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「……ああ。今日も今日とて、世界はドーナツの香りで満ちていますわね」
私は、王都で一番高い丘の上に建つ『新・ドナパラ本店』のバルコニーから、活気に満ちた街を見下ろしていた。
一年という月日は、この国を劇的に変えた。
かつては「不健康な揚げ物」と蔑まれていたドーナツは、今や王国の国食。
街ゆく人々は皆、首から『緊急用ドーナツ・ストラップ』を下げ、挨拶の代わりに「いい穴(ホール)を!」と声を掛け合っている。
「……チュロス。あまり外に出るなと言っただろう。……冷たい風に当たると、生地……いや、お前の体が冷えてしまう」
背後から、熱い蒸気のような体温と共に、逞しい腕が私の腰を抱き寄せた。
ベーグル閣下だ。彼は結婚後、騎士団を引退(というか、ドーナツ需要が凄すぎて国から専念するよう命じられた)し、今は『ドナパラ』の最高執行責任者兼、終身名誉捏ね機として私を支えてくれている。
「大丈夫ですわ、閣下。……それより、見ました? 今朝のニュース。隣国のショコラ皇帝が、ついに我が国のドーナツ輸入を完全解禁したそうですわよ」
「……フッ。当然だ。……私の筋肉と、お前のトング捌きから逃げられる人間など、この世には存在しない」
中将は私の髪に優しく口づけを落とした。
その時、足元で「あうぅ!」という、元気いっぱいの声が響いた。
私たちは視線を下ろした。そこには、生後半年になる私たちの愛息子、オールド・デ・リング君が、ハイハイをしながら私の足に縋り付いていた。
彼の腕は、すでに父親譲りのムチムチとした「ちぎりパン」のような筋肉の輝きを放っている。
「オールド君、お腹が空きましたのね? よしよし、今すぐママが特製の『離乳食ドーナツ(ノンフライ・低糖質)』を揚げて差し上げますわ!」
「……。……私が捏ねよう。……彼の将来のために、今から強固なグルテンの記憶を植え付けておく」
中将が息子を片手で軽々と持ち上げ、高い高いをすると、オールド君は喜んで空中に円を描いた。その動きは、まさに完璧なリング状(サークル)だった。
「あらあら。……将来は、お父様を超える捏ね機になりそうですわね」
私たちが厨房へ降りると、そこにはすっかり『ドナパラ』の古株となったカス君(元王子)が、山のような皿を洗っていた。
「お、お早う、チュロス。……あ、いや、チュロス様。……今日の油のキレ、最高だよ。僕が三時間かけて濾過したからね」
「えらいですわ、カス君。……公務を放り出してここで働くようになってから、あなた、随分と顔つきが良くなりましたわね。……少し、弾力が出てきたというか」
「……毎日、中将に『気合が足りない』って言って生地の代わりに捏ねられているからね。……でも、不思議だ。……あんなに嫌いだった油の匂いが、今じゃ一番落ち着くんだ」
カス君は、誇らしげにピカピカの皿を掲げた。
どうやら彼は、王族としての虚飾を捨て、皿洗いの求道者として新たな「穴」を見つけたらしい。
一方、ホイップ・シュガー様はというと。
聖騎士団での修行を終えた後、なぜか「揚げないドーナツ(焼きドーナツ)」の伝道師として、隣国の僻地で地道な活動を続けているという噂だ。
彼女もまた、自分なりの「輪っか」を見つけたのだろう。
私は、熱々の揚げ鍋の前に立った。
黄金色に輝く油が、私の到来を祝うようにプツプツと音を立てている。
「……さあ、閣下。……今日も始めましょうか。……世界中の人を、幸せの輪に閉じ込めるためのお仕事を!」
「……了解した。……我が筋肉は、お前の一振りのために」
中将が巨大なボウルに拳を叩き込む。
ドォォォォォン!!
地響きのような捏ねの音が、王都の朝の始まりを告げる。
私はトングを華麗に回し、最高の発酵を迎えた生地を油へと滑り込ませた。
シュワァァァァッ!!
その音は、あの日、卒業パーティで婚約破棄を告げられた瞬間に聞こえたものと同じ。
けれど、今の私にはわかる。
あの日、私の心に開いた大きな穴は、虚無なんかではなかったのだ。
それは、新しい愛と、情熱と、そして最高のパートナーを迎え入れるために開いていた、幸せの『導線』だったのだと。
「……ねえ、閣下。……ドーナツの穴って、どうして開いているかご存知?」
「……。……熱対流を均一にするためだろう?」
「いいえ。……それは、二人の未来を覗き見るための、望遠鏡なんですのよ」
私は、揚げたてのドーナツを持ち上げ、その穴の向こう側にいる、愛する夫と息子の姿を見つめた。
向こう側に見える景色は、どこまでもキラキラと輝いて、甘くて、少しだけ香ばしい。
「……ふっ。……なら、私は一生、その望遠鏡を覗き続けよう。……お前が揚げる、すべての穴をな」
私たちは微笑み合い、そして同時に、次なる究極の一品へと手を伸ばした。
物語はここで一度、円を結ぶけれど。
私たちの「揚げたての日常」は、油が尽きぬ限り、永遠に続いていく。
さあ、召し上がれ。
これが、私の……いいえ、私たちの、真実の愛の形ですわ!
私は、王都で一番高い丘の上に建つ『新・ドナパラ本店』のバルコニーから、活気に満ちた街を見下ろしていた。
一年という月日は、この国を劇的に変えた。
かつては「不健康な揚げ物」と蔑まれていたドーナツは、今や王国の国食。
街ゆく人々は皆、首から『緊急用ドーナツ・ストラップ』を下げ、挨拶の代わりに「いい穴(ホール)を!」と声を掛け合っている。
「……チュロス。あまり外に出るなと言っただろう。……冷たい風に当たると、生地……いや、お前の体が冷えてしまう」
背後から、熱い蒸気のような体温と共に、逞しい腕が私の腰を抱き寄せた。
ベーグル閣下だ。彼は結婚後、騎士団を引退(というか、ドーナツ需要が凄すぎて国から専念するよう命じられた)し、今は『ドナパラ』の最高執行責任者兼、終身名誉捏ね機として私を支えてくれている。
「大丈夫ですわ、閣下。……それより、見ました? 今朝のニュース。隣国のショコラ皇帝が、ついに我が国のドーナツ輸入を完全解禁したそうですわよ」
「……フッ。当然だ。……私の筋肉と、お前のトング捌きから逃げられる人間など、この世には存在しない」
中将は私の髪に優しく口づけを落とした。
その時、足元で「あうぅ!」という、元気いっぱいの声が響いた。
私たちは視線を下ろした。そこには、生後半年になる私たちの愛息子、オールド・デ・リング君が、ハイハイをしながら私の足に縋り付いていた。
彼の腕は、すでに父親譲りのムチムチとした「ちぎりパン」のような筋肉の輝きを放っている。
「オールド君、お腹が空きましたのね? よしよし、今すぐママが特製の『離乳食ドーナツ(ノンフライ・低糖質)』を揚げて差し上げますわ!」
「……。……私が捏ねよう。……彼の将来のために、今から強固なグルテンの記憶を植え付けておく」
中将が息子を片手で軽々と持ち上げ、高い高いをすると、オールド君は喜んで空中に円を描いた。その動きは、まさに完璧なリング状(サークル)だった。
「あらあら。……将来は、お父様を超える捏ね機になりそうですわね」
私たちが厨房へ降りると、そこにはすっかり『ドナパラ』の古株となったカス君(元王子)が、山のような皿を洗っていた。
「お、お早う、チュロス。……あ、いや、チュロス様。……今日の油のキレ、最高だよ。僕が三時間かけて濾過したからね」
「えらいですわ、カス君。……公務を放り出してここで働くようになってから、あなた、随分と顔つきが良くなりましたわね。……少し、弾力が出てきたというか」
「……毎日、中将に『気合が足りない』って言って生地の代わりに捏ねられているからね。……でも、不思議だ。……あんなに嫌いだった油の匂いが、今じゃ一番落ち着くんだ」
カス君は、誇らしげにピカピカの皿を掲げた。
どうやら彼は、王族としての虚飾を捨て、皿洗いの求道者として新たな「穴」を見つけたらしい。
一方、ホイップ・シュガー様はというと。
聖騎士団での修行を終えた後、なぜか「揚げないドーナツ(焼きドーナツ)」の伝道師として、隣国の僻地で地道な活動を続けているという噂だ。
彼女もまた、自分なりの「輪っか」を見つけたのだろう。
私は、熱々の揚げ鍋の前に立った。
黄金色に輝く油が、私の到来を祝うようにプツプツと音を立てている。
「……さあ、閣下。……今日も始めましょうか。……世界中の人を、幸せの輪に閉じ込めるためのお仕事を!」
「……了解した。……我が筋肉は、お前の一振りのために」
中将が巨大なボウルに拳を叩き込む。
ドォォォォォン!!
地響きのような捏ねの音が、王都の朝の始まりを告げる。
私はトングを華麗に回し、最高の発酵を迎えた生地を油へと滑り込ませた。
シュワァァァァッ!!
その音は、あの日、卒業パーティで婚約破棄を告げられた瞬間に聞こえたものと同じ。
けれど、今の私にはわかる。
あの日、私の心に開いた大きな穴は、虚無なんかではなかったのだ。
それは、新しい愛と、情熱と、そして最高のパートナーを迎え入れるために開いていた、幸せの『導線』だったのだと。
「……ねえ、閣下。……ドーナツの穴って、どうして開いているかご存知?」
「……。……熱対流を均一にするためだろう?」
「いいえ。……それは、二人の未来を覗き見るための、望遠鏡なんですのよ」
私は、揚げたてのドーナツを持ち上げ、その穴の向こう側にいる、愛する夫と息子の姿を見つめた。
向こう側に見える景色は、どこまでもキラキラと輝いて、甘くて、少しだけ香ばしい。
「……ふっ。……なら、私は一生、その望遠鏡を覗き続けよう。……お前が揚げる、すべての穴をな」
私たちは微笑み合い、そして同時に、次なる究極の一品へと手を伸ばした。
物語はここで一度、円を結ぶけれど。
私たちの「揚げたての日常」は、油が尽きぬ限り、永遠に続いていく。
さあ、召し上がれ。
これが、私の……いいえ、私たちの、真実の愛の形ですわ!
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