青に飛ぶ

月岡 朝海

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天気雨みたいだ、と美波は思った。


 桜の季節が終わった空は曇りも多いが、もうこのまま夏が訪れるのではないかと思うほど、暑い日もある。今日も昼休みから気温が跳ね上がって、セーラー服のタイどころかカラーごと投げ捨ててしまいたいくらいだ。
 教室を出ると廊下はもう生徒で溢れていて、美波もその人波の流れに沿って階段へと向かう。ロの字型の校舎を回って行く、同じセーラー服を着た少女たち。ぼんやりしていると、どの角まで曲がればいいのか分からなくなりそうだ。少女の回遊の群れの中で短く息を吐いて、美波は窓を見上げた。いつも覆っている雲が見当たらない、鮮やかな青い空が眩しい。
 ふと、人影が目の端に映った。屋上の手摺りに顔を突っ伏して寄り掛かり、長く真っ直ぐな黒髪と紺色のスカートの裾が、風に靡いている。放課後になったばかりのこんな中途半端な時間に、どうしたのだろう。少し経っても、彼女はその姿勢から微動だにしない。具合でも悪いのだろうか。不安になり、美波は窓際で足を止めた。
 不意に彼女は顔を上げ、目の前の青空を眺めた。そして何気ない表情で、こちらに視線を向ける。屋上から階下に投げられたそれは真っ直ぐ届き、何故か美波の胸は罪悪感に駆られて、一度軋んだ音を立てた。互いの視線が、距離を越えた沈黙の中で交わされる。
 次の瞬間、彼女は美波に向かって凛と微笑んだ。背中まである黒髪と、白いタイと、紺色のスカートの裾が、風に煽られ揺れている。五月の眩しい太陽が、彼女の薄い躯と白い肌を照らす。そしてその眸から大粒の涙が零れていることに、美波は漸く気付いた。
 頬を伝う涙も拭わずに背筋を伸ばす彼女の美しさに、気圧されて瞬きも出来ない。次の瞬間、彼女は踵を返すと、しっかりとした足取りで屋上から去って行った。
 天気雨みたいだ、と美波は思った。



 ざらついた地面を蹴って指先から飛び込むと、水面が弾け無音の世界に包まれる。仄青い静謐の中で、ライトの光だけがゆらゆらと揺れている。その内肌に纏わり付いている水の感触さえ薄れ、自分が前に進む感覚だけになる。この感覚が、何よりも好きだった。ただ静かに自分と向き合える空間。
 壁に手を付き水面から顔を出すと、コーチの少し困った顔が見えた。
「橋野さん、タイム落ちてるよ」
 コーチは溜め息を吐きながら、ストップウォッチを差し出す。液晶画面に表示されたのは、昨日より八秒遅い四百メートルのタイム。水の中に居る間は楽しいのに、上がった途端現実に引き戻される。美波は荒い息の間からすいません、と言うことしか出来なかった。
「インターハイ県予選まであと二ヶ月だよ」
 軽く釘を刺すつもりのコーチの言葉は、美波の胸を重くする。大会の為の泳ぎというのは、どうも苦手だ。その少しの胸苦しさは、部活が終わっても消えなかった。
 履き替えた革靴で玄関を出ると、夕焼け色に染まる建物の間から吹く潮の匂いを含んだ風が、強く頬を叩いた。校舎やその奥の防風林に遮られて直接は見えないが、ここが海の近くなのだと実感する。海の唸りも風と共に耳に届く。何時も水に入っていても、この海の唸りには慣れない。
 住宅街で一番小高い場所にある清和女子の校舎から、人けのない池垣を横切り、鉄柵の門を潜って下り坂の細い道路に出る。夕焼け色に染まる道を、部活後の生徒がぱらぱらと下って行く。その中に混じってオレンジ色になった美波は、少し足早にバス停へと向かった。


 何時もの癖でプールへ向かいそうになる爪先にブレーキを掛けて、階段を上り四階の図書室へと向かう。空を遮る雨雲の所為で薄暗い廊下や、窓の外に叩き付ける雨粒の音ばかり目に映るのは、委員会が面倒くさいからかもしれない。
 図書室のドアを開けた美波は、目に飛び込んで来た顔を見て一瞬息が止まった。背中まである長い真っ直ぐな黒髪、きちんと伸びた背筋、凛とした表情。図書室の窓際のテーブル席に座っている生徒の姿が、先月屋上で見掛けた人影とそっくりだったからだ。
 視線を上げた彼女の顔は、やはり見覚えのあるものだった。美波は会釈して、彼女の隣に座る。
「こないだ目が合いましたよね?」
 微笑を浮かべ小声で話し掛ける。偶然の再会が、何だか嬉しかった。
「いえ、知らないですけど。人違いじゃないですか?」
 けれど彼女は、凛とした表情を崩さないままそう返した。美波は予想外の返答に、目を見開いて固まる。
 驚いている内に図書委員会担当の教師が現れ、月一回の定例会議が始まった。納得していない美波は何となく前髪をいじりながら、つい隣の彼女へ視線を向ける。他の生徒が退屈そうに頬杖を突いたり欠伸を噛み殺したりする中、彼女はきちんと伸びた背筋で教師の言葉を聞き、今後の予定などをノートに書き込んでいた。梅雨空の薄暗い静寂を纏って、その顔は一層青い気高さを放つものに映る。
 二十分後、特に目新しい議題も無く何時も通り今月の貸出受付の当番を決めたところで会議は終了――というところで、教師は思い出したように切り出した。
「そうだ、管理番号と実際に置かれている場所がずれてきたので、直す役をくじで決めましょうか」
 生徒たちのブーイングを気にすることもなく、初老の女性教師は淡々と黒板に線を引き出した。
 そして整理役に決まったのは、美波と隣に座っていた彼女――吉井環の二人だった。


 放課後の図書室は本を読む生徒以外に受験勉強などで使う生徒も多いので、資料のファイルのページを繰るのにも少し気を遣う。それなのにこれからもっと大きな音を立てる作業を始めないといけないと思うと、心が少し重くなった。今まで手付かずで放って置かれた理由が、分かった気がした。
「じゃあ、取り敢えず図鑑からでいいですかね?」
 隣に立つ環に問い掛けると、彼女は長い黒髪をさらりと揺らしながら、はい、と頷いた。二人は管理表ファイルを持って貸し出しカウンターから出て、図鑑の本棚へと向かう。
 作業要員が二人なら、直す箇所はそこまで多くないのかと思っていたのだが、予想は外れた。持ち出し禁止の図鑑から隣の辞書類の棚に移ると本当にバラバラで、きちんとした場所に入っている方が珍しかった。利用者も返却作業をする図書委員も、日頃から適当に本棚へ入れているのだな、と思い知る。
 しかし一緒に作業する相手が、何で環になってしまったのだろう。三日前の委員会の時もそうだったが、先月屋上で目が合ったことには一切触れさせません、というオーラを、今日も冷たい横顔から感じる。美波も蒸し返したい訳ではないので、もう忘れるようにしよう、と決めた。彼女が同級生だったことだけが、ちょっとした救いだ。目の前の本の背表紙に書いてある管理番号を美波が読み上げ、環が管理表から探した正しい場所に入れるという手順を、ひたすら繰り返して行く。
 午後六時半のチャイムが鳴り、図書室の貸出受付が終わる時刻になった。窓を見ると六月の長い陽が既に傾き、空がオレンジ色に染まっている。けれどまだ半分も整理が終わっていなかったので、美波と環は受付当番から図書室の鍵を借り、学校の門が閉まる七時頃まで作業を続けることにした。
 だが閉館してからの方が、利用者の生徒に気を遣わなくていい分作業が捗ると気が付いた。本を動かす時に幾ら音を立てても構わないし、テーブルなども作業台として使っても良い。今日中に終わらせるのは厳しいが、せめて今取り掛かっている量の多い文庫本の棚だけでも片付けようと声を掛けて、作業のスピードを上げる。
 暫くしてふと見ると、環の手が止まっていた。彼女は手に取った文庫本を、静かに眺めている。タイトルを見ると、『銀河鉄道の夜』だった。
「宮沢賢治、好きなんですか?」
 その表情が気になったので、尋ねてみた。気付いた環は、小さく頷く。
「綺麗で繊細で切ない表現が好きなんです。天の川のことを言ってるんですけど、こことか……」
 彼女は文庫本をぱらぱらと繰る。
「――そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです」(注)
 ページの一文を、ゆっくりと読み上げる。その瞬間、彼女が日常の風景から切り離されたような感覚に陥り、照明が白く照らす静かな横顔の美しさに、美波は声も出せずただ見入ってしまった。
「あ、すみません。作業中に」
 ふと我に帰ったらしい環は、慌てて文庫本を閉じた。
「ううん、全然。やっぱり『銀河鉄道の夜』が一番?」
 今まで見えなかった彼女の温度が垣間見えた気がして、美波は少し嬉しかった。そして出来れば、もっと好きなものの話が聞きたいと思った。余り本は読まないが、今彼女が読み上げたのは宮沢賢治の未完の代表作であることくらいは、美波も知っている。
「一番は、『よだかの星』かなぁ」
 環は少し考え込んだ後、美波の知らない作品の名前を口にした。聞けばそれは短編で、今彼女が手にしている文庫本に収録されているらしい。
「へぇー、じゃあ読んでみようかな」
 美波はその本を受け取り、カウンターで学生証と本のバーコードを読み取って、貸出の手続きをした。社交辞令もあったが、彼女が一番好きな作品が気になったのは本当だ。本を鞄に仕舞ってふと時計を見上げると、時刻は七時六分だった。
「あ、もう七時過ぎちゃいましたね。取り敢えず今日はここまでにしましょうか。続きはまた後日」
「橋野さんは、部活入ってるんですよね? 明日からは私一人でやりますよ」
 彼女は美波が水泳部だということを知っていた。でも一人でなんて整理出来る量ではない。
「いいんですよ。私なんて、居ても居なくても変わらない感じだから」
 美波は自虐的に言って、あははと笑った。けれどそれを見て悲しそうな顔をしたのは、環の方だった。


 部屋の中には、掛け時計の秒針の音が規則的に響く。その中に時折、文庫本を繰る音が混じる。暫くして美波は文庫本を閉じ、その表紙を無言で見詰めた。
「――何でこれが一番好きなの?」
美波はベッドに寝転がったままの姿勢で、思わず呟いた。『よだかの星』を早速読んでみたのだが、良さが全く分からなかった。
 周りの鳥からみにくいと蔑まれるよだか。生きていくことがつらくなり、山焼けの中兄弟の川せみに別れを告げ、遠くの空の向こうへ行こうと決める。けれど太陽も様々な星も、よだかを連れて行くことを拒む。最後は自分の力を振り絞って空へ昇り、青白く光り続ける星となる。
 確かに文章は幻想的で美しいが、ストーリーが余りにも哀しい。周りの全てから蔑まれ、拒まれ、死んでしまった鳥の話。美波にはそうとしか感じられなかった。何故沢山あるだろう宮沢賢治の作品の中で、この話が一番好きなのか、どの辺りが環の心を動かしたのか、もう一度冒頭から読み返しても全く見当も付かなかった。ただよだかの切なさだけが、美波の心に染み渡った。


 まだ明けない梅雨の雲は静かに細かい雨を降らせ続け、窓の外は霧で煙っているかのようだった。
「そうだ。読んだよ、『よだかの星』」
 図書室の隅に配置された全集の棚の整頓に入った時、美波は抑えめの声で切り出した。テーブル席から最も遠く、利用者のほぼ居ないこの場所なら、多少話していても誰も気にしない。
「あ、どうだった?」
 環は管理番号をなぞる指を止めて、こちらへ振り向く。
「文章が幻想的ですごく綺麗だった。話は……ちょっと私にはよく分からなかったかな。何か哀しくなっちゃって。吉井さんはどこら辺が好きなの?」
 一番好きだという作品の良さが全く解らないとは言い難いので、言葉を選ぶ。あの哀しい話の何が彼女を惹き付けているのか、知りたかった。
「やっぱり、そうだよね」
 どうやら予想の範疇の反応だったらしく、環は少し苦笑した。翻ってみると、彼女はこのタイトルを挙げる時、少し躊躇いがちだったかも知れない。
「確かに哀しい話だと思う。でも、だからこそ良いというか。色んなことを経た末に、最後は望んだものになれたから。その切なさが、よだかの星を美しく輝かせているんだと思えるの」
 環は静かな横顔で語った。美波にはなかった受け取り方に、驚きと違和感が入り混じる。途中までは哀しくても、最後は主人公の辛さが報われるハッピーエンドというのが、寓話の王道な気がする。美波は星になったよだかに、それを感じられなかった。
 けれどふと、もしかしたら彼女はよだかに自分を重ねているのかも知れない、と思った。だからよだかの哀しみに対して前向きな受け取り方で、羨ましさすら含んだ口振りなんだろう。でも美波からすると、環と醜くて不器用なよだかに、重なる要素なんて見出せない。いっそよだかの弟である心優しく美しい川せみの方が、近いような気がするのだが。
「へぇ、そっか」
 けれどそこまで突っ込んで訊くのも何なので、美波はただ相槌を返した。少し強くなり始めた雨の音が、二人の間を掠めた。
 夕方五時半、ずれを直す作業が漸く完了した。美波と環は安堵した笑みを浮かべ、受付の当番をしている生徒も二人に良かったね、と声を掛ける。カウンターから本棚を見渡すと、見た目にさして変化は無いが、整頓した美波には全ての本棚が整ったものに映り清々しかった。
「じゃあ、私はこれから部活だから」
 終わりまで一時間を切っているが、取り敢えず顔を出さないと不味い。図書室の扉を閉めたところで美波が言うと、環は熱心だね、と返す。
「七月にインターハイの県予選があるからねー」
 面倒くさそうなトーンの美波の言葉を聞いた彼女は、すごいね、と眸を見開いた。
「全員参加なだけ」
 リノリウムの階段を並んで下りる環に、訂正を入れる。清和の水泳部は部員も少ないので、大きな大会は個人エントリーが義務付けられているのだ。
「でも橋野さんて、下の名前『美波』でしょ? 水泳やるなんて、すごい偶然だね」
 点と点の間に線を見出した環は、小さく微笑んだ。本をよく読む人ならではの気付き方かもしれない。
「逆なんだ。両親が水泳やらせたくて付けたの」
 美波の両親は、高校の水泳部の先輩・後輩だ。子供にも同じ道を通って欲しくてこの名前にしたのだ、と初めて聞いた時は、何だかガッカリしたのを覚えている。
「そうなんだ。でも期待に沿えててすごいね」
「そうなのかなぁ。何となく続けてるだけだけど」
 ピンと来ない美波は、小首を傾げる。頑張ってね、と手を振ってくれた環と、一階の廊下で別れた。


 水を掻いて前に進む。壁に手を付き無音の世界から顔を出すと、人の姿の無いプールの室内と真昼の光がゆらゆら揺れる水面だけが、ゴーグル越しの眸に映った。自分が繰り返す荒い呼吸音が、やけに響いて聞こえる。
 けれどまだ泳げるので休憩は挟まず、もう一度水の中に躯を沈める。昼休みの一人きりの自主練は、誰も見てくれる人が居ないのでタイムやフォームのチェックは出来ないが、自分の性には合っている気がした。委員会で休んだ分自主練したいとコーチからプールの鍵を預かって、良かったかもしれない。
 三本目の四百メートルを泳ぎ切って水面から顔を出し、ゴーグルを外して壁に掛けてある時計を見る。五時間目が始まるまであと約二十分ほどだったので、短めにもう一本泳ごうかな、と思っていると、ガラス扉の向こうにひとつの人影が見えた。長い黒髪のそれは、よく見ると環だった。
「どうしたの?」
 美波は驚きと戸惑いで瞬きを繰り返しながら、ガラス扉を開ける。
「池垣のとこでお昼食べてたら、橋野さんがプールに向かうのが見えたから」
 校舎脇にある池垣は静かで、周りには煉瓦で囲われた花壇もあるので、晴れた日にはそこでランチを食べる生徒も居る。急いでプールに向かっていた美波は、全く気付かなかった。
「やっぱり、水着似合うね。かっこいい」
 そう言われれば、部活の格好で会うのは初めてだ。面と向かって言われると、何だか恥ずかしい。肩幅があるだけだと思うが。
「少し見学しててもいい?」
 環は小首を傾げる。
「いやー、見せるほどのものでもないよ」
 自分の泳ぎなんて、メドレーのレギュラーに選ばれたこともない程度のものだ。美波の口許にあははと乾いた笑いが浮かぶ。
「じゃあなんで、そんなに一生懸命泳いでるの?」
 こちらの眸を真っ直ぐ見ながら、環は疑問を投げ掛けた。その真っ直ぐな問いに、何故か美波は言葉を失った。沈黙が二人の間を掠める。
「昼休み潰してまで頑張ってる橋野さん、見たいよ」
 環は沈黙に穴を開けて、少し悲しそうに呟いた。
「あ、そうだね。わざわざ来てもらったんだしね」
 美波も我に返って、彼女をプールの中へ招き入れた。環はありがとう、と微笑んで、革靴とソックスを脱いで中へ入る。でも見学者用のパイプ椅子が置いてある壁際ではなく、真っ直ぐプールへと歩いて行った。美波が戸惑いながら後を追うと、彼女はプールの縁にしゃがみ、その指先を水に浸けた。
「――結構、冷たいんだね」
 環は小さく呟いて、楽しそうに口の端を上げる。好奇心に溢れた無邪気な横顔は、小さい子供のようだった。
「じゃあ私もうちょっとだけ泳ぐね。滑るから気を付けて」
 美波がそう切り出すと、環は頷いて立ち上がった。美波はプールの縁からゆっくりと水に入り、定位置の三コースへ向かう為に背を向ける。
 すると次の瞬間、後ろから環のきゃっ、という短く上擦った声と共に、水が弾け飛ぶ大きな音が響いた。
 振り返ると、制服も頭も顔も濡れてしまった環の姿が、プールの中にあった。呆然とした表情で瞬きを繰り返す環と、暫く無言のまま目線を交わす。先に彼女の口許が緩んで、二人は声を上げて笑い合う。青い光を湛える水面に、二人の笑いの波紋が広がって行った。
 壁際のタイルの上に座る環に、自分のバスタオルを差し出す。ごめんね、と謝ってタオルで髪や躯を拭く彼女の隣に、美波も腰を下ろしてキャップを外す。自分の髪は短いし平気だ。
 プールを見ると先程の波濤もすっかり収まって、またゆっくりと微かに水面が揺れている。校舎の裏にあるこのプールには廊下を回遊する生徒達の喧騒は届かず、屋根の上を横切る鳥の鳴き声と微かな海の唸りだけが、時折耳を掠める。
 美波の中で、足を滑らせてプールに落ちた環の姿と、五月に見た女子生徒の姿が、交互に過り重なって行く。
「――あのさ、前に屋上で目が合ったのって、吉井さん?」
 美波は静かな声で尋ねた。ずっと心の何処かで、引っ掛かっていた。落ち着いた表情と子供染みた行動、微笑む顔と頬を伝う涙。やはりあれは、環にしか思えない。
 彼女は少しの間逡巡したが、その後小さく頷いた。
「ごめんね、こないだは違うって言って。人に知られたくなかったから」
 環は床に視線を落としたまま、小さな声で謝る。彼女があっさりと認めたことに少し驚きながら、美波はううん、と返す。
「あの日の朝、すごく嫌で受け入れられないことがあって、昼休みぐらいから我慢出来なくなって一人で泣いてたの。それで橋野さんと目が合った時、泣いてるってバレたくなくて、つい笑っちゃったんだ」
 重い口調ながらも、環はそう教えてくれた。あれが咄嗟の目眩ましだったなんて、美波は急には信じられなかった。
「そんなに辛いことって何、って訊いてもいい?」
 一度きりのつもりで、美波は躊躇いながらも疑問符を唇に乗せた。環は美波のタオルを肩口に巻いて、少し黙り込む。
「――うち、離婚して片親なんだけど、母に彼氏を紹介したいって言われたの」
 環の口から出たのは、とても生々しい出来事だった。
「別に父と復縁して欲しいなんて思ってないけど、なんか、私って何なんだろうって」
「私と二人じゃ、駄目なんだって。どうしても男の人が要るんだって」
 言葉を継いだ環は、語尾を震わせた。たった一人の肉親に、二人きりの生活はもう終わりだと、急に告げられたとしたら。想像しただけで、胸の奥が重くなる。
「でも、そんな自分が嫌で仕方ないの。お母さんの幸せなのに、一緒に喜べないのが、嫌なの」
 彼女の過去と、屋上での凛とした泣き顔、『よだかの星』。アンバランスな彼女は不器用で思うように生きられず、自分を責めてしまう。思うように飛べない翼や、食物連鎖のカルマから逃れられない自分を責めて、もがき泣くよだかのように。
「どうしたらお母さんと同じ気持ちになれるの? 知ってたら教えて、橋野さんっ……」
 環は震えながら声を絞り出して、縋るようにタオルを強く握る。その頬に、次々と涙が零れ落ちて行く。美波は何も言えず、ただ胸が痛かった。
「私も分かんない……」
 蛇口の水滴がぱたん、と洗面台へ落ちる音が、沈黙の間に響いた。
 二人の頭上にチャイムが鳴る。時計を見上げた時に初めて、それが五時間目終了のものだったと気付いた。


 瞼を閉じると藍色の世界がぼんやりと滲み、キシキシと高い鳴き声が耳を裂く。目を遣ると夏の夜空に向かって、まだら模様の鳥が何度も何度も鳴いている。夜空の星は一向に応えず、黙ったまま輝きを瞬かせるだけ。けれど繰り返し、キシキシと鳴く。ああこんなところによだかが居るなんて知らなかったな、と美波は窓ガラス越しにその姿を眺める。
 よだかは泣いている。ロの字型の校舎の屋上で。吹く風が声を浚い、丸めて揉み消してしまう。それでも諦められずによだかは叫ぶ。連れて行って、連れて行ってと。応えない夜空の沈黙の中で、ただ風だけがスカートの裾を靡かせ、黒い髪がはらはらと揺れる。屋上の手摺りを掴んで、彼女は目一杯背伸びをする。頬を伝う涙を拭うこともせず、夜空だけを見詰めている。美波は焦って窓ガラスを叩くが、階下の音は届かないらしく、長い黒髪の少女の横顔はこちらへ振り向くことはない。窓を開けて叫べば届くだろうか。けれど錠を外しても、窓ガラスは全く動かない。廊下の窓は陽が射している間しか開かないのだ。
 彼女は手摺りの上に立ち、不意にこちらへ振り返った。背筋を伸ばし、あの泣いたまま凛と笑う表情で。環は睫毛に纏わり付く涙を瞬きで払うと、穏やかな視線を投げる。そして美波の待って、という叫びを聞かずに上履きの爪先で手摺りを踏み切り、さっと夜空の風に乗った。そのままあっという間に星に向かって飛んで行き、その白いタイも紺色のスカートも、夜空の藍色に溶けて見えなくなってしまった。
 美波はただその様子を、廊下の窓ガラス越しに見詰めるしかなかった。待って欲しかった。せめて、夜が明けるまで。この窓が、開く時まで。
 瞼を開けると、照明の眩しさが目に刺さった。頭の中が真っ白で、声も出せない。ぼんやりと見上げる先にあるのは見慣れた天井のクロスで、規則的に動く秒針の音だけが耳に入る。喉がやけに渇いていたが、奇妙な臨場感の余韻に囚われて、躯を動かすことが出来なかった。見送った環の後ろ姿が、はっきりと瞼に焼き付いている。窓ガラスを叩いた感触すら、掌に残っているかのようだ。
「吉井、さん……」
 掠れた声で、呟くのが精一杯だった。

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