緑の袱紗が鳴るとき

ホルモンヤん

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 年月が経ち、藍川家の没落がはっきりと目に見え始めた頃。当主がうちへと顔を出した。
 目的は金銭と販路拡大の支援を求めるもの。
 それを聞いた瞬間、ジワリと胸に仄暗さが広がった。

「でもなぁ、うちには何も利益がないしなぁ」

 そう言い淀むふりをすると、態度の大きかった当主は慌てて言葉を継いだ。

「うちの者を奉公に出します。なんでもやらせて構いません。どうか、それで……」

 あぁ、やっとやわ

「そこまで言われてしまうと。今まで長い付き合いですからね」

 そう微笑みを浮かべると、安堵したように当主は息を吐いた。それを見て胸中で嗤うように呟く。

 それが春樹にとって何を意味しているのか知らんのにな

 そうして奉公にやってきたのは春樹と弟の冬也の二人。午後のお茶席の約束を取り付け、弟くんは女中に案内させてる間に、俺は春樹と二人きりとなった。

「何するか、分かっとるやんな?」

 そう問いかけても目を伏せて黙ったまま。

「当主から『なんでもやらせて構いません』と言われとるし、そっちも分家の長男として奉公の責任はあるやろ?」

 俺の言葉に、春樹の肩がわずかに震えたように見えた。それでも、こいつは頑なに沈黙を守り続ける。

「弟くんにもバレとうないやろし、合図でも決めよか」

 懐から緑の袱紗を取り出した。かつて春樹にもらったあの緑の袱紗。何度も捨てようと思い、できずに机の引き出しの奥にしまい込んでいたそれを、さらりと見せつけるように目の前で広げてみせる。

「昔もろた袱紗、大事に大事に持っとたんやで?」
 春樹は動かない。ただその視線が一瞬だけそれに向けられ、小さく震えた。

「 せっかくやし、これ使いましょ。茶席でこれを使うたら夜の相手をする。ただの性欲処理や、そんな気にすることないやろ」

 冷たく突き放すような口調に、春樹の表情は少しも動かなかった。それでも、膝の上で微かに拳を握りしめているのが分かった。

「伝統を守るために自分を差し出す、それが本物の奉公やないの?」

 静かにそう告げると、春樹は長い沈黙の後、ほんのわずかに頷いた。


 それから行った午後の茶会。そこであの袱紗を使うことはなかった。
 恐れを押し隠しながらも態度にはにじみ出る。これから自分の身に起きること、それに不安を覚える春樹の姿を見てただ愉悦に浸る。だがそれもつかの間のこと、こいつも男娼のように体で支援を得るなど嫌なはずなのに、「伝統」を重んじる姿勢は揺るがなかった。

 茶会はその後しばらく開かなかった。二人には何も連絡せず、ただ仕事に専念させる。それは無関心でもなく、敢えてのこと。
 次第に緊張を解き、安堵して生活する春樹の姿が目に浮かぶ。夜も少しずつ早く眠れるようになり、肩の力を抜いて仕事に没頭しているその姿。
 少しずつ少しずつ「何も起こらない」と平穏を感じさせる。その平穏を突然壊して突き落として。

 緑の袱紗を見せたら、どんな顔するんやろ。
 伝統で黒く塗りつぶされた春樹の、町で見た、ただただ眩く光るあの目も曇るんやろか。もう嫌だと全てを捨てるんやろか。

 袱紗を手に取り、握りしめる。不思議と心が落ち着く。なぜならこれは伝統を捨てさせるきっかけになると思っているから。
「藍川織」を必死に守ろうとする春樹がそれを捨てる——その瞬間を考えるだけで胸が満ちていくのを感じた。


 そして春樹が奉公に来てから1週間後。
 ついに茶会で緑の袱紗を使った。
 ぱんッという音が響く。春樹はその音に振り返って凍りつき、苦渋の表情を浮かべる。にもかかわらず

「これからの『仕事』の励みになりますね」

 あいつは毅然とそう口にした。
 煽るような言葉。曇らず、まっすぐ、藍川織を信じる瞳をやめない。

 きしり。またあの音が聞こえる。
 こっちが追い詰めているはずやのになんで——なんで、この音が鳴るんや

 そのまま、何も抵抗しない春樹をそのまま作業室の隣の寝屋に連れ込み行為に及んだ。ほとんど慣らしもしない支配的なそれに、声を堪え、涙を流す。そしてただじっとその大きな瞳で俺を見つめる。

「なんや、それ」

 抑えきれない焦燥感に低く呟いても、春樹は何も言わない。その肩を微かに震わせるだけ。息を詰め、涙が零れている。けれど、それだけ。泣き言ひとつ、恨み言ひとつ口にすることなく、ただただ口を閉じて耐えて。
 その無言が俺の苛立ちをさらに掻き立てた。

 春樹の瞳に浮かぶのは屈辱でも、俺に対する憎悪でもない。それは、自分に課せられた役割を受け入れるような静かな覚悟。
 夜が更けるごとに胸の奥が焼きついた。喘ぎ声以外、否定も抗議も発しない春樹が、その瞳が、俺の奥底を静かに抉る。日が昇るまでただひたすら、この不快な衝動を発散するように身体を貪った。
 けれど、春樹はそのまま何も変わらなかった。


+++


 それから何度も抱き、弟を引き合いに出して脅すように北の離れへと閉じ込めた。
 今日も扉を開けると、織物に集中している姿が目に入る。かつて出会った頃の純粋な熱意をそのままに、いや、それ以上にこいつは織物に向かっていた。背中越しに漂う疲れと、冷たい空気に白く溶ける吐息。

 その姿に胸の奥がぐるぐると渦巻く。

「春樹」

 短くそう呼びかけると、ピクッと手を止める。そして促されるままに、いつもの部屋へと足を運んだ。
 そっとその顔に触れると、肩が震え、身を引いた。まるで俺を拒絶するように。

「分かっとるやんな、伝統を守るためになんでもできるんやろ」

 そう冷たくいう俺に、力を抜き、春樹はただ身を任せるだけになった。そうして行為を始める。春樹にとって愛もない、ただ性欲を発散させられるだけのそれを。また。

「っん、ぅん゛…、ぁ、っ、ああ゛ッ…、んん゛」

 挿入され、責め立てられ、喘ぐ春樹の背中を見下ろす。
 何時いつになったら堕ちるんやろ。何時止めたいと言い出すんやろ。何時こいつは自分がこんな目に遭っている原因の本家も、大事な弟も、藍川織の伝統も全部諦めるんやろ。何時、何時、何時まで。

 喘ぎながら敷布を握りしめて、懸命にただただ快楽に堪える春樹に手を伸ばし、顔をこちらに向ける。真正面からその目とかち合った。

 またこれや

 どれだけの屈辱を受けても変わらない、チカチカと眩しくこちらが焼き尽くされるような瞳。


『僕、周りが大人ばかりだから。自分と同年代の友達なんて嬉しいな』
『別に、たまたま年が近かっただけやろ』

 そう言ったかつてのことを思い出す。あの頃はただ——。


 こう望んだのは俺のはずやのに。押さえつけて、支配して、ぐちゃぐちゃに踏みにじって。それやのに、なんで。

 なんでこんな気持ちになんねやろ

 身体のどっかにぽっかりと穴が空いている。
 春樹の瞳に映る自分は、ただ空っぽの存在にしか見えなかった。


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