世界の果ての階段を

kijima13

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1.プロローグ

収容

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男は馬の後ろに乗せられ、両脇を挟まれる形で進んだ。縄は使われなかったが、それがかえって逃げ場のなさを際立たせていた。馬の体温が、冷え切った身体にじわじわと伝わってくる。
 島の内陸へ向かう道は、一本しかなかった。
 踏み固められた土の道が、まっすぐ奥へ伸びている。その両脇には、鬱蒼とした森が壁のように迫っていた。葉を落とした木々が絡み合い、黒い枝先が空を引き裂くように伸びている。雪は森の奥に吸い込まれるように静まり返り、風の音すら届かなかった。
 家は一軒も見当たらない。畑も、道標も、人の営みを示すものは何ひとつない。ただ、この道だけが、確かな意志をもって町へ続いているようだった。
 どれほど進んでも景色は変わらなかった。時間の感覚が薄れ、男は自分が半時間も進んでいるのか、それともほんの数分なのか分からなくなった。ときおり森の奥で枝が折れる音がするたび、視線がそちらへ引き寄せられるが、そこには影しかない。
 先導する男が、ぽつりと言った。
 「逃げる者は、森に入る」
 それだけだった。理由も、結果も語られない。その言葉は警告というより、事実の列挙に近かった。
 やがて、空気が変わった。森の密度がわずかに薄れ、遠くから鈍い音が届く。金属が打ち合わされる音、低い人声、焚き火の匂い。霧の向こうに、かすかな明かりが揺れている。
 町だった。
 高い柵が、道を遮るように立っていた。粗末だが頑丈そうな木材で組まれ、ところどころに雪がこびりついている。門の上には見張り台があり、人影がこちらを見下ろしていた。
 門が軋みながら開く。
 男は、その瞬間に理解した。この一本道は、外へ続くためのものではない。ここへ連れてくるためだけに、存在しているのだと。
 馬が町の中へ踏み込む。背後で門が閉じる音が響き、冬の空気が一段、重くなった。

門の内側には、音がなかった。
 人の声も、商いの気配もない。ただ、靴底と馬の蹄が石畳を叩く音だけが、規則正しく反響していた。道は碁盤の目のように区切られ、どの通りも同じ幅で、同じ硬さを持っている。広場らしき空間もあったが、そこに集まるものは何もなかった。
 建物が並んでいる。
 すべて円柱形だった。寸法を測ったかのように同じ太さで、しかし高さだけがばらばらだ。低いものは地を這うように、高いものは空を突くように立っている。色は赤、白、青。その三色だけが、無秩序に塗り分けられていた。規則性は見つからないのに、偶然とも思えない配置だった。
 窓はあるが、明かりはない。扉もあるが、開閉の痕跡が感じられない。雪が積もっていないところを見ると、維持はされているはずなのに、誰かが「住んでいる」形跡がどこにもなかった。
 通りを曲がるたび、同じ景色が繰り返される。男は方向感覚を失ったが、不思議と恐怖は湧かなかった。ただ、ここでは迷うという概念自体が意味を持たないように思えた。どの道を選んでも、結果は同じなのだ。
 通行人は、軍服を着た者しかいなかった。
 彼らは互いに言葉を交わさず、必要な動きだけを正確にこなしている。すれ違うときも視線は交わらない。敬礼もない。ただ、役割が交差し、再び分離する。それだけだ。
 二人組の軍人も、終始無言だった。問いかけても、答えは返ってこない。返ってくるのは、進行方向を示す短い身振りか、歩調を速める合図だけだ。
 この街は、かつて栄えていた。
 その事実だけが、空気の奥に沈殿しているようだった。用途を失った建物、過剰な道幅、無意味なほど整えられた区画。人がいた痕跡は消されているのに、人のために作られた形だけが残っている。
 住民のほとんどは、すでに去ったのだという。大陸と呼ばれる別の島へ。ここに残ったのは、管理と統制のための人間だけだ。
 男は、そのことを誰かから聞いたわけではなかった。ただ、街の沈黙がそう語っていた。
 記憶は、戻らない。
 建物を見ても、色を見ても、道の配置を辿っても、何ひとつ引っかかりがない。懐かしさも、嫌悪も、既視感もなかった。自分がこの街と関わったことがあるのかどうかすら、判断できない。
 やがて、ひときわ高い円柱の前で馬が止まった。
 赤でも白でも青でもない、色を削ぎ落としたような建物だった。入口に立つ兵士が一歩前に出る。無言で扉が開かれ、その奥に、均一な暗がりが口を開けていた。
 連れてこられたのだ、と男は思った。
 裁かれるのか、保管されるのか、その違いすら、この街では意味を持たない気がした。男は兵士に促され、階段へ向かわせられた。
 階段は、上へ続いていた。幅は均一で、踏み面の高さも正確に揃っている。数段登っても、さらに上がある。十段、二十段、三十段。呼吸がわずかに乱れても、終わりは見えなかった。
 壁は無地だった。色も、模様も、継ぎ目すら意識させない平滑さで、無味無臭という言葉がふさわしい。ここがどれほど高くなっているのか、あるいは本当に上へ進んでいるのかすら、判断できなくなってくる。
 どれほど登ったのか分からない。
 突然、兵士が立ち止まった。短い合図のあと、進行方向が変わる。今度は、下りだった。急な角度で、先ほどまでの単調さが嘘のように、足元に注意を払わせる階段だ。
 数段、降りたところで、空気が変わった。
 男は、思わず足を止めた。
 壁に、絵が描かれている。
 今まで何もなかったはずの場所に、唐突に色があった。線は歪み、遠近も狂っている。子供が描いたものだと、すぐに分かる。だが、雑ではなかった。塗り残しや重ね塗りが、計算されたものではないのに、奇妙な統一感を持っていた。
 赤が多い。だが血の赤ではない。青もあるが、空や海の青ではなかった。黄色は、光を表すには濁りすぎている。どの色も、本来あるべき意味から少しずつずれている。
 描かれているものは、暴力だった。
 棒のような人間が、別の人間を踏みつけている。大きな口が、小さな身体を飲み込んでいる。手足の数が合わない者たちが、互いに引き裂き合っている。顔には笑顔のようなものが描かれているが、目はすべて同じ方向を向いていない。
 上手い絵ではない。
 だが、目を奪われた。
 それは恐怖ではなかった。嫌悪でもない。むしろ、理解に近い何かだった。なぜそう感じるのか、理由は分からない。記憶は、相変わらず沈黙したままだ。
 兵士は立ち止まらない。
 無言で進み続ける。その横を通り過ぎるたびに、絵は増えていく。壁一面に描かれたものもあれば、唐突に一枚だけ残されたものもある。描いた者が一人なのか、複数なのかは分からない。
 男は、最後の一枚の前で、ほんの一瞬だけ立ち止まった。
 そこには、人の形をしたものが、名前のない場所に立っていた。頭の上には大きな黒い円。足元には、崩れた円柱の建物が描かれている。赤と白と青が、乱暴に塗り重ねられていた。
 兵士の手が、男の肩に置かれる。
 進め、という合図だった。
 男は視線を引き剥がし、再び階段を降り始めた。背後で、絵が見えなくなっていく。
 だが、色だけは、まぶたの裏に残ったままだった。
連れて行かれた先は、収容室だった。
 だが、牢獄という言葉から連想されるものとは違っていた。鉄格子も、湿った石壁もない。床は清掃が行き届いており、壁も傷一つない。照明は柔らかく、まるで長期滞在用の簡素なホテルの一室のようだった。
 家具は、最低限だった。
 机と椅子が一組。幅の狭いベッドが一台。壁際にはクローゼットがあり、扉は静かに開閉する。どれも無駄な装飾はなく、触れた感触も均一で、使うことだけを目的に作られているのが分かる。
 部屋の広さは、それなりにあった。数歩歩いても壁に突き当たらず、立ち止まって考える余地が残されている。その余裕が、かえって落ち着かなさを生んでいた。
 窓は、ない。
 外の気配を知る手段は、完全に遮断されていた。昼なのか夜なのかも判断できない。時間は、この部屋に入った瞬間から、別の規則に従い始めたようだった。
 扉を見れば、鍵穴は外側にしかない。内側から操作できるものは何もなく、開閉の主導権が完全にこちらにないことだけが、はっきりと示されている。
 扉の中央には、小さな穴が開いていた。掌より少し大きい程度の、物を出し入れするためだけの穴だ。そこから顔を出すことはできないし、向こうの様子も見えない。必要最低限の接触だけが、許されている。
 部屋の隅には、仕切られたトイレがあった。清潔で、使われた形跡も定期的に管理されていることが分かる。水の音が、ここでは唯一、生きているものに近かった。
 兵士は何も言わず、男を中へ押し込むと扉を閉めた。
 鍵のかかる音がした。
 それは大きくもなく、威圧的でもなかった。ただ、確実だった。
 男は部屋の中央に立ち、しばらく動かなかった。何かを失った感覚はない。最初から、持っていなかったのだから。
 だが、階段の壁に描かれていた色だけが、妙に鮮明だった。
 この部屋には、色がない。
 それが意図された欠落なのだと、男は理解した。
最初の訪問者は、決まった時間に現れた。
 扉の小さな穴が開き、影が落ちる。その向こうから、少年の声がした。高くも低くもない、まだ変わりきっていない声だった。
 「こんにちは」
 挨拶だけを残し、穴は閉じられない。少年は中へ入ってこないし、男も外へ出られない。彼らの接点は、その穴の大きさに限定されていた。
 少年は、よく喋った。
 天気のこと。寒さのこと。今日の食事が少し塩辛かったこと。兵士が相変わらず無口だったこと。話題に一貫性はなく、結論もなかった。ただ、言葉が流れてくる。
 男は、聞いていた。
 ときどき短く相槌を打つだけで、質問はしなかった。質問は、ここでは慎重に扱うべきものだと、もう学んでいた。
 訪問は、毎日あった。
 時間は正確だった。男が数を数え、壁の汚れの位置で確認しても、ずれはなかった。少年は、いつも同じタイミングで現れる。
 ある日、少年が言った。
 「ここ、冬は長いんだ」
 男は、何も言わなかった。
 「すごく、長い。しかもね、冬になると時間が歪むんだ」
 男は、その言葉にだけ、反応した。
 「歪む?」
 「うん。伸びる」
 少年は、簡単なことを説明するように言った。
 「寒ければ寒いほど、伸びるんだよ。今日はまだ暖かかったから、日が昇って沈むまで十二時間だった」
 少年は、指を折って数える。
 「でも、明日は冷え込む。だから十六時間くらいかかると思う」
 男は、照明の下の影を見た。ここでは、日も昇らなければ沈みもしない。それでも、少年は確信をもって語っている。
 「じゃあ、春は」
 「春になるとね、均一になる」
 少年は、少しだけ声を明るくした。
 「一日は、ちゃんと一日分になる。伸びも縮みもしない」
 「それまでは」
 「待つしかない」
 少年は、そう言って笑った。理由の分からない笑顔だった。
 男は、その笑顔を見て、初めてこの場所に「時間」というものがあるのだと理解した。それは測れるものではなく、耐えるものなのだ。
 少年は、それ以上踏み込んだ話はしなかった。街のことも、島の外のことも、戦争のことも。必要のない話題には、自然と触れない。
 ただ、世界の輪郭だけを、少しずつ渡していった。
 去り際、少年はいつも同じことを言った。
 「また、明日来るね。寒くなるから、長い一日になるよ」
 扉の穴が閉じる。
 男は、再び一人になる。
 だが、沈黙はもう、完全ではなかった。

その日は、少年が来なかった。
 決まった時間を過ぎても、扉の小さな穴は開かれない。足音も、気配もない。男は椅子に座ったまま、ただ待っていた。待つという行為だけが、時間を測る唯一の手段だった。
 時間は、伸びていた。
 照明の明るさは変わらない。空気の温度も一定のはずなのに、身体の感覚だけが鈍っていく。呼吸と呼吸の間が、妙に長い。寒さではない。寒さに似た、別の何かだった。
 そのとき、音が届いた。
 低く、重い響き。遠くで地面を叩くような音が、一定の間隔で繰り返される。壁も床も揺れない。それでも、音だけが、はっきりとここまで届いていた。
 大砲だ、と男は思った。
 どうしてそう思ったのかは分からない。だが、その音は、自然のものではなかった。
 続いて、別の音が重なった。多くの声が集まったざわめき。意味を持たないほどの数が、一方向に向かって放たれている。怒号でも悲鳴でもない。
 歓声だった。
 さらに、音楽が混じる。打楽器と金属音を主体にした、整えられた旋律。行進のために作られた曲調だ。明るく、前を向いている。
 島は、何も変わらない。
 収容室の壁は静かで、扉も閉じたままだ。廊下を走る足音もない。誰かが祝っている様子は、どこにもない。
 それでも、音は届き続ける。
 距離があるはずだった。海を挟んだ、別の島――大陸と呼ばれる場所からだと、男は後になって知ることになる。だが、この時点では、ただ「ここではないどこか」で起きている出来事として、音だけが存在していた。
 大砲の音が、規則正しく続く。
 歓声が、波のように寄せては引く。
 音楽が、何度も同じ旋律を繰り返す。
 祝っているのだ、と理解するまでに、時間がかかった。戦っているのではない。悲しんでいるのでもない。誰かが、何かを、確かに喜んでいる。
 男は、少年の言葉を思い出した。
 ――寒ければ寒いほど、時間は伸びる。
 今日は、長い日なのだろう。
 音は、終わりなく続いた。始まりも終わりも曖昧なまま、ただ存在し続ける。男は床に座り込み、背中を壁に預けた。
 少年は、来なかった。
 この島が沈黙している日に、遠くの島だけが声を上げている。その不均衡が、男の胸に、言葉にできない違和感として残った。
翌日、扉を叩く音がした。
 控えめでも荒々しくもない、ためらいのないノックだった。この場所では不要なはずの行為が、やけに大きく、奇妙に響いた。
 返事をする前に、扉は開いた。
 入ってきたのは、少年ではなかった。
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