のスマホで調べ物をしたり、子供たちが勝手にカメラで遊んだりすることも日常茶飯事だった。
だが、いつからだろう。彼女がスマホを肌身離さず持ち歩くようになったのは。食事の時も、トイレに行く時も、風呂に入る時でさえ、防水ケースに入れて持ち込んでいる。そして、僕が近くにいる時は決まって画面を伏せて置くようになった。
最初は、ママ友との付き合いが活発になったからだと思っていた。詩が小学校に上がるのを前に、地域の情報交換が重要になるのだろうと。彼女の世界が広がるのは良いことだ。そう、自分に言い聞かせていた。
「理亞、また連絡?」
背後から、努めて明るい声で尋ねてみる。彼女の肩が、ほんの少しだけ強張ったように見えたのは、気のせいだろうか。
「え? あ、うん……。まあ、そんなところ。来週のランチのことで、ちょっとね」
理亞は振り返らず、スマホの画面をタップしながら答える。その声はいつも通りなのに、どこか空虚に響いた。僕はそれ以上何も言えず、自分の席に戻って再びコーヒーを口に含んだ。苦い後味が、やけに舌に残った。
その日の午後は、家族で新しくできた大型ショッピングモールへ出かけることにした。週末のモールは多くの家族連れで賑わっていて、その喧騒が僕の心に燻る小さな靄を少しだけ晴らしてくれた。
「パパ、あのおもちゃ屋さん、行きたい!」
「湊はアイス食べたーい!」
両側から腕にまとわりついてくる子供たちを交互になだめながら、僕たちは目的もなくフロアを歩いた。理亞は子供たちの服を選んだり、雑貨を手に取ったりして、心から買い物を楽しんでいるように見えた。その楽しげな横顔を見ていると、朝感じた違和感など、僕の考えすぎだったのだと思えてくる。
「少し、休憩しないか? フードコートでジュースでも飲もう」
歩き疲れた僕の提案に、全員が賛成した。幸いにも窓際の席が一つ空いていた。子供たちのジュースと僕たちのコーヒーを買い、席に戻る。窓の外には、整備された公園の緑が広がっていた。
「わあ、ここからだと公園がよく見えるね。今度、あそこでお弁当食べたいな」
理亞がそう言って微笑む。僕は「そうだな、暖かくなったらピクニックに行こう」と答えた。そうだ、僕たちの家族は何も変わらない。この幸せは、これからもずっと続いていく。そう信じたかった。
「ごめん、ちょっとお手洗い」
しばらくして、理亞がそう言って席を立った。詩と湊は、買ってもらったばかりの小さなオモチャに夢中になっている。僕はコーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
その時だった。
テーブルの上に置き忘れられた理亞のスマホが、ぶぅ、と短く震え、画面が光った。ロック画面に表示された通知のポップアップ。何気なく、本当に何の気なしに、僕の視線はそこへ吸い寄せられた。
そして、僕の思考は、完全に停止した。
そこに表示されていたのは、見慣れた名前だった。
『黒瀬部長』
黒瀬玄間。僕が所属する部の部長であり、理亞が退職する前に所属していた営業部の、当時の上司だ。なぜ、部長が? プライベートで?
そして、僕の全身から血の気が引くのを、はっきりと感じた。メッセージのプレビューに表示された、短い一文。
『次の週末、例の場所で。楽しみにしてるよ』
……例の場所? 楽しみにしてる?
頭の中で、その言葉が何度も何度も反響する。理解が追いつかない。会社の部長が、部下の妻に送るメッセージではない。どう考えても。そこに漂う空気は、あまりにも親密で、馴れ馴れしかった。
すぐに画面は暗転し、テーブルの上には何事もなかったかのように黒い板が横たわっている。だが、僕の網膜には、あの白い文字が焼き付いて消えなかった。心臓が、まるで誰かに鷲掴みにされたように痛む。冷たい汗が、背中を伝うのが分かった。
「お待たせ。どうかしたの? 蒼、すごい顔色よ」
何も知らない理亞が、呑気な声で戻ってきた。そして、テーブルの上のスマホを自然な仕草で手に取り、自分のバッグにしまい込む。その一連の動きが、スローモーションのように見えた。
「……いや、なんでもない。少し、人混みに酔っただけだ」
絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。理亞は「そう? 大丈夫?」と僕の顔を覗き込むが、その瞳をまっすぐに見返すことができなかった。
今まで僕が見て見ぬふりをしてきた、数々の小さな違和感のピースが、頭の中で急速に繋がり始めた。
最近増えた『ママ友とのランチ』。以前よりも帰りが遅くなることがあった。
僕が出張で家を空ける日に限って、『友人の結婚式で実家に泊まる』と言っていたこと。
時折、僕の知らない新しい香水の匂いが、彼女の服から微かに香ったこと。
僕がプレゼントした覚えのない、少し趣味の違うネックレスを身につけていた日。
そのすべてが、黒瀬部長からの、あのメッセージにつながっていく。パズルのピースが、恐ろしい絵を形作っていくように。
帰り道の車内は、奇妙な静寂に包まれていた。後部座席では、遊び疲れた詩と湊が寄り添うようにして眠りに落ちている。その寝顔は、無垢な天使そのものだ。
助手席の理亞は、ラジオから流れるポップスに合わせて、静かに鼻歌を歌っている。幸せそうだ。何も知らず、何も疑わず、ただ目の前の幸福を享受している。……あるいは、僕を完璧に欺きながら、別の幸福をも享受しているのか。
ハンドルを握る僕の手は、汗でじっとりと湿っていた。平静を保つのに、全神経を集中させなければならなかった。アクセルを踏む足が、怒りで震えそうになるのを必死でこらえる。
やがて、見慣れた我が家が見えてきた。オレンジ色の夕日に染まる、真新しい白い壁。僕たちの夢と希望が詰まった、幸せの象徴。
だが今、そのマイホームは、まるで張りぼてのセットのように空虚に見えた。ここで繰り広げられてきた僕たちの幸せな日々は、すべて理亞が演じていた、巧妙な演劇だったというのか。
「ただの勘違いだ。きっと、何か仕事の用事の、行き違いなんだ」
心の中で、必死にそう繰り返す。信じたい。僕の愛した理亞が、僕たちの大切な家庭を裏切るはずがない。あの笑顔が、優しさが、嘘であるはずがない。
しかし、僕の心の奥深くでは、冷徹なもう一人の自分が囁いていた。
真実を確かめろ、と。
ガレージに車を停め、エンジンを切る。訪れた静寂の中、僕は隣に座る妻の横顔を盗み見た。僕の葛藤など露知らず、彼女は眠っている子供たちを愛おしそうに見つめている。
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