2 / 10
1.プロローグ
収容
しおりを挟む
男は馬の後ろに乗せられ、両脇を挟まれる形で進んだ。縄は使われなかったが、それがかえって逃げ場のなさを際立たせていた。馬の体温が、冷え切った身体にじわじわと伝わってくる。
島の内陸へ向かう道は、一本しかなかった。
踏み固められた土の道が、まっすぐ奥へ伸びている。その両脇には、鬱蒼とした森が壁のように迫っていた。葉を落とした木々が絡み合い、黒い枝先が空を引き裂くように伸びている。雪は森の奥に吸い込まれるように静まり返り、風の音すら届かなかった。
家は一軒も見当たらない。畑も、道標も、人の営みを示すものは何ひとつない。ただ、この道だけが、確かな意志をもって町へ続いているようだった。
どれほど進んでも景色は変わらなかった。時間の感覚が薄れ、男は自分が半時間も進んでいるのか、それともほんの数分なのか分からなくなった。ときおり森の奥で枝が折れる音がするたび、視線がそちらへ引き寄せられるが、そこには影しかない。
先導する男が、ぽつりと言った。
「逃げる者は、森に入る」
それだけだった。理由も、結果も語られない。その言葉は警告というより、事実の列挙に近かった。
やがて、空気が変わった。森の密度がわずかに薄れ、遠くから鈍い音が届く。金属が打ち合わされる音、低い人声、焚き火の匂い。霧の向こうに、かすかな明かりが揺れている。
町だった。
高い柵が、道を遮るように立っていた。粗末だが頑丈そうな木材で組まれ、ところどころに雪がこびりついている。門の上には見張り台があり、人影がこちらを見下ろしていた。
門が軋みながら開く。
男は、その瞬間に理解した。この一本道は、外へ続くためのものではない。ここへ連れてくるためだけに、存在しているのだと。
馬が町の中へ踏み込む。背後で門が閉じる音が響き、冬の空気が一段、重くなった。
門の内側には、音がなかった。
人の声も、商いの気配もない。ただ、靴底と馬の蹄が石畳を叩く音だけが、規則正しく反響していた。道は碁盤の目のように区切られ、どの通りも同じ幅で、同じ硬さを持っている。広場らしき空間もあったが、そこに集まるものは何もなかった。
建物が並んでいる。
すべて円柱形だった。寸法を測ったかのように同じ太さで、しかし高さだけがばらばらだ。低いものは地を這うように、高いものは空を突くように立っている。色は赤、白、青。その三色だけが、無秩序に塗り分けられていた。規則性は見つからないのに、偶然とも思えない配置だった。
窓はあるが、明かりはない。扉もあるが、開閉の痕跡が感じられない。雪が積もっていないところを見ると、維持はされているはずなのに、誰かが「住んでいる」形跡がどこにもなかった。
通りを曲がるたび、同じ景色が繰り返される。男は方向感覚を失ったが、不思議と恐怖は湧かなかった。ただ、ここでは迷うという概念自体が意味を持たないように思えた。どの道を選んでも、結果は同じなのだ。
通行人は、軍服を着た者しかいなかった。
彼らは互いに言葉を交わさず、必要な動きだけを正確にこなしている。すれ違うときも視線は交わらない。敬礼もない。ただ、役割が交差し、再び分離する。それだけだ。
二人組の軍人も、終始無言だった。問いかけても、答えは返ってこない。返ってくるのは、進行方向を示す短い身振りか、歩調を速める合図だけだ。
この街は、かつて栄えていた。
その事実だけが、空気の奥に沈殿しているようだった。用途を失った建物、過剰な道幅、無意味なほど整えられた区画。人がいた痕跡は消されているのに、人のために作られた形だけが残っている。
住民のほとんどは、すでに去ったのだという。大陸と呼ばれる別の島へ。ここに残ったのは、管理と統制のための人間だけだ。
男は、そのことを誰かから聞いたわけではなかった。ただ、街の沈黙がそう語っていた。
記憶は、戻らない。
建物を見ても、色を見ても、道の配置を辿っても、何ひとつ引っかかりがない。懐かしさも、嫌悪も、既視感もなかった。自分がこの街と関わったことがあるのかどうかすら、判断できない。
やがて、ひときわ高い円柱の前で馬が止まった。
赤でも白でも青でもない、色を削ぎ落としたような建物だった。入口に立つ兵士が一歩前に出る。無言で扉が開かれ、その奥に、均一な暗がりが口を開けていた。
連れてこられたのだ、と男は思った。
裁かれるのか、保管されるのか、その違いすら、この街では意味を持たない気がした。男は兵士に促され、階段へ向かわせられた。
階段は、上へ続いていた。幅は均一で、踏み面の高さも正確に揃っている。数段登っても、さらに上がある。十段、二十段、三十段。呼吸がわずかに乱れても、終わりは見えなかった。
壁は無地だった。色も、模様も、継ぎ目すら意識させない平滑さで、無味無臭という言葉がふさわしい。ここがどれほど高くなっているのか、あるいは本当に上へ進んでいるのかすら、判断できなくなってくる。
どれほど登ったのか分からない。
突然、兵士が立ち止まった。短い合図のあと、進行方向が変わる。今度は、下りだった。急な角度で、先ほどまでの単調さが嘘のように、足元に注意を払わせる階段だ。
数段、降りたところで、空気が変わった。
男は、思わず足を止めた。
壁に、絵が描かれている。
今まで何もなかったはずの場所に、唐突に色があった。線は歪み、遠近も狂っている。子供が描いたものだと、すぐに分かる。だが、雑ではなかった。塗り残しや重ね塗りが、計算されたものではないのに、奇妙な統一感を持っていた。
赤が多い。だが血の赤ではない。青もあるが、空や海の青ではなかった。黄色は、光を表すには濁りすぎている。どの色も、本来あるべき意味から少しずつずれている。
描かれているものは、暴力だった。
棒のような人間が、別の人間を踏みつけている。大きな口が、小さな身体を飲み込んでいる。手足の数が合わない者たちが、互いに引き裂き合っている。顔には笑顔のようなものが描かれているが、目はすべて同じ方向を向いていない。
上手い絵ではない。
だが、目を奪われた。
それは恐怖ではなかった。嫌悪でもない。むしろ、理解に近い何かだった。なぜそう感じるのか、理由は分からない。記憶は、相変わらず沈黙したままだ。
兵士は立ち止まらない。
無言で進み続ける。その横を通り過ぎるたびに、絵は増えていく。壁一面に描かれたものもあれば、唐突に一枚だけ残されたものもある。描いた者が一人なのか、複数なのかは分からない。
男は、最後の一枚の前で、ほんの一瞬だけ立ち止まった。
そこには、人の形をしたものが、名前のない場所に立っていた。頭の上には大きな黒い円。足元には、崩れた円柱の建物が描かれている。赤と白と青が、乱暴に塗り重ねられていた。
兵士の手が、男の肩に置かれる。
進め、という合図だった。
男は視線を引き剥がし、再び階段を降り始めた。背後で、絵が見えなくなっていく。
だが、色だけは、まぶたの裏に残ったままだった。
連れて行かれた先は、収容室だった。
だが、牢獄という言葉から連想されるものとは違っていた。鉄格子も、湿った石壁もない。床は清掃が行き届いており、壁も傷一つない。照明は柔らかく、まるで長期滞在用の簡素なホテルの一室のようだった。
家具は、最低限だった。
机と椅子が一組。幅の狭いベッドが一台。壁際にはクローゼットがあり、扉は静かに開閉する。どれも無駄な装飾はなく、触れた感触も均一で、使うことだけを目的に作られているのが分かる。
部屋の広さは、それなりにあった。数歩歩いても壁に突き当たらず、立ち止まって考える余地が残されている。その余裕が、かえって落ち着かなさを生んでいた。
窓は、ない。
外の気配を知る手段は、完全に遮断されていた。昼なのか夜なのかも判断できない。時間は、この部屋に入った瞬間から、別の規則に従い始めたようだった。
扉を見れば、鍵穴は外側にしかない。内側から操作できるものは何もなく、開閉の主導権が完全にこちらにないことだけが、はっきりと示されている。
扉の中央には、小さな穴が開いていた。掌より少し大きい程度の、物を出し入れするためだけの穴だ。そこから顔を出すことはできないし、向こうの様子も見えない。必要最低限の接触だけが、許されている。
部屋の隅には、仕切られたトイレがあった。清潔で、使われた形跡も定期的に管理されていることが分かる。水の音が、ここでは唯一、生きているものに近かった。
兵士は何も言わず、男を中へ押し込むと扉を閉めた。
鍵のかかる音がした。
それは大きくもなく、威圧的でもなかった。ただ、確実だった。
男は部屋の中央に立ち、しばらく動かなかった。何かを失った感覚はない。最初から、持っていなかったのだから。
だが、階段の壁に描かれていた色だけが、妙に鮮明だった。
この部屋には、色がない。
それが意図された欠落なのだと、男は理解した。
最初の訪問者は、決まった時間に現れた。
扉の小さな穴が開き、影が落ちる。その向こうから、少年の声がした。高くも低くもない、まだ変わりきっていない声だった。
「こんにちは」
挨拶だけを残し、穴は閉じられない。少年は中へ入ってこないし、男も外へ出られない。彼らの接点は、その穴の大きさに限定されていた。
少年は、よく喋った。
天気のこと。寒さのこと。今日の食事が少し塩辛かったこと。兵士が相変わらず無口だったこと。話題に一貫性はなく、結論もなかった。ただ、言葉が流れてくる。
男は、聞いていた。
ときどき短く相槌を打つだけで、質問はしなかった。質問は、ここでは慎重に扱うべきものだと、もう学んでいた。
訪問は、毎日あった。
時間は正確だった。男が数を数え、壁の汚れの位置で確認しても、ずれはなかった。少年は、いつも同じタイミングで現れる。
ある日、少年が言った。
「ここ、冬は長いんだ」
男は、何も言わなかった。
「すごく、長い。しかもね、冬になると時間が歪むんだ」
男は、その言葉にだけ、反応した。
「歪む?」
「うん。伸びる」
少年は、簡単なことを説明するように言った。
「寒ければ寒いほど、伸びるんだよ。今日はまだ暖かかったから、日が昇って沈むまで十二時間だった」
少年は、指を折って数える。
「でも、明日は冷え込む。だから十六時間くらいかかると思う」
男は、照明の下の影を見た。ここでは、日も昇らなければ沈みもしない。それでも、少年は確信をもって語っている。
「じゃあ、春は」
「春になるとね、均一になる」
少年は、少しだけ声を明るくした。
「一日は、ちゃんと一日分になる。伸びも縮みもしない」
「それまでは」
「待つしかない」
少年は、そう言って笑った。理由の分からない笑顔だった。
男は、その笑顔を見て、初めてこの場所に「時間」というものがあるのだと理解した。それは測れるものではなく、耐えるものなのだ。
少年は、それ以上踏み込んだ話はしなかった。街のことも、島の外のことも、戦争のことも。必要のない話題には、自然と触れない。
ただ、世界の輪郭だけを、少しずつ渡していった。
去り際、少年はいつも同じことを言った。
「また、明日来るね。寒くなるから、長い一日になるよ」
扉の穴が閉じる。
男は、再び一人になる。
だが、沈黙はもう、完全ではなかった。
その日は、少年が来なかった。
決まった時間を過ぎても、扉の小さな穴は開かれない。足音も、気配もない。男は椅子に座ったまま、ただ待っていた。待つという行為だけが、時間を測る唯一の手段だった。
時間は、伸びていた。
照明の明るさは変わらない。空気の温度も一定のはずなのに、身体の感覚だけが鈍っていく。呼吸と呼吸の間が、妙に長い。寒さではない。寒さに似た、別の何かだった。
そのとき、音が届いた。
低く、重い響き。遠くで地面を叩くような音が、一定の間隔で繰り返される。壁も床も揺れない。それでも、音だけが、はっきりとここまで届いていた。
大砲だ、と男は思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。だが、その音は、自然のものではなかった。
続いて、別の音が重なった。多くの声が集まったざわめき。意味を持たないほどの数が、一方向に向かって放たれている。怒号でも悲鳴でもない。
歓声だった。
さらに、音楽が混じる。打楽器と金属音を主体にした、整えられた旋律。行進のために作られた曲調だ。明るく、前を向いている。
島は、何も変わらない。
収容室の壁は静かで、扉も閉じたままだ。廊下を走る足音もない。誰かが祝っている様子は、どこにもない。
それでも、音は届き続ける。
距離があるはずだった。海を挟んだ、別の島――大陸と呼ばれる場所からだと、男は後になって知ることになる。だが、この時点では、ただ「ここではないどこか」で起きている出来事として、音だけが存在していた。
大砲の音が、規則正しく続く。
歓声が、波のように寄せては引く。
音楽が、何度も同じ旋律を繰り返す。
祝っているのだ、と理解するまでに、時間がかかった。戦っているのではない。悲しんでいるのでもない。誰かが、何かを、確かに喜んでいる。
男は、少年の言葉を思い出した。
――寒ければ寒いほど、時間は伸びる。
今日は、長い日なのだろう。
音は、終わりなく続いた。始まりも終わりも曖昧なまま、ただ存在し続ける。男は床に座り込み、背中を壁に預けた。
少年は、来なかった。
この島が沈黙している日に、遠くの島だけが声を上げている。その不均衡が、男の胸に、言葉にできない違和感として残った。
翌日、扉を叩く音がした。
控えめでも荒々しくもない、ためらいのないノックだった。この場所では不要なはずの行為が、やけに大きく、奇妙に響いた。
返事をする前に、扉は開いた。
入ってきたのは、少年ではなかった。
島の内陸へ向かう道は、一本しかなかった。
踏み固められた土の道が、まっすぐ奥へ伸びている。その両脇には、鬱蒼とした森が壁のように迫っていた。葉を落とした木々が絡み合い、黒い枝先が空を引き裂くように伸びている。雪は森の奥に吸い込まれるように静まり返り、風の音すら届かなかった。
家は一軒も見当たらない。畑も、道標も、人の営みを示すものは何ひとつない。ただ、この道だけが、確かな意志をもって町へ続いているようだった。
どれほど進んでも景色は変わらなかった。時間の感覚が薄れ、男は自分が半時間も進んでいるのか、それともほんの数分なのか分からなくなった。ときおり森の奥で枝が折れる音がするたび、視線がそちらへ引き寄せられるが、そこには影しかない。
先導する男が、ぽつりと言った。
「逃げる者は、森に入る」
それだけだった。理由も、結果も語られない。その言葉は警告というより、事実の列挙に近かった。
やがて、空気が変わった。森の密度がわずかに薄れ、遠くから鈍い音が届く。金属が打ち合わされる音、低い人声、焚き火の匂い。霧の向こうに、かすかな明かりが揺れている。
町だった。
高い柵が、道を遮るように立っていた。粗末だが頑丈そうな木材で組まれ、ところどころに雪がこびりついている。門の上には見張り台があり、人影がこちらを見下ろしていた。
門が軋みながら開く。
男は、その瞬間に理解した。この一本道は、外へ続くためのものではない。ここへ連れてくるためだけに、存在しているのだと。
馬が町の中へ踏み込む。背後で門が閉じる音が響き、冬の空気が一段、重くなった。
門の内側には、音がなかった。
人の声も、商いの気配もない。ただ、靴底と馬の蹄が石畳を叩く音だけが、規則正しく反響していた。道は碁盤の目のように区切られ、どの通りも同じ幅で、同じ硬さを持っている。広場らしき空間もあったが、そこに集まるものは何もなかった。
建物が並んでいる。
すべて円柱形だった。寸法を測ったかのように同じ太さで、しかし高さだけがばらばらだ。低いものは地を這うように、高いものは空を突くように立っている。色は赤、白、青。その三色だけが、無秩序に塗り分けられていた。規則性は見つからないのに、偶然とも思えない配置だった。
窓はあるが、明かりはない。扉もあるが、開閉の痕跡が感じられない。雪が積もっていないところを見ると、維持はされているはずなのに、誰かが「住んでいる」形跡がどこにもなかった。
通りを曲がるたび、同じ景色が繰り返される。男は方向感覚を失ったが、不思議と恐怖は湧かなかった。ただ、ここでは迷うという概念自体が意味を持たないように思えた。どの道を選んでも、結果は同じなのだ。
通行人は、軍服を着た者しかいなかった。
彼らは互いに言葉を交わさず、必要な動きだけを正確にこなしている。すれ違うときも視線は交わらない。敬礼もない。ただ、役割が交差し、再び分離する。それだけだ。
二人組の軍人も、終始無言だった。問いかけても、答えは返ってこない。返ってくるのは、進行方向を示す短い身振りか、歩調を速める合図だけだ。
この街は、かつて栄えていた。
その事実だけが、空気の奥に沈殿しているようだった。用途を失った建物、過剰な道幅、無意味なほど整えられた区画。人がいた痕跡は消されているのに、人のために作られた形だけが残っている。
住民のほとんどは、すでに去ったのだという。大陸と呼ばれる別の島へ。ここに残ったのは、管理と統制のための人間だけだ。
男は、そのことを誰かから聞いたわけではなかった。ただ、街の沈黙がそう語っていた。
記憶は、戻らない。
建物を見ても、色を見ても、道の配置を辿っても、何ひとつ引っかかりがない。懐かしさも、嫌悪も、既視感もなかった。自分がこの街と関わったことがあるのかどうかすら、判断できない。
やがて、ひときわ高い円柱の前で馬が止まった。
赤でも白でも青でもない、色を削ぎ落としたような建物だった。入口に立つ兵士が一歩前に出る。無言で扉が開かれ、その奥に、均一な暗がりが口を開けていた。
連れてこられたのだ、と男は思った。
裁かれるのか、保管されるのか、その違いすら、この街では意味を持たない気がした。男は兵士に促され、階段へ向かわせられた。
階段は、上へ続いていた。幅は均一で、踏み面の高さも正確に揃っている。数段登っても、さらに上がある。十段、二十段、三十段。呼吸がわずかに乱れても、終わりは見えなかった。
壁は無地だった。色も、模様も、継ぎ目すら意識させない平滑さで、無味無臭という言葉がふさわしい。ここがどれほど高くなっているのか、あるいは本当に上へ進んでいるのかすら、判断できなくなってくる。
どれほど登ったのか分からない。
突然、兵士が立ち止まった。短い合図のあと、進行方向が変わる。今度は、下りだった。急な角度で、先ほどまでの単調さが嘘のように、足元に注意を払わせる階段だ。
数段、降りたところで、空気が変わった。
男は、思わず足を止めた。
壁に、絵が描かれている。
今まで何もなかったはずの場所に、唐突に色があった。線は歪み、遠近も狂っている。子供が描いたものだと、すぐに分かる。だが、雑ではなかった。塗り残しや重ね塗りが、計算されたものではないのに、奇妙な統一感を持っていた。
赤が多い。だが血の赤ではない。青もあるが、空や海の青ではなかった。黄色は、光を表すには濁りすぎている。どの色も、本来あるべき意味から少しずつずれている。
描かれているものは、暴力だった。
棒のような人間が、別の人間を踏みつけている。大きな口が、小さな身体を飲み込んでいる。手足の数が合わない者たちが、互いに引き裂き合っている。顔には笑顔のようなものが描かれているが、目はすべて同じ方向を向いていない。
上手い絵ではない。
だが、目を奪われた。
それは恐怖ではなかった。嫌悪でもない。むしろ、理解に近い何かだった。なぜそう感じるのか、理由は分からない。記憶は、相変わらず沈黙したままだ。
兵士は立ち止まらない。
無言で進み続ける。その横を通り過ぎるたびに、絵は増えていく。壁一面に描かれたものもあれば、唐突に一枚だけ残されたものもある。描いた者が一人なのか、複数なのかは分からない。
男は、最後の一枚の前で、ほんの一瞬だけ立ち止まった。
そこには、人の形をしたものが、名前のない場所に立っていた。頭の上には大きな黒い円。足元には、崩れた円柱の建物が描かれている。赤と白と青が、乱暴に塗り重ねられていた。
兵士の手が、男の肩に置かれる。
進め、という合図だった。
男は視線を引き剥がし、再び階段を降り始めた。背後で、絵が見えなくなっていく。
だが、色だけは、まぶたの裏に残ったままだった。
連れて行かれた先は、収容室だった。
だが、牢獄という言葉から連想されるものとは違っていた。鉄格子も、湿った石壁もない。床は清掃が行き届いており、壁も傷一つない。照明は柔らかく、まるで長期滞在用の簡素なホテルの一室のようだった。
家具は、最低限だった。
机と椅子が一組。幅の狭いベッドが一台。壁際にはクローゼットがあり、扉は静かに開閉する。どれも無駄な装飾はなく、触れた感触も均一で、使うことだけを目的に作られているのが分かる。
部屋の広さは、それなりにあった。数歩歩いても壁に突き当たらず、立ち止まって考える余地が残されている。その余裕が、かえって落ち着かなさを生んでいた。
窓は、ない。
外の気配を知る手段は、完全に遮断されていた。昼なのか夜なのかも判断できない。時間は、この部屋に入った瞬間から、別の規則に従い始めたようだった。
扉を見れば、鍵穴は外側にしかない。内側から操作できるものは何もなく、開閉の主導権が完全にこちらにないことだけが、はっきりと示されている。
扉の中央には、小さな穴が開いていた。掌より少し大きい程度の、物を出し入れするためだけの穴だ。そこから顔を出すことはできないし、向こうの様子も見えない。必要最低限の接触だけが、許されている。
部屋の隅には、仕切られたトイレがあった。清潔で、使われた形跡も定期的に管理されていることが分かる。水の音が、ここでは唯一、生きているものに近かった。
兵士は何も言わず、男を中へ押し込むと扉を閉めた。
鍵のかかる音がした。
それは大きくもなく、威圧的でもなかった。ただ、確実だった。
男は部屋の中央に立ち、しばらく動かなかった。何かを失った感覚はない。最初から、持っていなかったのだから。
だが、階段の壁に描かれていた色だけが、妙に鮮明だった。
この部屋には、色がない。
それが意図された欠落なのだと、男は理解した。
最初の訪問者は、決まった時間に現れた。
扉の小さな穴が開き、影が落ちる。その向こうから、少年の声がした。高くも低くもない、まだ変わりきっていない声だった。
「こんにちは」
挨拶だけを残し、穴は閉じられない。少年は中へ入ってこないし、男も外へ出られない。彼らの接点は、その穴の大きさに限定されていた。
少年は、よく喋った。
天気のこと。寒さのこと。今日の食事が少し塩辛かったこと。兵士が相変わらず無口だったこと。話題に一貫性はなく、結論もなかった。ただ、言葉が流れてくる。
男は、聞いていた。
ときどき短く相槌を打つだけで、質問はしなかった。質問は、ここでは慎重に扱うべきものだと、もう学んでいた。
訪問は、毎日あった。
時間は正確だった。男が数を数え、壁の汚れの位置で確認しても、ずれはなかった。少年は、いつも同じタイミングで現れる。
ある日、少年が言った。
「ここ、冬は長いんだ」
男は、何も言わなかった。
「すごく、長い。しかもね、冬になると時間が歪むんだ」
男は、その言葉にだけ、反応した。
「歪む?」
「うん。伸びる」
少年は、簡単なことを説明するように言った。
「寒ければ寒いほど、伸びるんだよ。今日はまだ暖かかったから、日が昇って沈むまで十二時間だった」
少年は、指を折って数える。
「でも、明日は冷え込む。だから十六時間くらいかかると思う」
男は、照明の下の影を見た。ここでは、日も昇らなければ沈みもしない。それでも、少年は確信をもって語っている。
「じゃあ、春は」
「春になるとね、均一になる」
少年は、少しだけ声を明るくした。
「一日は、ちゃんと一日分になる。伸びも縮みもしない」
「それまでは」
「待つしかない」
少年は、そう言って笑った。理由の分からない笑顔だった。
男は、その笑顔を見て、初めてこの場所に「時間」というものがあるのだと理解した。それは測れるものではなく、耐えるものなのだ。
少年は、それ以上踏み込んだ話はしなかった。街のことも、島の外のことも、戦争のことも。必要のない話題には、自然と触れない。
ただ、世界の輪郭だけを、少しずつ渡していった。
去り際、少年はいつも同じことを言った。
「また、明日来るね。寒くなるから、長い一日になるよ」
扉の穴が閉じる。
男は、再び一人になる。
だが、沈黙はもう、完全ではなかった。
その日は、少年が来なかった。
決まった時間を過ぎても、扉の小さな穴は開かれない。足音も、気配もない。男は椅子に座ったまま、ただ待っていた。待つという行為だけが、時間を測る唯一の手段だった。
時間は、伸びていた。
照明の明るさは変わらない。空気の温度も一定のはずなのに、身体の感覚だけが鈍っていく。呼吸と呼吸の間が、妙に長い。寒さではない。寒さに似た、別の何かだった。
そのとき、音が届いた。
低く、重い響き。遠くで地面を叩くような音が、一定の間隔で繰り返される。壁も床も揺れない。それでも、音だけが、はっきりとここまで届いていた。
大砲だ、と男は思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。だが、その音は、自然のものではなかった。
続いて、別の音が重なった。多くの声が集まったざわめき。意味を持たないほどの数が、一方向に向かって放たれている。怒号でも悲鳴でもない。
歓声だった。
さらに、音楽が混じる。打楽器と金属音を主体にした、整えられた旋律。行進のために作られた曲調だ。明るく、前を向いている。
島は、何も変わらない。
収容室の壁は静かで、扉も閉じたままだ。廊下を走る足音もない。誰かが祝っている様子は、どこにもない。
それでも、音は届き続ける。
距離があるはずだった。海を挟んだ、別の島――大陸と呼ばれる場所からだと、男は後になって知ることになる。だが、この時点では、ただ「ここではないどこか」で起きている出来事として、音だけが存在していた。
大砲の音が、規則正しく続く。
歓声が、波のように寄せては引く。
音楽が、何度も同じ旋律を繰り返す。
祝っているのだ、と理解するまでに、時間がかかった。戦っているのではない。悲しんでいるのでもない。誰かが、何かを、確かに喜んでいる。
男は、少年の言葉を思い出した。
――寒ければ寒いほど、時間は伸びる。
今日は、長い日なのだろう。
音は、終わりなく続いた。始まりも終わりも曖昧なまま、ただ存在し続ける。男は床に座り込み、背中を壁に預けた。
少年は、来なかった。
この島が沈黙している日に、遠くの島だけが声を上げている。その不均衡が、男の胸に、言葉にできない違和感として残った。
翌日、扉を叩く音がした。
控えめでも荒々しくもない、ためらいのないノックだった。この場所では不要なはずの行為が、やけに大きく、奇妙に響いた。
返事をする前に、扉は開いた。
入ってきたのは、少年ではなかった。
0
あなたにおすすめの小説
【新作】1分で読める! SFショートショート
Grisly
ファンタジー
❤️⭐️感想お願いします。
1分で読める!読切超短編小説
新作短編小説は全てこちらに投稿。
⭐️忘れずに!コメントお待ちしております。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
春に狂(くる)う
転生新語
恋愛
先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/
カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761
「魔物の討伐で拾われた少年――アイト・グレイモント」
(イェイソン・マヌエル・ジーン)
ファンタジー
魔物の討伐中に見つかった黄金の瞳の少年、アイト・グレイモント。
王宮で育てられながらも、本当の冒険を求める彼は7歳で旅に出る。
風の魔法を操り、師匠と幼なじみの少女リリアと共に世界を巡る中、古代の遺跡で隠された力に触れ——。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる