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1.プロローグ
漂着
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目を開けたとき、まず耳に入ってきたのは、木が軋むような低い音だった。規則的で、しかしどこか不安定な揺れ。次に感じたのは、頬を刺す冷気と、舌に残る塩の味だった。
男は自分が誰なのかを知らなかった。名前も、ここへ至るまでの道程も、すべてが霧の向こうに沈んでいる。ただ、自分が生きていることと、ひどく寒いという事実だけが、確かな感覚として残っていた。
身を起こすと、そこは難破船だった。船腹は裂け、帆は破れ、甲板には薄く雪が積もっている。いつからこうして漂っていたのかも分からない。だが、船はもはや海に浮かぶ屍であり、動く気配はなかった。
霧が、前方でゆっくりと割れた。
その奥から現れたのは、巨大な島だった。断崖が壁のようにそびえ、黒い岩肌の隙間に白い雪が貼りついている。生き物の気配は感じられないのに、島そのものがこちらを見ているような、得体の知れない圧迫感があった。
男は船を降りた。濡れた靴底が砂利を踏みしめ、冷え切った音を立てる。海沿いを歩きながら、記憶の代わりになる何かを探したが、波と風の音以外、世界は沈黙していた。雪がちらつき、空と海の境界は曖昧になっていく。
どれほど歩いただろうか。
背後から、蹄の音がした。
振り返ると、霧の中から馬に乗った二人組が現れた。黒い外套に身を包み、顔の半分は影に隠れている。馬はよく訓練されているのか、波打ち際でも落ち着いていた。
二人は言葉を発さず、男を値踏みするように見下ろした。その視線には、驚きも同情もなかった。ただ、見つけた、という確信だけがあった。
逃げようとした瞬間、もう遅かった。短い号令とともに馬が動き、男は容易く取り囲まれた。冷たい手が腕を掴む。
「拿捕だ」
低い声が、冬の空気に沈んだ。
男は抵抗しなかった。なぜか、この島に辿り着いた時点で、選択肢など最初からなかったような気がしたのだ。霧は再び濃くなり、難破船も、海も、すべてが白の中へ消えていった。
男は馬の後ろに乗せられ、両脇を挟まれる形で進んだ。縄は使われなかったが、それがかえって逃げ場のなさを際立たせていた。馬の体温が、冷え切った身体にじわじわと伝わってくる。
島の内陸へ向かう道は、一本しかなかった。
踏み固められた土の道が、まっすぐ奥へ伸びている。その両脇には、鬱蒼とした森が壁のように迫っていた。葉を落とした木々が絡み合い、黒い枝先が空を引き裂くように伸びている。雪は森の奥に吸い込まれるように静まり返り、風の音すら届かなかった。
家は一軒も見当たらない。畑も、道標も、人の営みを示すものは何ひとつない。ただ、この道だけが、確かな意志をもって町へ続いているようだった。
どれほど進んでも景色は変わらなかった。時間の感覚が薄れ、男は自分が半時間も進んでいるのか、それともほんの数分なのか分からなくなった。ときおり森の奥で枝が折れる音がするたび、視線がそちらへ引き寄せられるが、そこには影しかない。
先導する男が、ぽつりと言った。
「逃げる者は、森に入る」
それだけだった。理由も、結果も語られない。その言葉は警告というより、事実の列挙に近かった。
やがて、空気が変わった。森の密度がわずかに薄れ、遠くから鈍い音が届く。金属が打ち合わされる音、低い人声、焚き火の匂い。霧の向こうに、かすかな明かりが揺れている。
町だった。
高い柵が、道を遮るように立っていた。粗末だが頑丈そうな木材で組まれ、ところどころに雪がこびりついている。門の上には見張り台があり、人影がこちらを見下ろしていた。
門が軋みながら開く。
男は、その瞬間に理解した。この一本道は、外へ続くためのものではない。ここへ連れてくるためだけに、存在しているのだと。
馬が町の中へ踏み込む。背後で門が閉じる音が響き、冬の空気が一段、重くなった。
男は自分が誰なのかを知らなかった。名前も、ここへ至るまでの道程も、すべてが霧の向こうに沈んでいる。ただ、自分が生きていることと、ひどく寒いという事実だけが、確かな感覚として残っていた。
身を起こすと、そこは難破船だった。船腹は裂け、帆は破れ、甲板には薄く雪が積もっている。いつからこうして漂っていたのかも分からない。だが、船はもはや海に浮かぶ屍であり、動く気配はなかった。
霧が、前方でゆっくりと割れた。
その奥から現れたのは、巨大な島だった。断崖が壁のようにそびえ、黒い岩肌の隙間に白い雪が貼りついている。生き物の気配は感じられないのに、島そのものがこちらを見ているような、得体の知れない圧迫感があった。
男は船を降りた。濡れた靴底が砂利を踏みしめ、冷え切った音を立てる。海沿いを歩きながら、記憶の代わりになる何かを探したが、波と風の音以外、世界は沈黙していた。雪がちらつき、空と海の境界は曖昧になっていく。
どれほど歩いただろうか。
背後から、蹄の音がした。
振り返ると、霧の中から馬に乗った二人組が現れた。黒い外套に身を包み、顔の半分は影に隠れている。馬はよく訓練されているのか、波打ち際でも落ち着いていた。
二人は言葉を発さず、男を値踏みするように見下ろした。その視線には、驚きも同情もなかった。ただ、見つけた、という確信だけがあった。
逃げようとした瞬間、もう遅かった。短い号令とともに馬が動き、男は容易く取り囲まれた。冷たい手が腕を掴む。
「拿捕だ」
低い声が、冬の空気に沈んだ。
男は抵抗しなかった。なぜか、この島に辿り着いた時点で、選択肢など最初からなかったような気がしたのだ。霧は再び濃くなり、難破船も、海も、すべてが白の中へ消えていった。
男は馬の後ろに乗せられ、両脇を挟まれる形で進んだ。縄は使われなかったが、それがかえって逃げ場のなさを際立たせていた。馬の体温が、冷え切った身体にじわじわと伝わってくる。
島の内陸へ向かう道は、一本しかなかった。
踏み固められた土の道が、まっすぐ奥へ伸びている。その両脇には、鬱蒼とした森が壁のように迫っていた。葉を落とした木々が絡み合い、黒い枝先が空を引き裂くように伸びている。雪は森の奥に吸い込まれるように静まり返り、風の音すら届かなかった。
家は一軒も見当たらない。畑も、道標も、人の営みを示すものは何ひとつない。ただ、この道だけが、確かな意志をもって町へ続いているようだった。
どれほど進んでも景色は変わらなかった。時間の感覚が薄れ、男は自分が半時間も進んでいるのか、それともほんの数分なのか分からなくなった。ときおり森の奥で枝が折れる音がするたび、視線がそちらへ引き寄せられるが、そこには影しかない。
先導する男が、ぽつりと言った。
「逃げる者は、森に入る」
それだけだった。理由も、結果も語られない。その言葉は警告というより、事実の列挙に近かった。
やがて、空気が変わった。森の密度がわずかに薄れ、遠くから鈍い音が届く。金属が打ち合わされる音、低い人声、焚き火の匂い。霧の向こうに、かすかな明かりが揺れている。
町だった。
高い柵が、道を遮るように立っていた。粗末だが頑丈そうな木材で組まれ、ところどころに雪がこびりついている。門の上には見張り台があり、人影がこちらを見下ろしていた。
門が軋みながら開く。
男は、その瞬間に理解した。この一本道は、外へ続くためのものではない。ここへ連れてくるためだけに、存在しているのだと。
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