26 / 28
26
しおりを挟む
王都へと逃げ帰ったウィルフリード殿下とマリア様を待っていたのは、安らぎの我が家ではなく、さらなる絶望の深淵だった。
「ハ、ハクション! ハ、ハクション! ああ、もう、鼻水が止まりませんわ!」
王宮の豪華な寝室で、マリア様は顔を真っ赤に腫らし、大量のハンカチの山に埋もれていた。
彼女を襲ったのは、これまで「可愛らしく見えるから」と自称していた程度の軽いアレルギーではなかった。
ヴァルカ領で浴びた、凄まじい密度の「猫の気配」と、王宮内に充満するネズミの死骸から放たれる不衛生な空気が、彼女の体質を完全に破壊したのである。
「マリア、少しは静かにしてくれ。私の頭まで痛くなってくる」
傍らに立つウィルフリード殿下も、もはや彼女を支える余裕などなかった。
彼の視線は、部屋の隅でわがもの顔に走り回るネズミたちに固定されている。
「殿下! 静かにしろなんて、あんまりですわ! そもそも、殿下がロゼル様をあんな風に追い出すから……っ。あの方がいた頃は、ネズミだっていなかったし、私の鼻もこんなにムズムズしなかったのに!」
「……なんだと? ロゼルを追い出せと言ったのは君じゃないか。猫が不気味だ、毛が汚いと言って、私に婚約破棄を迫ったのはどこの誰だ!」
「それは……あんなに極端なことになるとは思わなかったんですもの!」
マリア様は叫び、再び盛大にくしゃみをした。
その拍子に、彼女が大切にしていた宝石箱の蓋が開くと、中から数匹の赤ちゃんネズミが這い出してきた。
「キャアアアアアアアアアア! 宝石の中に! 私のダイヤの中にネズミが家族を作っていますわ!」
「……もう、限界だ」
ウィルフリード殿下は力なく椅子に座り込んだ。
そこへ、ヴァルカ領から帰還した騎士団の一人が報告に訪れた。
「殿下、失礼いたします。ヴァルカ領より戻った兵たちの調査が終わりました」
「……ああ。あいつらはどうした。ロゼルを連れ戻せなかった罪を悔いているか?」
騎士は言い淀み、気まずそうに視線を逸らした。
「それが……兵たちは皆、『ヴァルカこそが真の楽園だった』と口々に申しておりまして。中には、近々退役してヴァルカ領の『猫カフェ』に再就職したいと願い出る者が続出しております」
「……なんだと?」
「さらに、彼らは王都に持ち帰った猫の毛が入った小瓶を宝物のように扱っており……。もはや、殿下への忠誠心よりも、猫様への信仰心の方が勝っている状態であります」
ウィルフリード殿下の手から、愛用のティーカップが滑り落ち、床で砕け散った。
かつての自分の兵たちが、敵地の猫に心を奪われ、自分を捨てようとしている。
それは、王子としての彼の自尊心を完膚なきまでに粉砕する事実だった。
「……出ていけ。全員、私の前から消えてしまえ!!」
殿下の怒号に、騎士は慌てて部屋を飛び出していった。
静まり返った部屋に、マリア様の止まらないくしゃみの音だけが響く。
「マリア。君もだ。その鼻水まみれの顔で私に近づかないでくれ。君を見ていると、自分の愚かさを突きつけられているようで反吐が出る」
「……え? 殿下、今、なんておっしゃいました?」
マリア様は、腫れ上がった目で殿下を見つめた。
「君との生活は、甘い夢だと思っていた。だが、現実はネズミとくしゃみの地獄だ。ロゼルは……あいつは狂っていたが、少なくとも私の生活に『秩序』と『平穏』をもたらしていた。君には何もない。ただの、煩いだけの女だ」
「ひ、ひどい……! 私は殿下を愛していたのに!」
「愛? 君が愛していたのは私の地位だろう。……もういい。婚約の約束は白紙に戻す。君は実家の男爵家へ帰り、そこで一生ネズミとくしゃみと付き合っているがいい」
ウィルフリード殿下は冷たく言い放ち、背を向けた。
「そんな……! 待ってください、殿下! ハクション! ハ、ハクション! ああああ、もう嫌! こんな王宮、こっちから願い下げですわ!」
マリア様は髪を振り乱し、ドレスをボロボロにしながら、夜の王宮を走り去っていった。
彼女はそのまま王都を離れ、猫もネズミもいない、草木も生えぬ乾燥した僻地の修道院へと逃げ込んだという。
一人残されたウィルフリード殿下。
豪華な部屋。広い玉座。
だが、そこには彼に寄り添う女性も、忠実な兵も、そして不器用ながらに平穏を守ってくれた猫たちの姿もなかった。
「……ロゼル。ミケ、クロ。……誰か、いないのか」
暗い部屋の中で、殿下の呼びかけに答えたのは、カーテンの裏でガサゴソと蠢くネズミたちの足音だけだった。
一方その頃、ヴァルカ城。
「……あら。王都の『自滅組』の末路、アンナから聞いたわ。マリア様、修道院で『ネズミ除けの聖歌』を一日中歌っていらっしゃるんですって?」
私はレオナール様の膝の上で丸くなる子猫の群れを眺めながら、お茶を一口飲んだ。
「……因果応報だな。人を呪わば、もふもふ二つ。……いや、意味が違うか」
レオナール様は苦笑し、私の手首に自分の手を重ねた。
「これで、邪魔者はすべて消えた。残るは、俺と貴様の……そしてこの猫たちの、本当のハッピーエンドだけだな」
「ええ、レオナール様。最高の結婚式を挙げましょう。もちろん、参列者は人間よりも猫様の方が多い、前代未聞の式になりますわよ!」
「……覚悟はできている。城中の粘着ローラーを買い占めておいたからな」
私たちの幸せな笑い声は、王都の混乱とは対照的に、穏やかな辺境の夜へと響いていった。
「ハ、ハクション! ハ、ハクション! ああ、もう、鼻水が止まりませんわ!」
王宮の豪華な寝室で、マリア様は顔を真っ赤に腫らし、大量のハンカチの山に埋もれていた。
彼女を襲ったのは、これまで「可愛らしく見えるから」と自称していた程度の軽いアレルギーではなかった。
ヴァルカ領で浴びた、凄まじい密度の「猫の気配」と、王宮内に充満するネズミの死骸から放たれる不衛生な空気が、彼女の体質を完全に破壊したのである。
「マリア、少しは静かにしてくれ。私の頭まで痛くなってくる」
傍らに立つウィルフリード殿下も、もはや彼女を支える余裕などなかった。
彼の視線は、部屋の隅でわがもの顔に走り回るネズミたちに固定されている。
「殿下! 静かにしろなんて、あんまりですわ! そもそも、殿下がロゼル様をあんな風に追い出すから……っ。あの方がいた頃は、ネズミだっていなかったし、私の鼻もこんなにムズムズしなかったのに!」
「……なんだと? ロゼルを追い出せと言ったのは君じゃないか。猫が不気味だ、毛が汚いと言って、私に婚約破棄を迫ったのはどこの誰だ!」
「それは……あんなに極端なことになるとは思わなかったんですもの!」
マリア様は叫び、再び盛大にくしゃみをした。
その拍子に、彼女が大切にしていた宝石箱の蓋が開くと、中から数匹の赤ちゃんネズミが這い出してきた。
「キャアアアアアアアアアア! 宝石の中に! 私のダイヤの中にネズミが家族を作っていますわ!」
「……もう、限界だ」
ウィルフリード殿下は力なく椅子に座り込んだ。
そこへ、ヴァルカ領から帰還した騎士団の一人が報告に訪れた。
「殿下、失礼いたします。ヴァルカ領より戻った兵たちの調査が終わりました」
「……ああ。あいつらはどうした。ロゼルを連れ戻せなかった罪を悔いているか?」
騎士は言い淀み、気まずそうに視線を逸らした。
「それが……兵たちは皆、『ヴァルカこそが真の楽園だった』と口々に申しておりまして。中には、近々退役してヴァルカ領の『猫カフェ』に再就職したいと願い出る者が続出しております」
「……なんだと?」
「さらに、彼らは王都に持ち帰った猫の毛が入った小瓶を宝物のように扱っており……。もはや、殿下への忠誠心よりも、猫様への信仰心の方が勝っている状態であります」
ウィルフリード殿下の手から、愛用のティーカップが滑り落ち、床で砕け散った。
かつての自分の兵たちが、敵地の猫に心を奪われ、自分を捨てようとしている。
それは、王子としての彼の自尊心を完膚なきまでに粉砕する事実だった。
「……出ていけ。全員、私の前から消えてしまえ!!」
殿下の怒号に、騎士は慌てて部屋を飛び出していった。
静まり返った部屋に、マリア様の止まらないくしゃみの音だけが響く。
「マリア。君もだ。その鼻水まみれの顔で私に近づかないでくれ。君を見ていると、自分の愚かさを突きつけられているようで反吐が出る」
「……え? 殿下、今、なんておっしゃいました?」
マリア様は、腫れ上がった目で殿下を見つめた。
「君との生活は、甘い夢だと思っていた。だが、現実はネズミとくしゃみの地獄だ。ロゼルは……あいつは狂っていたが、少なくとも私の生活に『秩序』と『平穏』をもたらしていた。君には何もない。ただの、煩いだけの女だ」
「ひ、ひどい……! 私は殿下を愛していたのに!」
「愛? 君が愛していたのは私の地位だろう。……もういい。婚約の約束は白紙に戻す。君は実家の男爵家へ帰り、そこで一生ネズミとくしゃみと付き合っているがいい」
ウィルフリード殿下は冷たく言い放ち、背を向けた。
「そんな……! 待ってください、殿下! ハクション! ハ、ハクション! ああああ、もう嫌! こんな王宮、こっちから願い下げですわ!」
マリア様は髪を振り乱し、ドレスをボロボロにしながら、夜の王宮を走り去っていった。
彼女はそのまま王都を離れ、猫もネズミもいない、草木も生えぬ乾燥した僻地の修道院へと逃げ込んだという。
一人残されたウィルフリード殿下。
豪華な部屋。広い玉座。
だが、そこには彼に寄り添う女性も、忠実な兵も、そして不器用ながらに平穏を守ってくれた猫たちの姿もなかった。
「……ロゼル。ミケ、クロ。……誰か、いないのか」
暗い部屋の中で、殿下の呼びかけに答えたのは、カーテンの裏でガサゴソと蠢くネズミたちの足音だけだった。
一方その頃、ヴァルカ城。
「……あら。王都の『自滅組』の末路、アンナから聞いたわ。マリア様、修道院で『ネズミ除けの聖歌』を一日中歌っていらっしゃるんですって?」
私はレオナール様の膝の上で丸くなる子猫の群れを眺めながら、お茶を一口飲んだ。
「……因果応報だな。人を呪わば、もふもふ二つ。……いや、意味が違うか」
レオナール様は苦笑し、私の手首に自分の手を重ねた。
「これで、邪魔者はすべて消えた。残るは、俺と貴様の……そしてこの猫たちの、本当のハッピーエンドだけだな」
「ええ、レオナール様。最高の結婚式を挙げましょう。もちろん、参列者は人間よりも猫様の方が多い、前代未聞の式になりますわよ!」
「……覚悟はできている。城中の粘着ローラーを買い占めておいたからな」
私たちの幸せな笑い声は、王都の混乱とは対照的に、穏やかな辺境の夜へと響いていった。
0
あなたにおすすめの小説
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
報われない恋の行方〜いつかあなたは私だけを見てくれますか〜
矢野りと
恋愛
『少しだけ私に時間をくれないだろうか……』
彼はいつだって誠実な婚約者だった。
嘘はつかず私に自分の気持ちを打ち明け、学園にいる間だけ想い人のこともその目に映したいと告げた。
『想いを告げることはしない。ただ見ていたいんだ。どうか、許して欲しい』
『……分かりました、ロイド様』
私は彼に恋をしていた。だから、嫌われたくなくて……それを許した。
結婚後、彼は約束通りその瞳に私だけを映してくれ嬉しかった。彼は誠実な夫となり、私は幸せな妻になれた。
なのに、ある日――彼の瞳に映るのはまた二人になっていた……。
※この作品の設定は架空のものです。
※お話の内容があわないは時はそっと閉じてくださいませ。
【完結】恋の終焉~愛しさあまって憎さ1000倍~
つくも茄子
恋愛
五大侯爵家、ミネルヴァ・リゼ・ウォーカー侯爵令嬢は第二王子の婚約者候補。それと同時に、義兄とも婚約者候補の仲という複雑な環境に身を置いていた。
それも第二王子が恋に狂い「伯爵令嬢(恋人)を妻(正妃)に迎えたい」と言い出したせいで。
第二王子が恋を諦めるのが早いか。それとも臣籍降下するのが早いか。とにかく、選ばれた王子の婚約者候補の令嬢達にすれば迷惑極まりないものだった。
ミネルヴァは初恋の相手である義兄と結婚する事を夢見ていたというに、突然の王家からの横やりに怒り心頭。それでも臣下としてグッと堪えた。
そんな中での義兄の裏切り。
愛する女性がいる?
その相手と結婚したい?
何を仰っているのでしょうか?
混乱するミネルヴァを置き去りに義兄はどんどん話を続ける。
「お義兄様、あなたは婿入りのための養子縁組ですよ」と言いたいのをグッと堪えたミネルヴァであった。義兄を許す?許さない?答えは一つ。
女王は若き美貌の夫に離婚を申し出る
小西あまね
恋愛
「喜べ!やっと離婚できそうだぞ!」「……は?」
政略結婚して9年目、32歳の女王陛下は22歳の王配陛下に笑顔で告げた。
9年前の約束を叶えるために……。
豪胆果断だがどこか天然な女王と、彼女を敬愛してやまない美貌の若き王配のすれ違い離婚騒動。
「月と雪と温泉と ~幼馴染みの天然王子と最強魔術師~」の王子の姉の話ですが、独立した話で、作風も違います。
本作は小説家になろうにも投稿しています。
不実なあなたに感謝を
黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。
※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。
※曖昧設定。
※一旦完結。
※性描写は匂わせ程度。
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
根暗令嬢の華麗なる転身
しろねこ。
恋愛
「来なきゃよかったな」
ミューズは茶会が嫌いだった。
茶会デビューを果たしたものの、人から不細工と言われたショックから笑顔になれず、しまいには根暗令嬢と陰で呼ばれるようになった。
公爵家の次女に産まれ、キレイな母と実直な父、優しい姉に囲まれ幸せに暮らしていた。
何不自由なく、暮らしていた。
家族からも愛されて育った。
それを壊したのは悪意ある言葉。
「あんな不細工な令嬢見たことない」
それなのに今回の茶会だけは断れなかった。
父から絶対に参加してほしいという言われた茶会は特別で、第一王子と第二王子が来るものだ。
婚約者選びのものとして。
国王直々の声掛けに娘思いの父も断れず…
応援して頂けると嬉しいです(*´ω`*)
ハピエン大好き、完全自己満、ご都合主義の作者による作品です。
同名主人公にてアナザーワールド的に別な作品も書いています。
立場や環境が違えども、幸せになって欲しいという思いで作品を書いています。
一部リンクしてるところもあり、他作品を見て頂ければよりキャラへの理解が深まって楽しいかと思います。
描写的なものに不安があるため、お気をつけ下さい。
ゆるりとお楽しみください。
こちら小説家になろうさん、カクヨムさんにも投稿させてもらっています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる