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「……はて。今日は随分と、街の空気が甘ったるいですわね」
特別休暇が始まって三日目。私は市場の真ん中で、小首を傾げました。
数日前まで、私が歩けばモーゼの十戒のように道が開き、背後からは「毒婦」だの「魔女」だのという囁き声が聞こえてきたものです。
それが今や、どうでしょう。
「あ、ニュール様! 今日もなんて神々しい……! この林檎、一番良いところを選んでおきましたので、どうか受け取ってください!」
「ニュール様、先日は失礼なことを言って申し訳ありませんでした! これ、うちの店特製のソーセージです。お詫びに差し上げます!」
差し出される林檎、握らされるソーセージ。私のカゴは、一歩歩くごとに重さを増していきます。
「……あら。皆様、急にどうなすったのかしら。今日は『恵まれない令嬢に施しをしようキャンペーン』の日ですの?」
私が不思議そうに尋ねると、八百屋の店主が涙を浮かべて首を振りました。
「とんでもない! ニュール様がアインス王子の数々の嫌がらせを、あんなに慈悲深く、笑顔で受け流していたというお話を聞きました。本当は、王家の腐敗を一人で食い止めようとしていた聖女様だったんですってね……!」
「聖女? 私が、ですか?」
私は思わず、自分の耳を疑いました。
「そうですわ! あの毒入りジュースを平気で飲んだのも、ミスティ様の罪を自らの体で受け止め、彼女を改心させようという尊い自己犠牲だったとか!」
「……あれは、単に喉が渇いていたのと、刺激的な味が癖になりそうだっただけなのですが」
「ああ! なんて謙虚なお方だ! 自分の手柄にしようともせず、あくまで『おやつ』のせいにするなんて!」
周囲の人々が、感動のあまり拝むように私を見つめています。
……困りましたわね。世間の想像力というものは、時に林檎の皮を剥くよりも強引なものです。
「……ニュール。あんた、また変な噂の種を撒いているのか」
呆れたような声と共に、人混みを割ってギルベルト様が現れました。
彼は私のパンパンに膨らんだカゴを見て、さらに深い溜息をつきました。
「ギルベルト様! 見てください、今日の戦利品ですわ。皆様、どういうわけか私を聖女だと思い込んでいらっしゃるようで、食べ物が次々と降ってきますの」
「……ああ。王宮でも同じだ。『ニュールのマイペースさは、混乱する政情を鎮めるための賢者の振る舞いだった』なんて評価が急上昇している」
「賢者……。私が、ですか?」
私はカゴの中から、先ほどもらったばかりのソーセージを一本取り出し、無造作に齧り付きました。
「賢者が、街中でソーセージを立ち食いするでしょうか?」
「……俺はしないと思うが、今の国民は『それこそが形式に囚われない自由な賢者の姿だ』と解釈するだろうな」
ギルベルト様は私のカゴをひょいと取り上げ、代わりに自分の腕を差し出しました。
「帰るぞ。これ以上ここにいると、あんたを祀り上げるための神殿が建ちかねん」
「神殿、いいですね。お供え物が毎日届くなら、悪くないかもしれませんわ」
「冗談でも言うな。面倒が増えるだけだ」
私たちは連れ立って、いつもの下町の小道へと戻りました。
すると、家の前には一台の豪華な馬車が止まっていました。
降りてきたのは、以前、市場で私にマウントを取ろうとしたあの男爵令嬢たちでした。
彼女たちは私を見るなり、地面に膝をついて頭を垂れました。
「ニュール様! 以前は大変なご無礼をいたしました! 私たち、アインス王子の甘言に惑わされ、真の賢者であるあなたを見誤っておりましたわ!」
「どうか、私たちをお許しください! そして、その素晴らしい『精神修養』の方法を教えていただきたいのです!」
私は彼女たちの必死な顔を見つめ、ふっと微笑みました。
「精神修養……。そんな難しいことは分かりませんわ。私はただ、美味しいものを食べて、よく寝ているだけですもの」
「まあ……! 『食』と『睡眠』という、生命の根源に立ち返ることこそが、悟りへの近道だとおっしゃるのですね!」
「いえ、単にお腹が空くのと、眠くなるだけで……」
「なんて深いお言葉……! 己の本能に忠実であることが、最大の美徳だという教え……。一生ついていきますわ!」
……ダメですわ。何を言っても、全てが良い方向に解釈されてしまいます。
私はギルベルト様の顔を見上げました。彼は肩を震わせて笑いを堪えています。
「ギルベルト様。私、どうすれば良いかしら。私はただ、自分らしく生きたいだけなのですけれど」
ギルベルト様は私の手を強く握り直し、彼女たちを冷ややかに一瞥しました。
「……聞いたか。彼女は『自分らしくいたい』と言っている。あんたたちが勝手に押し付ける『聖女像』や『賢者像』は、彼女にとってはただの邪魔な飾りだ。……消えてくれ。我々はこれから、大事なティータイムなんだ」
ギルベルト様の威圧感に、令嬢たちは「失礼いたしました!」と叫んで馬車へと逃げ帰っていきました。
ようやく静かになった庭で、私は大きな溜息をつきました。
「……ふう。悪役令嬢と言われるのも疲れましたが、聖女と言われるのはもっと疲れますわね」
「……だろうな。だが、安心しろ。俺だけは、あんたがただの食いしん坊で、少しだけ……いや、かなり変わった女だと知っているからな」
「あら。最高に安心できるお言葉ですわ。ギルベルト様、お礼にさっきのソーセージの半分を差し上げますわね」
「……ああ。聖女のソーセージではなく、ただのニュールからもらったソーセージとして、ありがたく頂戴しよう」
私は私。
世間がどう呼ぼうと、私の価値を決めるのは、私の手の中にある美味しい食べ物と、隣で笑ってくれるこの人だけ。
私は鼻歌を歌いながら、今日一番の茶葉を選ぶために、家の中へと足を踏み入れました。
特別休暇が始まって三日目。私は市場の真ん中で、小首を傾げました。
数日前まで、私が歩けばモーゼの十戒のように道が開き、背後からは「毒婦」だの「魔女」だのという囁き声が聞こえてきたものです。
それが今や、どうでしょう。
「あ、ニュール様! 今日もなんて神々しい……! この林檎、一番良いところを選んでおきましたので、どうか受け取ってください!」
「ニュール様、先日は失礼なことを言って申し訳ありませんでした! これ、うちの店特製のソーセージです。お詫びに差し上げます!」
差し出される林檎、握らされるソーセージ。私のカゴは、一歩歩くごとに重さを増していきます。
「……あら。皆様、急にどうなすったのかしら。今日は『恵まれない令嬢に施しをしようキャンペーン』の日ですの?」
私が不思議そうに尋ねると、八百屋の店主が涙を浮かべて首を振りました。
「とんでもない! ニュール様がアインス王子の数々の嫌がらせを、あんなに慈悲深く、笑顔で受け流していたというお話を聞きました。本当は、王家の腐敗を一人で食い止めようとしていた聖女様だったんですってね……!」
「聖女? 私が、ですか?」
私は思わず、自分の耳を疑いました。
「そうですわ! あの毒入りジュースを平気で飲んだのも、ミスティ様の罪を自らの体で受け止め、彼女を改心させようという尊い自己犠牲だったとか!」
「……あれは、単に喉が渇いていたのと、刺激的な味が癖になりそうだっただけなのですが」
「ああ! なんて謙虚なお方だ! 自分の手柄にしようともせず、あくまで『おやつ』のせいにするなんて!」
周囲の人々が、感動のあまり拝むように私を見つめています。
……困りましたわね。世間の想像力というものは、時に林檎の皮を剥くよりも強引なものです。
「……ニュール。あんた、また変な噂の種を撒いているのか」
呆れたような声と共に、人混みを割ってギルベルト様が現れました。
彼は私のパンパンに膨らんだカゴを見て、さらに深い溜息をつきました。
「ギルベルト様! 見てください、今日の戦利品ですわ。皆様、どういうわけか私を聖女だと思い込んでいらっしゃるようで、食べ物が次々と降ってきますの」
「……ああ。王宮でも同じだ。『ニュールのマイペースさは、混乱する政情を鎮めるための賢者の振る舞いだった』なんて評価が急上昇している」
「賢者……。私が、ですか?」
私はカゴの中から、先ほどもらったばかりのソーセージを一本取り出し、無造作に齧り付きました。
「賢者が、街中でソーセージを立ち食いするでしょうか?」
「……俺はしないと思うが、今の国民は『それこそが形式に囚われない自由な賢者の姿だ』と解釈するだろうな」
ギルベルト様は私のカゴをひょいと取り上げ、代わりに自分の腕を差し出しました。
「帰るぞ。これ以上ここにいると、あんたを祀り上げるための神殿が建ちかねん」
「神殿、いいですね。お供え物が毎日届くなら、悪くないかもしれませんわ」
「冗談でも言うな。面倒が増えるだけだ」
私たちは連れ立って、いつもの下町の小道へと戻りました。
すると、家の前には一台の豪華な馬車が止まっていました。
降りてきたのは、以前、市場で私にマウントを取ろうとしたあの男爵令嬢たちでした。
彼女たちは私を見るなり、地面に膝をついて頭を垂れました。
「ニュール様! 以前は大変なご無礼をいたしました! 私たち、アインス王子の甘言に惑わされ、真の賢者であるあなたを見誤っておりましたわ!」
「どうか、私たちをお許しください! そして、その素晴らしい『精神修養』の方法を教えていただきたいのです!」
私は彼女たちの必死な顔を見つめ、ふっと微笑みました。
「精神修養……。そんな難しいことは分かりませんわ。私はただ、美味しいものを食べて、よく寝ているだけですもの」
「まあ……! 『食』と『睡眠』という、生命の根源に立ち返ることこそが、悟りへの近道だとおっしゃるのですね!」
「いえ、単にお腹が空くのと、眠くなるだけで……」
「なんて深いお言葉……! 己の本能に忠実であることが、最大の美徳だという教え……。一生ついていきますわ!」
……ダメですわ。何を言っても、全てが良い方向に解釈されてしまいます。
私はギルベルト様の顔を見上げました。彼は肩を震わせて笑いを堪えています。
「ギルベルト様。私、どうすれば良いかしら。私はただ、自分らしく生きたいだけなのですけれど」
ギルベルト様は私の手を強く握り直し、彼女たちを冷ややかに一瞥しました。
「……聞いたか。彼女は『自分らしくいたい』と言っている。あんたたちが勝手に押し付ける『聖女像』や『賢者像』は、彼女にとってはただの邪魔な飾りだ。……消えてくれ。我々はこれから、大事なティータイムなんだ」
ギルベルト様の威圧感に、令嬢たちは「失礼いたしました!」と叫んで馬車へと逃げ帰っていきました。
ようやく静かになった庭で、私は大きな溜息をつきました。
「……ふう。悪役令嬢と言われるのも疲れましたが、聖女と言われるのはもっと疲れますわね」
「……だろうな。だが、安心しろ。俺だけは、あんたがただの食いしん坊で、少しだけ……いや、かなり変わった女だと知っているからな」
「あら。最高に安心できるお言葉ですわ。ギルベルト様、お礼にさっきのソーセージの半分を差し上げますわね」
「……ああ。聖女のソーセージではなく、ただのニュールからもらったソーセージとして、ありがたく頂戴しよう」
私は私。
世間がどう呼ぼうと、私の価値を決めるのは、私の手の中にある美味しい食べ物と、隣で笑ってくれるこの人だけ。
私は鼻歌を歌いながら、今日一番の茶葉を選ぶために、家の中へと足を踏み入れました。
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