婚約破棄? 承知いたしました。では、こちらにサインを。

どんぶり

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アグレット公爵邸。

深夜にもかかわらず、公爵の書斎には煌々と明かりが灯っていた。

ベルモットが扉を開けると、そこには彼女と同じく、険しい顔で書類の山と格闘する父、公爵の姿があった。

「お父様、ただいま戻りました」

公爵は眼鏡をずらし、娘をじろりと見た。

「……随分と早い帰還だな。パーティーはまだ続いているはずだが」

「ええ、想定より早くメインイベントが終わりましたので。結論から申し上げますと、クロード王子との婚約は無事に破棄されました」

「ほう、無事にか」

普通、娘が婚約破棄をされたとなれば、父は憤るか、あるいは娘を慰めるものだ。

しかし、この親子の間にそんな情緒的なやり取りは存在しない。

「それで、損害の確定は済ませたのか?」

「もちろんです。こちらが先ほど王子にサインさせた、債務承認弁済契約書です。控えをお持ちしました」

ベルモットが差し出した書類を、公爵は無言で受け取り、ページをめくる。

めくるたびに、公爵の眉間の皺が深くなり、やがて彼は声を上げて笑い出した。

「……ククッ、ハハハ! これは傑作だ。エスコート代に『機会損失費用』を乗せたか。さらには婚約維持に伴う我が家のブランド毀損料まで計上している」

「当然の権利です。アグレット家の名が、あのような知性の欠片もない王子の隣に並び続けることは、我が家の株価にとって大きなマイナス要因でしたから」

「金貨一万三千枚超。王家の年間自由予算の半分以上を削り取る計算だな。これでは、向こうの財務官が首を吊るぞ」

「それは彼らの管理能力不足です。私の知ったことではありません」

ベルモットは椅子に座り、セバスが淹れたハーブティーを一口飲んだ。

ようやく人心地ついたが、彼女の仕事はまだ終わっていない。

「ところで、お父様。例の件、準備は進んでいますか?」

「ああ。王家がこの額を即座に支払えないことは見越している。その場合、支払いの代わりに土地で代位弁済させるよう、すでに根回しは済ませてある」

「辺境の『グラウ荒野』ですね。あそこは現在、税収ゼロの死に地扱いですが……」

「お前の読み通り、あそこには新種の魔石鉱脈があるのだな?」

「正確には、魔石のカスが堆積したことによる、特殊な土壌特性があります。農業には向きませんが、半導体魔法具の製造には欠かせないレアメタルが抽出できるはずです」

ベルモットの瞳に、獲物を狙う投資家のような冷徹な光が宿った。

「王子がメアリ様と浮ついている間に、私は領地の地質調査を極秘で行わせていました。婚約破棄の慰謝料として、あの土地をもぎ取る。それが今回の取引の最終目標です」

「婚約破棄すらも、事業拡大のツールにするか。恐ろしい娘だ」

「褒め言葉として受け取っておきますわ。……おや?」

その時、屋敷の玄関の方が騒がしくなった。

深夜にもかかわらず、激しく扉を叩く音と、誰かが叫んでいる声が聞こえてくる。

「ベルモット・フォン・アグレット! 出しなさい! 今すぐ出てきて説明しなさい!」

「……この、品のない怒鳴り声は。王家の財務副大臣、ボルドー卿ですか」

ベルモットは時計を見た。

「パーティー会場からここまで、馬車を飛ばして二十分。想定より五分遅い到着ですね。事務処理能力が低い証拠です」

「会うのか?」

「ええ、もちろんです。債権者として、債務者の言い分を聞く義務がありますもの」

ベルモットは立ち上がり、ドレスの裾を整えた。

応接間に移動すると、そこには顔を真っ赤にして、額に汗を浮かべた中年貴族が立っていた。

「ベルモット嬢! これは一体どういうつもりだ! この請求書、冗談では済まされんぞ!」

ボルドー卿は、ベルモットが王子に渡した書類の写しを叩きつけた。

「冗談? 失礼ですね。私は常に真剣です。数字に嘘はありません」

「金貨一万枚だと!? 王子が個人的に贈ったプレゼントの代金まで、なぜ王家が肩代わりせねばならんのだ!」

「王子は『次期国王』という公的な立場を利用して、我が家からの資金提供を受けていました。その資金が公務(私との交際)以外に使用されたのであれば、それは公金の横領、あるいは背任罪に相当します。それを回避するための救済措置として、王家に請求しているのです。親切でしょう?」

ベルモットはにっこりと微笑んだが、その目は笑っていない。

「そ、そんな屁理屈が通ると思っているのか!」

「通りますよ。我が家には、国内最高の法務チームが控えております。明日には、王子の放蕩ぶりと、それを見過ごした王宮の管理体制の杜撰さを、全ギルドに公示する準備もできております」

「っ……、貴様、王家を脅迫するつもりか!」

「脅迫ではありません。市場の透明性を確保するための情報開示です。……ボルドー卿。騒いでも一リの得にもなりませんよ。それよりも、より『建設的な解決策』を提示してはいかがですか?」

ベルモットは、ソファに深く腰掛け、足を組んだ。

「解決策……だと?」

「はい。現金が無理なら、資産で払えばいいのです。……そうですね、例えば、王家が持て余している北部の荒野などはいかがでしょう?」

ボルドー卿は、一瞬、呆気に取られたような顔をした。

「……グラウ荒野か? あんな、草も生えないゴミ捨て場のような土地を?」

「ええ。私は慈悲深いので、あの不毛の地を金貨一万枚分の債務と相殺して差し上げても構いません」

「正気か? あそこを譲渡すれば、王家にとっては維持費という負の資産が消え、なおかつ借金もチャラになる……。……本当にいいのだな?」

ボルドー卿の目が、計算高く細められた。

彼は「この娘は、婚約破棄のショックで判断力が鈍っているのだ」と確信したようだった。

「はい。ただし、私の気が変わらないうちに、今すぐ譲渡契約書を交わすことが条件です」

「……分かった。すぐに手続きをさせよう!」

ボルドー卿は、獲物を見つけたハイエナのような速さで屋敷を飛び出していった。

その後ろ姿を見送りながら、ベルモットは優雅にハーブティーを飲み干す。

「……チョロすぎますわ。あんな低レベルな交渉術で、よく財務を任されていますね」

「ベルモット、お前、わざと『悲劇の令嬢』のフリをして、相手に油断させたな?」

扉の影で見ていた公爵が、呆れたように声をかけた。

「フリではありません。私はいつだって真面目です。……ただ、相手が勝手に、私が損をすると思い込んでくれただけ。市場における情報の非対称性を利用した、ごく標準的なテクニックですわ」

ベルモットは立ち上がり、窓の外を見つめた。

「明日からは、辺境の領主としての仕事が始まります。……忙しくなりますわね、セバス」

「はい、お嬢様。すでに、現地の開発に必要な人材のリストアップは完了しております」

「素晴らしいわ。……愛だの真実だのと言っている間に、世界は数字で動いているということを、あの王子たちに教えてあげましょう」

ベルモットの長い睫毛が揺れる。

彼女の目には、荒野が金貨の山へと変わる光景が、はっきりと映し出されていた。
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