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パーティー会場の空気は、凍り付いたまま動かない。
クロード王子は震える手で、ベルモットが突きつけた請求書を見つめていた。
「これ……本当に、払わなければならないのか……?」
「当然です。契約の解除には、それ相応の清算が必要となります。まさか王族ともあろう方が、無銭で婚約を解消しようなどと、そんな非効率なことは考えませんよね?」
ベルモットの声は鈴を転がすように美しいが、その内容は冷徹極まりない。
クロードは助けを求めるようにメアリを見たが、彼女はすでに三歩ほど後ずさりしていた。
「あ、あの、クロード様……わたくし、実はお家の方から『夜遊びはほどほどに』と厳しく言われておりまして……」
「メアリ? さっきまで『一生離れない』と言っていたではないか!」
「それは、あなたが将来の国王で、お金持ちだと思っていたからですわ! 借金まみれの王子様なんて、台本の書き直しです!」
メアリはそう言い捨てると、ドレスの裾を翻して人混みの中へと消えていった。
残されたのは、マヌケに口を開けた王子と、冷ややかな視線を送るベルモットだけである。
「……さて。障害(メアリ様)も排除されたようですし、話を戻しましょう」
ベルモットはペンを差し出し、クロードの鼻先に突きつけた。
「ここにサインを。さもなくば、明日一番にこの請求書の写しを、王都中のギルドと報道機関、さらには隣国の特使に配布いたします」
「なっ……! そんなことをしたら、俺の、いや王家の面目が丸潰れではないか!」
「面目という無形資産を守りたいのであれば、有形資産(金銭)で解決するのが筋というものです」
クロードは絶望に顔を歪めながら、ガタガタと震える手で書類に署名した。
その瞬間、ベルモットの脳内で「チャリン」という小気味よい音が響いたような気がした。
(――勝った。ついに、この不採算事業から撤退できる!)
彼女の心の中は、表の冷徹な仮面とは裏腹に、狂喜乱舞の嵐が吹き荒れていた。
「……確かに承りました。では、これにて失礼いたします」
ベルモットは完璧な礼を披露すると、足早に会場を後にした。
背後からクロードの「待て! まだ話は終わってない!」という情けない叫びが聞こえたが、時給にもならない叫びを聞くほど彼女は暇ではない。
会場の外に出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
ベルモットは馬車に乗り込むなり、深く椅子に体を預け、大きく息を吐き出した。
「ふう……。終わった。ようやく、終わりましたわ……!」
「……お嬢様、お疲れのご様子で」
馬車の中で待機していた老執事、セバスが静かに声をかける。
「お疲れ? いいえセバス、今の私は人生で最もエネルギーに満ち溢れています。見てください、この解放感!」
ベルモットは扇を広げ、くすくすと笑い始めた。
「これでやっと、あのおバカな王子のために、私の貴重な時間を一秒たりとも割かなくて済むのです。これからは領地の経営、新規事業の立ち上げ、そして資産運用の研究に没頭できますわ!」
「左様でございますか。……しかし、世間では『悪役令嬢が婚約破棄されて泣き崩れた』と噂されるでしょうな」
「どうぞ、お好きなように言わせておけばよろしい。噂などという実体のないもの、私の総資産には一リ(最小通貨単位)の影響も与えません」
ベルモットは窓の外を流れる王都の夜景を眺めながら、指を折って数え始めた。
「王子とのデートに費やしていた毎週土曜日の五時間。これに準備時間と事後の精神的ケアを含めると、週に計十五時間は無駄にしていました。一年で七百八十時間。十年間で七千八百時間です」
「凄まじい数字ですね」
「この時間を全て領地の開発に充てていれば、今頃わが領のGDPはあと三パーセントは上昇していたはず。……ああ、考えるだけで吐き気がしますわ。私はなんと大きな機会損失を許容していたのでしょう!」
ベルモットは拳を握りしめ、自分自身の「過去の判断ミス」を猛省した。
彼女にとって、婚約破棄は悲劇ではない。
それは「不適切な投資案件の損切り」であり、新たな成長への「スタートアップ」なのだ。
「セバス、屋敷に戻ったらすぐに地図と台帳を用意して。明日の朝一番に、王家からせしめ……いえ、正当な対価として譲渡される予定の『辺境領』について分析します」
「……あそこは、不毛の地と呼ばれている荒野ですが」
「ふふ、不毛かどうかは、私の計算が決めることです。何もないということは、固定資産税が安く、しがらみがないということ。ビジネスチャンスの塊ですわよ」
ベルモットの瞳は、未来の収益を計算するようにギラリと輝いた。
「婚約破棄、万歳。自由、万歳。そして……キャッシュ(現金)、万歳ですわ!」
高笑いするベルモットを乗せて、馬車は夜の街を駆け抜けていく。
彼女の辞書に「悲しみ」という文字はない。
あるのは「利益」か「損失」か、それだけである。
その頃、王宮の会場では、クロード王子が「なぜあんなに嬉しそうなんだ……?」と、自分の価値について深刻なアイデンティティ・クライシスに陥っていたが、ベルモットの知ったことではなかった。
クロード王子は震える手で、ベルモットが突きつけた請求書を見つめていた。
「これ……本当に、払わなければならないのか……?」
「当然です。契約の解除には、それ相応の清算が必要となります。まさか王族ともあろう方が、無銭で婚約を解消しようなどと、そんな非効率なことは考えませんよね?」
ベルモットの声は鈴を転がすように美しいが、その内容は冷徹極まりない。
クロードは助けを求めるようにメアリを見たが、彼女はすでに三歩ほど後ずさりしていた。
「あ、あの、クロード様……わたくし、実はお家の方から『夜遊びはほどほどに』と厳しく言われておりまして……」
「メアリ? さっきまで『一生離れない』と言っていたではないか!」
「それは、あなたが将来の国王で、お金持ちだと思っていたからですわ! 借金まみれの王子様なんて、台本の書き直しです!」
メアリはそう言い捨てると、ドレスの裾を翻して人混みの中へと消えていった。
残されたのは、マヌケに口を開けた王子と、冷ややかな視線を送るベルモットだけである。
「……さて。障害(メアリ様)も排除されたようですし、話を戻しましょう」
ベルモットはペンを差し出し、クロードの鼻先に突きつけた。
「ここにサインを。さもなくば、明日一番にこの請求書の写しを、王都中のギルドと報道機関、さらには隣国の特使に配布いたします」
「なっ……! そんなことをしたら、俺の、いや王家の面目が丸潰れではないか!」
「面目という無形資産を守りたいのであれば、有形資産(金銭)で解決するのが筋というものです」
クロードは絶望に顔を歪めながら、ガタガタと震える手で書類に署名した。
その瞬間、ベルモットの脳内で「チャリン」という小気味よい音が響いたような気がした。
(――勝った。ついに、この不採算事業から撤退できる!)
彼女の心の中は、表の冷徹な仮面とは裏腹に、狂喜乱舞の嵐が吹き荒れていた。
「……確かに承りました。では、これにて失礼いたします」
ベルモットは完璧な礼を披露すると、足早に会場を後にした。
背後からクロードの「待て! まだ話は終わってない!」という情けない叫びが聞こえたが、時給にもならない叫びを聞くほど彼女は暇ではない。
会場の外に出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
ベルモットは馬車に乗り込むなり、深く椅子に体を預け、大きく息を吐き出した。
「ふう……。終わった。ようやく、終わりましたわ……!」
「……お嬢様、お疲れのご様子で」
馬車の中で待機していた老執事、セバスが静かに声をかける。
「お疲れ? いいえセバス、今の私は人生で最もエネルギーに満ち溢れています。見てください、この解放感!」
ベルモットは扇を広げ、くすくすと笑い始めた。
「これでやっと、あのおバカな王子のために、私の貴重な時間を一秒たりとも割かなくて済むのです。これからは領地の経営、新規事業の立ち上げ、そして資産運用の研究に没頭できますわ!」
「左様でございますか。……しかし、世間では『悪役令嬢が婚約破棄されて泣き崩れた』と噂されるでしょうな」
「どうぞ、お好きなように言わせておけばよろしい。噂などという実体のないもの、私の総資産には一リ(最小通貨単位)の影響も与えません」
ベルモットは窓の外を流れる王都の夜景を眺めながら、指を折って数え始めた。
「王子とのデートに費やしていた毎週土曜日の五時間。これに準備時間と事後の精神的ケアを含めると、週に計十五時間は無駄にしていました。一年で七百八十時間。十年間で七千八百時間です」
「凄まじい数字ですね」
「この時間を全て領地の開発に充てていれば、今頃わが領のGDPはあと三パーセントは上昇していたはず。……ああ、考えるだけで吐き気がしますわ。私はなんと大きな機会損失を許容していたのでしょう!」
ベルモットは拳を握りしめ、自分自身の「過去の判断ミス」を猛省した。
彼女にとって、婚約破棄は悲劇ではない。
それは「不適切な投資案件の損切り」であり、新たな成長への「スタートアップ」なのだ。
「セバス、屋敷に戻ったらすぐに地図と台帳を用意して。明日の朝一番に、王家からせしめ……いえ、正当な対価として譲渡される予定の『辺境領』について分析します」
「……あそこは、不毛の地と呼ばれている荒野ですが」
「ふふ、不毛かどうかは、私の計算が決めることです。何もないということは、固定資産税が安く、しがらみがないということ。ビジネスチャンスの塊ですわよ」
ベルモットの瞳は、未来の収益を計算するようにギラリと輝いた。
「婚約破棄、万歳。自由、万歳。そして……キャッシュ(現金)、万歳ですわ!」
高笑いするベルモットを乗せて、馬車は夜の街を駆け抜けていく。
彼女の辞書に「悲しみ」という文字はない。
あるのは「利益」か「損失」か、それだけである。
その頃、王宮の会場では、クロード王子が「なぜあんなに嬉しそうなんだ……?」と、自分の価値について深刻なアイデンティティ・クライシスに陥っていたが、ベルモットの知ったことではなかった。
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