緑の袱紗が鳴るとき

ホルモンヤん

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 藍川家との付き合いは古くからあったらしく、俺の和服の注文をきっかけに春樹とも会う機会も自然と増えていった。藍川家を訪れるたびに春樹の作業場を覗き、葉鶴家に来るたびに茶室に招き入れてお茶を振舞う。
 春樹は相変わらず藍川織に真剣に取り組んでいて、俺はそれを眩しく思っていた。周囲の空虚な華族たちとは違う何かがあったからだ。
 ときにはその真面目さを揶揄うこともあったが、無邪気な笑い声と楽しい雰囲気は変わることはない。その全てが心地よく、胸に温かさをもたらす瞬間だった。そうして時間が過ぎていった。

 二年が経つ頃、春樹に弟が生まれた。その面倒を見るのに忙しくなったのか、それをきっかけに春樹がこちらに来ることはなくなった。俺もまた、両親が病に伏せてしまい、藍川家へは行けなくなった。

 また会えるやろ

 心のどこかでそう呟く。けれどその「また」はさらに6年の月日を必要とした。


 信頼できる大人も心の拠り所もない。病に伏せる親に頼れず、俺は一人で醜い華族の世界と向き合った。

「葉鶴さんも大変やねぇ。若いのに、よくまぁ華族の務めを果たしてらっしゃること」

 茶会の席で、婦人が柔らかい口調の中に棘を隠して言葉を放つ。

「けどまぁ、勲功を得た家柄やし。長い歴史のある武家や公家とはやっぱり違うて、いろいろあるでしょう?」

 きしり、胸の奥が音を立てた。
 婦人の吐き出す言葉は軽やかに見えて、空気を重くする。呼吸が出来ないほどの苦しさに肺を締め付けられながら、俯くように頭を下げた。

「いえ……お心遣い、ありがとうございます」


 別の日には、ある若い男の集まりの中で。

「葉鶴家は……そうやな、茶道で名を上げたんやろ? 伝統いうたら武士の領分やのに、ようそこまで背伸びしはったなぁ」

 その場が笑いに包まれる。
 きしきし、胸の奥が歪んだ。
 その笑いに続くように俺も薄く笑顔を浮かべる。その笑顔が自分自身の感覚を薄くさせていくのが分かった。

 そんな日々の心の拠り所となったのが、緑の袱紗だった。伝統とは異なる緑のそれは、あの空っぽな奴らとは違う。袱紗を手のひらで握りしめ、額に押し当てる。かすかにザラついた布の感触が、ほんの少しだけ胸の奥の軋む音を和らげてくれる気がした。けれど。

「えらい頑張ってはるなぁ」
「うちらと違おて」
「うらやましいわぁ」

 軽い言葉と重い空気。楽し気な嗤い声。毎日毎日、そのどれもが俺をじわじわと押し潰していった。
 きしきしきし、胸の奥にひびが入った。

 何度も心が擦れる。自分のなにかがすり減り、悲鳴を上げているのが分かる。たった一人で、笑顔の仮面をかぶって、嗤われて。「華族」としての姿を崩さないように必死で。きしきしきしきし、胸の奥がうるさい。

 「言い返してやりたい」

 でも何も言わないことが「正解」だと知っていた。そして声を、息を飲み込んだ。
 呼吸をしようと吸っても吸っても、胸に届かない。吐き出すことも出来ない。ただ息を詰まらせて、気を失いそうだった。誰も手を差し伸べることなどなく、目の前が真っ暗になっていくのを感じた。


 ……そうして、気づくと無意識に藍川家へと足を運んでいた。
 6年振りのその敷地。足を踏み入れた瞬間に心が湧きたつ。足を進めるにつれて息が楽になる。息を切らし、駆け足でいつもの作業場へと向かった。そう、いつも温かさをくれた、陽だまりのようなあいつを求めて。
 がらりと勢いよく扉を開けた正面にはあいつが、春樹がいた。
 久しぶりに見た姿はすっかり大人びていた。小さな手で織物を染めていたあいつではなく、藍川織の職人のそれで。そして、


 ——作業場の織物全てが藍色一色に染まっていた


「藍色ばっかやん。ほかの色はどないしたん?」
「……珠くん?」

 突然の俺との再会に驚きと喜びの顔を浮かべながら、春樹は問いに答える。

「弟もできたし、教える身としてしっかりと伝統を引き継がないと。他の色はもう作らないって決めたんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが割れる音がした。


「ッ前言ってた、藍川織を広めるためってのはどうしたんや!」
「やっぱり、伝統は守らないと」

 そうやってふわり笑って俺を見る。「伝統を守る」のが誇りで、それが好きだと言わんばかりの顔で。

 自分の身体が冷えていく。
 ずっと輝いていた姿が、昔の春樹が、べちゃりと墨で塗り潰された。俺が唯一心を許せていた相手。無邪気で、純粋で、そうやって笑いあった日々。その過去など、もうどこにも存在しなかった。

 ……こいつも同じや。他の華族と。親と。伝統、伝統、伝統。「伝統」を重んじる下らない、そんな空っぽな奴らと。

「そうなんや。じゃあ頑張らんとね」

 とても軽い言葉が口から出た。それに気づかず春樹は「うん、ありがとう!」と満面の笑みで答える。真っ黒に染まったそれをもう見たくなかった。
 別れを告げ、足早に家路をたどる。背中越しの「またね」の声が、あの不快な華族どもの、けたたましい嗤い声に聞こえた。
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