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「お茶、ですか? ……正気か。この状況で」
隣人の男性――ギルベルト様は、私の差し出した「空の手」を見て、眉間に深い溝を作りました。
ええ、確かに今はティーカップを窓辺に置いただけで、お湯も沸かしていません。
「あら、ごめんなさい。あまりに日当たりが良かったので、つい未来の予定を口にしてしまいましたわ。まずはお掃除が先でした」
「……あんた、自分がどこにいるか分かっているのか。ここは王都でも最下層に近いスラムの端だ。淑女が一人で来るような場所じゃない」
「淑女、ですか? いえ、私は今日からただのニュールです。お父様にサインももらいましたし」
私はそう言って、埃の積もった床をワンピースの裾でパタパタと払いました。
ギルベルト様は絶句した様子で、私の挙動を見つめています。
「おい、待て。何を……その服、シルクだろう。それで床を拭くつもりか?」
「ええ。どうせこれからは着る機会もありませんし、シルクは埃を吸着するのに優れていると聞いたことがありますわ。掃除道具を買うお金も節約できて一石二鳥です」
「……一石二鳥の使い方が間違っている。常識を疑うな」
「常識、ですか。それをおやつに添えても美味しくなさそうですね」
私はふふ、と笑って、窓際から這い出ていた蔦を素手で引きちぎりました。
部屋の中は蜘蛛の巣だらけで、床は歩くたびにミシミシと悲鳴を上げます。
普通の令嬢なら気絶するか、泣いて逃げ出すところでしょう。
「見てください、ギルベルト様。この蜘蛛の巣の張り具合、まるで繊細なレースのようですわ。あそこの角に椅子を置けば、きっと素敵な読書コーナーになります」
「椅子、だと? ……この部屋にそんなものはないだろう。あるのは埃と湿気だけだ」
「家具はこれから集める楽しみがありますもの。今は、この鞄を横に倒せば立派なテーブルになりますわ」
私は自分の大きな革鞄を床に置き、その上に大切に持ってきたティーカップを一つ、ちょこんと乗せました。
「ほら、見てください。急に『生活の知恵』が溢れるお部屋になったと思いませんか?」
「……ただの貧乏生活にしか見えないが」
ギルベルト様は溜息をつき、頭を抱えてしまいました。
なぜ彼がこんなに苦労しているような顔をするのか、私にはさっぱり分かりません。
「あんた、名前は?」
「ニュール・ササール……いえ、今はただのニュールですわ」
「ササール……。あの侯爵家の? まさか、昨晩王子と婚約破棄したという、あの『悪役令嬢』か」
「まあ、ギルベルト様は耳が早いのですね。ええ、そうです。私がその、モンブランのために国を揺るがした(と言われている)女ですわ」
私は誇らしげに胸を張りました。
ギルベルト様は、信じられないものを見るような目で私を見据えています。
「……悪役、というよりは……ただの変人だな。なぜあんな華やかな場所から、こんな掃き溜めにわざわざ自分から飛び込んでくる」
「飛び込んだのではありません。美味しいお茶を、誰にも邪魔されずに飲むための『隠れ家』を見つけただけですわ」
私は窓を開け放ち、外に広がる荒れ放題の庭を指差しました。
「あそこのミント、見事だと思いませんか? あれを摘んで、少しのジャムと一緒に煮出せば、最高の食後酒代わりになります。ギルベルト様、火と水はどこで手に入りますか?」
「……あそこの共同井戸だ。火は、俺の家にある。だが、貸すとは言っていない」
「あら、お隣さんですもの。仲良くしましょう? お礼に、私の特製イチゴジャムを一口差し上げますから」
私は鞄の底から、大事に守り抜いたジャムの瓶を取り出して見せました。
ギルベルト様は、その瓶と私の笑顔を交互に見て、ついに力尽きたように肩を落としました。
「……勝手にしろ。ただし、俺の家で騒ぐな。俺は静寂を愛している」
「静寂、いいですね。お茶を淹れる音だけが響く部屋。最高ですわ」
私はさっそく、シルクのワンピースを膝丈まで捲り上げました。
「さて! まずは井戸からお水を運んでくるところから始めましょう。運動になりますね!」
「……捲りすぎるな。はしたない」
ギルベルト様の小言を背中で聞き流しながら、私はスキップで外へと飛び出しました。
石畳の隙間から生える雑草さえも、今は私を祝福する花束に見えます。
自由。
掃除。
そして、美味しいお茶への期待。
「人生、捨てたものではありませんわね。お父様、ジャムを持ってきて本当に正解でした!」
私が大きなバケツを持って井戸へ向かう後ろ姿を、ギルベルト様がどんなに複雑な表情で見送っていたか。
それを知る由もない私は、新しい生活の第一歩を、力強く踏み出したのでした。
隣人の男性――ギルベルト様は、私の差し出した「空の手」を見て、眉間に深い溝を作りました。
ええ、確かに今はティーカップを窓辺に置いただけで、お湯も沸かしていません。
「あら、ごめんなさい。あまりに日当たりが良かったので、つい未来の予定を口にしてしまいましたわ。まずはお掃除が先でした」
「……あんた、自分がどこにいるか分かっているのか。ここは王都でも最下層に近いスラムの端だ。淑女が一人で来るような場所じゃない」
「淑女、ですか? いえ、私は今日からただのニュールです。お父様にサインももらいましたし」
私はそう言って、埃の積もった床をワンピースの裾でパタパタと払いました。
ギルベルト様は絶句した様子で、私の挙動を見つめています。
「おい、待て。何を……その服、シルクだろう。それで床を拭くつもりか?」
「ええ。どうせこれからは着る機会もありませんし、シルクは埃を吸着するのに優れていると聞いたことがありますわ。掃除道具を買うお金も節約できて一石二鳥です」
「……一石二鳥の使い方が間違っている。常識を疑うな」
「常識、ですか。それをおやつに添えても美味しくなさそうですね」
私はふふ、と笑って、窓際から這い出ていた蔦を素手で引きちぎりました。
部屋の中は蜘蛛の巣だらけで、床は歩くたびにミシミシと悲鳴を上げます。
普通の令嬢なら気絶するか、泣いて逃げ出すところでしょう。
「見てください、ギルベルト様。この蜘蛛の巣の張り具合、まるで繊細なレースのようですわ。あそこの角に椅子を置けば、きっと素敵な読書コーナーになります」
「椅子、だと? ……この部屋にそんなものはないだろう。あるのは埃と湿気だけだ」
「家具はこれから集める楽しみがありますもの。今は、この鞄を横に倒せば立派なテーブルになりますわ」
私は自分の大きな革鞄を床に置き、その上に大切に持ってきたティーカップを一つ、ちょこんと乗せました。
「ほら、見てください。急に『生活の知恵』が溢れるお部屋になったと思いませんか?」
「……ただの貧乏生活にしか見えないが」
ギルベルト様は溜息をつき、頭を抱えてしまいました。
なぜ彼がこんなに苦労しているような顔をするのか、私にはさっぱり分かりません。
「あんた、名前は?」
「ニュール・ササール……いえ、今はただのニュールですわ」
「ササール……。あの侯爵家の? まさか、昨晩王子と婚約破棄したという、あの『悪役令嬢』か」
「まあ、ギルベルト様は耳が早いのですね。ええ、そうです。私がその、モンブランのために国を揺るがした(と言われている)女ですわ」
私は誇らしげに胸を張りました。
ギルベルト様は、信じられないものを見るような目で私を見据えています。
「……悪役、というよりは……ただの変人だな。なぜあんな華やかな場所から、こんな掃き溜めにわざわざ自分から飛び込んでくる」
「飛び込んだのではありません。美味しいお茶を、誰にも邪魔されずに飲むための『隠れ家』を見つけただけですわ」
私は窓を開け放ち、外に広がる荒れ放題の庭を指差しました。
「あそこのミント、見事だと思いませんか? あれを摘んで、少しのジャムと一緒に煮出せば、最高の食後酒代わりになります。ギルベルト様、火と水はどこで手に入りますか?」
「……あそこの共同井戸だ。火は、俺の家にある。だが、貸すとは言っていない」
「あら、お隣さんですもの。仲良くしましょう? お礼に、私の特製イチゴジャムを一口差し上げますから」
私は鞄の底から、大事に守り抜いたジャムの瓶を取り出して見せました。
ギルベルト様は、その瓶と私の笑顔を交互に見て、ついに力尽きたように肩を落としました。
「……勝手にしろ。ただし、俺の家で騒ぐな。俺は静寂を愛している」
「静寂、いいですね。お茶を淹れる音だけが響く部屋。最高ですわ」
私はさっそく、シルクのワンピースを膝丈まで捲り上げました。
「さて! まずは井戸からお水を運んでくるところから始めましょう。運動になりますね!」
「……捲りすぎるな。はしたない」
ギルベルト様の小言を背中で聞き流しながら、私はスキップで外へと飛び出しました。
石畳の隙間から生える雑草さえも、今は私を祝福する花束に見えます。
自由。
掃除。
そして、美味しいお茶への期待。
「人生、捨てたものではありませんわね。お父様、ジャムを持ってきて本当に正解でした!」
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それを知る由もない私は、新しい生活の第一歩を、力強く踏み出したのでした。
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