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雪下の幻想(3)

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「シルヴァリエ――シルヴァリエ、ダメだと言っている。安易に離脱することは許さない。撤回しろ」
「しつこいですね。護衛される僕がいいと言っているんだからいいんですよ。はい、これでこの話はもう終わりです」

 暖炉の前に敷き詰めたクッションに背を預け、抱き寄せたカルナスの肌に唇を這わせながら、シルヴァリエはそう答えた。

 もはやシルヴァリエが自分に何をしようと何の異も唱えないカルナスだったが、今夜だけは違った。

「お前が決めるな、この警護の責任者は私だ!」
「警護だなんて。仰々しい隊列を組んできましたけど、これまで猫の子一匹飛び込んでくるようなトラブルもないじゃないですか」
「お前がそう思っているからこそ――護衛任務は大抵ここからが一番危険なんだ。目的地につく直前直後、目的を果たした直前直後、必ず通る場所、気の緩むタイミング。そこが一番狙われやすく、一番守りにくい。ここに至るまでは何事もなかったにせよ……いや、何事もなかったからこそむしろこれから何か起こるかもしれない。それに……」
「モーランの言う通り、明日の道行きは人数が多ければいいってものじゃないですよ。ここで少し減るくらいは問題ないでしょう。夜にはパラクダンダ砦に着きますし、そうすれば砦の警備兵に協力してもらえばいい。カルナス団長だって、部下が苦しんでるすぐそばで僕とよろしくやってるのは後ろめたいでしょう?」
「よ、よろしく、とか、そういう問題じゃない! これは我が騎士団に任じられた責務なんだ。お前に万が一のことがあったら……」

 多い被さろうとする自分の胸を押し返すカルナスの手が気に入らなくて、シルヴァリエは露骨に不機嫌になった。

「万が一のことがあったらカルナス団長の責任問題? 団長を解任でもされます? 別にいいじゃないですか。カルナス団長が騎士団を追われたらその時は――」

 そこまで言ってシルヴァリエは口をつぐんだ。居場所がなくなったカルナスを、自分の元に引き取る。アンドリアーノ家の私設騎士団の団長とでもなんでも名目をつけて館を与え、自分のそばにおき愛人とする。シルヴァリエはカルナスの望むすべてを――自分からの自由以外のすべてのものを与える。その代わり、カルナスは公私に渡る己の全てをシルヴァリエに捧げることになるだろう。生涯に渡って。これまでにも何度も浮かんでは消えたその空想はとても甘美だったが、それを言えばカルナスがどういう顔をするかはわかっていた。王立騎士団歴代最年少の鬼団長として国中の畏怖と尊敬を集めているカルナスが、大貴族とはいえ個人に仕えることになるのは明らかな零落だ。ましてその主人の寝台に侍っているとなれば周囲からどういう視線を受けるか――シルヴァリエにとっての甘美な夢は、カルナスにとってはただの悪夢に違いなかった。

 かつて、叔父のスナメリオがシルヴァリエにそう迫り、シルヴァリエがそれに恐怖したように。

「その時は――僕のペットにでもしてあげますよ。カルナス団長、気持ちいいの好きですもんね? 今日だって、みんなが寒いのを我慢しながら馬を並べてる中で、全身ビショ揺れになりながらイキ狂ってましたもんね? それとも途中で気絶しちゃったから覚えてないんですか。後ろで散々イッたあと、僕の膝の上でおちんちんいじられて涎垂らしながらあーうー言ってたのは記憶にないのかな」
「シルヴァリ……」
「僕はあの時、このまま時が止まればいいとさえ思っていたのに。雪のなかで立ち往生して死んでしまえばいいとすら思っていたのに。カルナス団長は明日以降の警護の心配ですか。お疲れ様ですね」
「シルヴァリエ、シルヴァリエ、私は」
「もう黙って。この話は終わり。ここからはカルナス団長の夜のお仕事の時間ですよ」
「シルヴァリエ!!」

 カルナスが声を荒げた。それはかつてシルヴァリエをすくみ上がらせた鬼団長としての一喝そのもので、シルヴァリエは思わずカルナスの肌から手を引いた。

「私の立場を案じて言っているわけではない! これは騎士団長として、この状況の責任者としてのまっとうな判断だ! 砦についてからも各自には役割を振ってある。傷病者というのが誰かもわからないのに、安易に離脱を許可などできるか! それに、グランビーズの様子も……っ!」

 カルナスの言葉を止めたものは、自分の意志ではなく、喉仏を押しつぶすほどに強く掴むシルヴァリエの手だった。

「僕の腕の中で他の男の名前を呼ぶなって、言いましたよね」
「シ……ル……ヴァリ……エ……」
「今日は……最後の夜くらいは優しくするつもりだったのに。もう喋らないでください。殺してしまいたくなる」
「手を……はなし……」
「カルナス団長が自分で引き剥がして。僕からは、はなせない」
「……シ……ル……」

 カルナスの手が、自分の首を締めあげるシルヴァリエの手にかかり、そのまま力なく床に落ちた。カルナスの目の端から一筋の涙が流れ落ち、シルヴァリエの手が思わず緩む。急激に大量に戻ってきた空気に呼吸器が耐えられなかったようで、カルナスは背を丸めゴホゴホとむせた。

「……殺せるわけもないんですけどね」

 シルヴァリエが自嘲するように笑った。

「明日からはこんなことはしません。ルイーズ・ヴォルガネットのいい夫になりますよ。カルナス団長、あなたが望んだ通りに。ラトゥールとヴォルネシアに栄光あれ。くそくらえ。カルナス団長、あなたが僕の初恋で、そして最後の恋でした。あなたにとってはいらないものでも、僕にとってはそうでした」
「シルヴァリ――」
「そんな顔しないでください。ちゃんと、ちゃんとやりますよ。明日からは。僕は大アンドリアーノの後継者で、ルイーズの夫で、ラトゥールで将来を約束された大貴族なんですから……心配しないで。約束は守ります。カルナス団長があれだけ自分を犠牲にしたんですもんね。大丈夫、無駄にはしませんよ」
「ち――違う!」

 カルナスがシルヴァリエに掴みかかった。

「犠牲だとか……そういうつもりじゃなかった……私だって……このまま時が止まればいいと――このまま雪に埋もれて死ねればいいと、どれだけ望んだか――」
「カルナスだんちょ……」
「だが、ダメだ! だめ、だめなんだ。シルヴァリエ、お前は、お前はちゃんと、ちゃんと幸せになるべきなんだ。大貴族として、生まれた家と育ちにふさわしい、一点の曇りもない名誉と栄光に包まれて」
「名誉だ栄光だなんて。大貴族なんて裏じゃ汚いことばかりですよ。そんなもの――」
「そんなものでもだ! 初めも最後もあるものか。私には、お前、お前、お前、お前だシルヴァリエ。お前だけが特別で、お前以外に、お前以上に特別な人間など、私は知らない、いない、誰もいない、知らない、お前以外にいない、そんなものはいない、私は他に知らないんだ!! だから、だから――」

 それきり言葉に詰まってしゃくりあげはじめたカルナスを、シルヴァリエは恐る恐る抱き寄せた。カルナスがそっとあずけてきた体重を受け止めたシルヴァリエの目の中に、暖炉で燃える炎が静かにゆらめいていた。
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