終末のグリモワール

五月雨雫

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序章

第一話「“レヴリ”」

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 ここはとある森の中。
 一口に森といっても鬱蒼うっそうとした薄暗いそれとは程遠く、不気味さなど欠片も見当たらない。
 天から降り注ぐ暖かな陽の光や高い青空を切り取るように、新緑の木々がその枝を目一杯伸ばしている。葉からこぼれ落ちた木漏れ日は地表の草原を照らし、ぽつぽつと柔らかな点を残す。さながら、まっさらなキャンバスに滲む水彩の絵の具のようだ。
 サラサラと草木を撫でる風の音、楽しげに歌う小鳥達の声、至る所に咲き乱れる綺麗な花々と、その上でじゃれ合い舞い踊る色とりどりの蝶。
 立ち入った者はつい目的を忘れ、思わず木陰に腰を下ろしてはうたた寝をしてしまう――そんな噂から、この場所はいつしか“微睡の森まどろみのもり”と呼ばれるようになったらしい。
 そんな微睡の森に、見慣れぬ青年が一人。
 
 真っ白な半袖のシャツに、それとは対照的な真っ黒の長ズボン。パーカーの襟と長いマフラーを足したような灰色と黒のケープは色に沿って背面で二股に分かれ、裾は翼によく似た形状をしている。
 その上、彼の髪の毛は日常に溢れるどんな白色さえも霞むほどに混じり気のない純白であり、陽だまりの中で穏やかにすうすうと寝息を立てる様子も相まってか、見る人が見れば“空から降ってきた天使”だと勘違いをしても何らおかしくはない。
 ――しかし、先程から目を覚ます気配は一向に無く、浅くも深い、夢幻の波間を漂っているようだった。
 そうしてしばし穏やかな時間が流れていたが、突如として平穏な昼下がりは終わりを告げる。
「グルルル……」
 見るからに獰猛そうな魔物が、茂みの中から赤い目をあやしく光らせながら悠然と姿を現したのだ。
 赤黒い体毛に、口角の両脇から伸びる湾曲した二本の太い牙、黒曜石のような美しくも鋭利な蹄――巨大な猪を思わせるその獣は、重みを帯びた足取りで一歩、また一歩と眠っている彼へと接近する。
 森の施しに誘われたのか、はたまた別の要因か。考えるいとまも与えぬまま、大猪は無防備な青年に襲いかかった。

 ――刹那、弾けるような爆発音と共に、数発の火球が魔物に命中する。
 獲物である青年の姿しか捉えていなかったらしい大猪は不意打ちを受け、大岩の如き巨体が少しだけよろめく。だが、次の瞬間には体勢を立て直し、怒り心頭といった様子で火の粉を振り払うように荒々しく頭を左右に振った。
 臨戦体勢となった魔物の鋭い視線の先には、先程火球を放ったらしい一人の少女が勇敢にも身構えている。
 ぴんと立った左右の大きな獣耳と、ふんわりとした毛に包まれた二本の尾――毛先が綺麗に切り揃えられた長くつややかな黒髪が、後頭部の高い位置で結えられ、結び目にある大きな赤いリボンと共に揺れ動く。
 巫女装束によく似た衣服を身にまとう彼女は、風貌こそ紛れもなく“少女”であるものの、随所に散見される特徴は“狐”そのものだった。
「こ……こっちだよ!」
 仕留めるどころか擦り傷一つ付けられない現実に少したじろぐも、猛攻の手を緩めることはない。依然として眠ったままの青年にちらと視線を落とすと、軽い身のこなしで瞬時に距離を詰め、庇うように魔物と彼との間に割り込んだ。
 すっかり頭に血の上った大猪が、今度は明確な殺意をもって少女へと突進する。抉れるほどに蹴り上げられた地面から土煙が舞い上がり、一瞬にして視界は急激に悪化した。それでも空気をも揺さぶりながら迫り来る激しい足音と、地から足を伝い全身に流れる振動から、対象との位置関係は視覚に頼らずとも手に取るように分かる。
 ――もっとも、イレギュラーでもない限り猪に蛇行のような真似は出来ないため、動きを読むのは比較的容易なのだが。
「守護結界――」
 少女の足元で炎が渦巻く。ごうごうと音を立て煌めく炎は次第に激しさを増し、やがて彼女さえ覆い隠した。

「――――展開!」
 その声と、何かが壁に激しく衝突したかのような鈍い音が森中に響き渡ったのは、ほぼ同時だった。
「グオォォォ!」
 怒りか苦悶か、大猪が咆哮する。
 土煙が少しずつ風に流され、煙っていた視界が晴れてゆく。衝撃で飛び散った火の粉が柔らかな太陽光に反射し、場違いな美しさを演出していた。
 そこには守護結界――術者の背丈の何倍もあるような札を四方八方に張り巡らせ、それまでの気弱そうな表情からは一変、凛とした目つきで魔物を見据える黒狐の少女の姿があった。その範囲は広く、自身のみならず後方の青年まで完全に包み込んでいる。
 相当な衝撃であったにもかかわらず、結界には亀裂どころか傷すら見当たらない。魔物から視線を外さぬままたたずむ彼女の二本の黒い尾が、浮遊しているかのように揺らめく。
 最悪の事態こそ避けられたが、このまま睨み合っていても防戦一方でらちが明かないことは明白だった。生憎、こちらの攻撃が全くと言っていいほど通らないのは一番最初に仕掛けた不意打ちの時点で判明してしまっている。
 何より、守護結界を維持するための妖力ようりょくには限界がある。今こうしている間にも絶えず消耗しており、維持が不可能になった瞬間、もし相手がまだ動ける場合は一気に形勢が逆転してしまう。
 ――優勢なように見えるが、正直、手詰まりだ。
 焦ったところで打開策など見つからないが、一刻も早く次の手を打たなければならない。突進の反動から持ち直し、今にも再び攻撃を仕掛けてきそうな大猪を脇目に彼女は思案する。しかし、
(今は……こうするしか……!)
 相手に隙が無い以上、下手に仕掛ければ自らの守りを脆弱にすることに他ならない。よって今、この状況で無理に攻撃へと転じるのは愚策でしかなかった。
 妖力には限りがある。だからこそ、使い時と使い方は見極めなければならない。
 魔物の次の攻撃を耐えた後に生じる大きな隙――その僅かな可能性に賭け、少女は両手を結界へとかざし、更に強度を高めるべく妖力を注ぎ込んだ。
 ところが、体内に蓄えた魔力で自己強化を行なったのか、一度目よりも激しく、そして目にも留まらぬ速さで大猪が突っ込んでくる。もう後が無いと、そう言わんばかりの気迫だった。
 隙が生じるどころか逆により研ぎ澄まされ、背水の陣の如く限界まで潜在力の発現した魔物を前に、一瞬、彼女の表情が強張る。だが、こちらも後には引けない。
 妖力を注ぐ両手にありったけの力を込め、荒れ狂う獣を迎え撃つ覚悟を決めた。
 再び大猪が守護結界に激突する――正に、その時。

「ギャオオォォオオ!!」

 耳をつんざくような断末魔が、静かな森にこだました。

 辺りが、しん、と静まり返る。
 まるで初めから何事も無かったのではないかと錯覚するほどに、暖かく優しい風が髪や頬を撫でてゆく。
 固くつむっていた両目を恐る恐る開いた少女の視界に飛び込んできたのは、地面から突き出た巨大な氷柱に胴体もろとも心臓と脳天を貫かれ、事切れた大猪の姿だった。
「――――え…………っ?」
 助かった――? その安堵からか、張り巡らされていた守護結界は霞がかかるように消え、彼女もまた、その場に力無くへたり込んだ。

「カガリちゃん!」
 ガサガサとそばの茂みが音を立て、少女の名を呼ぶ声が響く。ここまで急いで来たのか、青い着物を身にまとった声の主は息を切らしていた。
「っ、ユキネちゃん……!?」
 黒狐の少女――カガリは驚いた様子で呼ばれるままに振り向く。その先には彼女とよく似た特徴を持った、もう一人の狐の少女が心配そうにたたずんでいる。
 艶やかな黒髪に真紅の瞳をしたカガリとは対照的に、編み込んだ根元を青色のリボンで結えたその髪の毛や耳、尻尾の色は美しい雪景色を思わせる銀色がとても眩しく、長い前髪に覆い隠されていない方の瞳もまた、澄んだ青色をしていた。
「ご、ごめんね! 勝手に飛び出したりなんかして……」
 座り込んだまま、ばつが悪そうに苦笑いをしながら言う彼女に、駆け寄ってきた白狐の少女――ユキネが否定の意を込め首を横に振る。
「ううん、私のことはいいの。それより、怪我は……!?」
「どこも怪我してないよ、大丈夫。――ほんとにありがと~……助かったぁ~……」
 両膝をついてしゃがみ込み、心配するユキネに差し出した片手を握られながら、緊張の糸が完全にほぐれたカガリは脱力した声色で安堵する。そんな友人につられたのか、不安そうにしていた彼女の表情も少しほころんだ。
 一波乱の末に脅威が去り、微睡の森に再び平穏が戻る。
 ゆるりと立ち上がったユキネは仕留めた魔物を注意深く眺め、それから軽く指を鳴らす。すると、亡骸を貫いていた巨大な氷柱は忽然こつぜんと姿を消した。
 ドサ、と正気の無い鈍い音を立て、しかばねは乾き切った赤黒い血痕の上に落ちる。その肉体が微弱な魔力を放っていることを確認すると、カガリはどこからか謎の薬品の入った試験管を取り出した。
 栓を外し、その中身を大猪の巨大へ注いでいく。無色透明だったはずのそれは魔物の亡骸に触れることで眩い光を放ち、手品のように、たちまちその場から血痕もろとも消し去った――ある種の転移魔法のようだ。
「これでよし、と……」
 空になった試験管に再度、栓をしながらカガリがゆっくりと振り返る。
「――それでさ、ユキネちゃん、」
「? どうしたの?」

「この人……遭難者なのかな?」
「……えっ!?」

 二人の目の前には、あれだけの騒ぎがあっても尚、すやすやと眠りこける一人の青年の姿があった。
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