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「オイ亮芳、あんまりあの花魁に肩入れすんな」
廊下を歩いて来た若い衆の浩次が、すれ違いざまにぼそりと呟いた。忠告する温度の言葉に、亮芳の指先がぴくりと動く。
「……はい」
視線を階上の部屋から逸らさぬまま、小さい声を絞り出す。角を曲がった浩次の足音が聞こえなくなったのを確かめてから、亮芳はひとつ溜め息を吐いた。あの先輩が昔から自分を心配してくれているのは分かっている。若い衆は見世の裏方で、「売り物」である女郎と必要以上に交わることは、吉原のご法度だ。無論この妓楼で働き始めてからこっち、そんな下心など抱いたことなどない、けれど。
誰も彼も、津村花魁の何を知っているというのか。
口八丁手八丁でのし上がった花魁――それが津村に対する専らの評判だった。冷やかしの吉原雀らは勿論、遊客や出入りの商人、見世の者すら、そう思っているようである。確かに亮芳がこの見世で働き出した頃から、既に津村は同輩らと折り合いが悪かった。
「確かにわっちがぬしの浴衣を踏みんした。けどあんなところに出しっ放しでいる方がおかしいでありんしょう」
些細な諍いが起こると津村はいつもこんな調子で、切れ長の眸に力を込めた。そして見世は、口の立つ津村の言い分を信じてしまうのが常だった。姉である浜風花魁とばかり親しげに時を過ごし、余暇ですら同輩と火鉢を囲んで喋ることが少なかった所為もある。そして津村が付いた客の評判は良く、殆どが馴染みとなってしまうので、同輩らの鬱憤は溜まる一方であった。何時からか津村は、私物を隠されたり壊されたりするようになった。それでも人前で泣いたり落ち込んだりすることもない気性だったので、その小さな嫌がらせは止むことが無かった。
それくらいなら妓楼にはよくある話かもしれない。けれど津村の名が廓の内外に知れ渡った事件があった。自分の姉である浜風花魁の馴染み客を、寝取ったのである。正確に言うと、登楼が重なり独り寝で待たされていた馴染み客の座敷に名代として上がった後、客が津村を指名したいと言い出したのである。吉原では客と女郎は夫婦の契りを交わすことが決まりなので、それは離縁に等しい。しかも別の見世ならまだしも同じ見世の中で、番付最上位の花魁が自らの妹に客を取られるなど、前代未聞の醜聞であった。
この件は絵師によって直ぐ浮世絵にされ、あっという間に吉原の外にまで噂が広まった。廓に売られて来てからずっと面倒を見て貰っていた姉から客を奪うとは、如何ほどの美姫か。花魁以下の女郎が顔を揃える張見世部屋の格子の向こうには、冷やかしの見物人が殺到した。その数多の好奇の視線をものともせず、津村はずっと涼しい貌で煙管を燻らせていたのだった。
程なく花魁は長年の馴染みであった松本検校に身請けされ、妓楼を去った。次の番付で最上位となったのは二人で、その内の一人が津村であった。大尽と呼ばれる金払いの良い客を何人も抱えていたので当然の出世であるが、腑に落ちぬ顔をした女郎らは多かった。事前に見世の主人と「話を付けていた」のではないか、と話す者もいた。
けれど亮芳は、昔から如何もそうとは思えなかった。津村は若い頃から余暇を惜しんで姉から盗めるものを盗み、それが結実したからこその口八丁――手練手管なのではないか。同輩らを蹴落とすことが目的ならば、私物を壊された時に声高に叫ぶのではないか。そして醜聞の件も、何故誰も見ていないのに津村が寝取ったと決め付けるのか。褥の中で何が起こったのかなど、当人以外知る由もないというのに。
そう思う裏付けなど何処にもない。ただ肌で感じるだけだ。しかし亮芳は長年その勘を捨て切れずにいる。それは近くで見る津村の切れ長の眸が、黒く澄んでいるからであろうか。
俄かにざあっと強い風が吹く。薄く色付く桜の花弁が、中庭にひらひらと舞っていた。
廊下を歩いて来た若い衆の浩次が、すれ違いざまにぼそりと呟いた。忠告する温度の言葉に、亮芳の指先がぴくりと動く。
「……はい」
視線を階上の部屋から逸らさぬまま、小さい声を絞り出す。角を曲がった浩次の足音が聞こえなくなったのを確かめてから、亮芳はひとつ溜め息を吐いた。あの先輩が昔から自分を心配してくれているのは分かっている。若い衆は見世の裏方で、「売り物」である女郎と必要以上に交わることは、吉原のご法度だ。無論この妓楼で働き始めてからこっち、そんな下心など抱いたことなどない、けれど。
誰も彼も、津村花魁の何を知っているというのか。
口八丁手八丁でのし上がった花魁――それが津村に対する専らの評判だった。冷やかしの吉原雀らは勿論、遊客や出入りの商人、見世の者すら、そう思っているようである。確かに亮芳がこの見世で働き出した頃から、既に津村は同輩らと折り合いが悪かった。
「確かにわっちがぬしの浴衣を踏みんした。けどあんなところに出しっ放しでいる方がおかしいでありんしょう」
些細な諍いが起こると津村はいつもこんな調子で、切れ長の眸に力を込めた。そして見世は、口の立つ津村の言い分を信じてしまうのが常だった。姉である浜風花魁とばかり親しげに時を過ごし、余暇ですら同輩と火鉢を囲んで喋ることが少なかった所為もある。そして津村が付いた客の評判は良く、殆どが馴染みとなってしまうので、同輩らの鬱憤は溜まる一方であった。何時からか津村は、私物を隠されたり壊されたりするようになった。それでも人前で泣いたり落ち込んだりすることもない気性だったので、その小さな嫌がらせは止むことが無かった。
それくらいなら妓楼にはよくある話かもしれない。けれど津村の名が廓の内外に知れ渡った事件があった。自分の姉である浜風花魁の馴染み客を、寝取ったのである。正確に言うと、登楼が重なり独り寝で待たされていた馴染み客の座敷に名代として上がった後、客が津村を指名したいと言い出したのである。吉原では客と女郎は夫婦の契りを交わすことが決まりなので、それは離縁に等しい。しかも別の見世ならまだしも同じ見世の中で、番付最上位の花魁が自らの妹に客を取られるなど、前代未聞の醜聞であった。
この件は絵師によって直ぐ浮世絵にされ、あっという間に吉原の外にまで噂が広まった。廓に売られて来てからずっと面倒を見て貰っていた姉から客を奪うとは、如何ほどの美姫か。花魁以下の女郎が顔を揃える張見世部屋の格子の向こうには、冷やかしの見物人が殺到した。その数多の好奇の視線をものともせず、津村はずっと涼しい貌で煙管を燻らせていたのだった。
程なく花魁は長年の馴染みであった松本検校に身請けされ、妓楼を去った。次の番付で最上位となったのは二人で、その内の一人が津村であった。大尽と呼ばれる金払いの良い客を何人も抱えていたので当然の出世であるが、腑に落ちぬ顔をした女郎らは多かった。事前に見世の主人と「話を付けていた」のではないか、と話す者もいた。
けれど亮芳は、昔から如何もそうとは思えなかった。津村は若い頃から余暇を惜しんで姉から盗めるものを盗み、それが結実したからこその口八丁――手練手管なのではないか。同輩らを蹴落とすことが目的ならば、私物を壊された時に声高に叫ぶのではないか。そして醜聞の件も、何故誰も見ていないのに津村が寝取ったと決め付けるのか。褥の中で何が起こったのかなど、当人以外知る由もないというのに。
そう思う裏付けなど何処にもない。ただ肌で感じるだけだ。しかし亮芳は長年その勘を捨て切れずにいる。それは近くで見る津村の切れ長の眸が、黒く澄んでいるからであろうか。
俄かにざあっと強い風が吹く。薄く色付く桜の花弁が、中庭にひらひらと舞っていた。
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