婚約破棄? お構いなく。私は私らしく生きていきますわ

どんぶり

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「……ギルベルト様。先ほどから、ペンの先が止まったまま三十分が経過しておりますわよ」


私はギルベルト様の書斎の扉を、ノックもせず(いつものように)開けました。


今日の彼は、いつもの鋭い眼光がどこかぼんやりとしていて、手元の書類も全く進んでいない様子です。


「……ニュールか。不法侵入はやめろと言っているだろう。それに、今日は仕事をしているわけではない」


「あら、お仕事でないならなおさらですわ。そんなに難しい顔をして、空っぽの紙を見つめて何をしておいでですか?」


「……休日だ。だが、何をすればいいのか分からなくてな。結局、習慣でここに座ってしまった」


ギルベルト様は自嘲気味に笑い、ペンを置きました。


一国の宰相ともあろう方が、休日の過ごし方もご存知ないなんて。


私は、持っていたピクニックバスケットを机の上にドンと置きました。


「もったいない! 休日は、美味しいものと、何もしない贅沢を味わうためにあるのですわ! さあ、行きましょう。私が最高の『休息』を伝授して差し上げますわ」


「……断る。俺は静かに――」


「静かに川を眺めるのですわ。さあ、立ってくださいませ。座りすぎて腰がパンの生地みたいに固まってしまいますわよ」


私は強引にギルベルト様の腕を引き、彼を椅子から引き剥がしました。


しばらく抵抗していた彼も、私の「おやつへの執念」からくる怪力に屈したのか、溜息をついて立ち上がりました。


王都の外れを流れる、穏やかな小川。


私たちはその堤防に座り、ただ流れる水面を眺めていました。


「……それで。ここに来て、俺は何をすればいいんだ? 何か重大な密談でもあるのか?」


ギルベルト様が、警戒心を解かないまま尋ねてきました。


私はバスケットから、朝焼いたばかりの「くるみと蜂蜜のスコーン」を取り出しました。


「何もしないのですわ、ギルベルト様。ただ、このスコーンを齧りながら、水が流れる音を聴く。それだけです」


「……それだけ? 他には?」


「ええ。時々、雲の形が何のお菓子に見えるか当てるくらいでしょうか。あそこの雲、ふわふわの綿菓子のようで美味しそうですわね」


「…………」


ギルベルト様は絶句した様子で、空を見上げました。


やがて彼は、諦めたようにスコーンを一口齧りました。


「……香ばしいな。くるみの食感がアクセントになっていて、蜂蜜の甘さが後から追いかけてくる」


「でしょう? この『後から来る甘さ』を感じるには、心を無にしなくてはならないのですわ。どうです? 条約の文言よりも、スコーンの繊維の方が重要に思えてきませんか?」


「……いや、さすがにそれはないが。だが、不思議だな。こうして座っていると、王都の喧騒が遠く感じる」


川のせせらぎ。風に揺れる草の音。


ギルベルト様は、次第に肩の力を抜き、深く息を吐きました。


「……俺は、ずっと走っていなければならないと思っていた。俺が止まれば、この国の歯車が狂うと信じていたからな」


「あら。ギルベルト様が止まっても、川は流れますし、パン屋さんの釜は熱くなりますわ。世界は意外と、図太くできているものです」


私は自分のスコーンを頬張りながら、のんびりと答えました。


「自分を追い詰めて、苦い顔でお茶を飲むなんて損ですわ。美味しいものは、余裕がある心で迎え入れてあげなくては」


「……あんたは、本当にどこまでも自分らしく生きているな。婚約破棄された時も、家を追われた時も。……怖くはなかったのか?」


ギルベルト様の真剣な問いに、私は少しだけ考えました。


「怖い……。そうですね、お気に入りの茶葉が切れた時は、少しだけ震えましたわ。でも、それ以外は特に。だって、私が私である限り、美味しいものは私の元へやってきますもの」


「……ははっ。理屈になっていないが、あんたが言うと真理に聞こえるから困る」


ギルベルト様が、今日初めて、心からの笑みを漏らしました。


それは、書類を片付けている時の冷徹な笑みではなく、少年のような無邪気な笑い声でした。


私たちはそれから、日が傾くまで、ほとんど会話をせずに過ごしました。


ただ隣に座り、時々お茶を飲み、流れる川を眺める。


「……ニュール。悪くない休日だった。礼を言う」


帰路につく頃、ギルベルト様が穏やかな声で言いました。


「あら、お礼なら次の休日も付き合ってくださいませ。次は、森の中で『究極の木の実』を探す冒険に行きましょう」


「……冒険か。また疲れそうだが、あんたと一緒なら悪くないかもしれないな」


ギルベルト様の横顔は、朝よりもずっと明るく見えました。


私は満足げに頷き、空になったバスケットを揺らしました。


恋でもなく、密談でもなく。


ただ、美味しいおやつと静かな時間を共有する。


そんな贅沢が、今の私には一番お似合いのようです。
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